久慈町の昔の出来事

 むかしの久慈浜(一) 「明住会たより」第3号(平成7年6月1日)

水戸黄門が久慈浜にやってきた 「わがまち久慈浜」(明治以前)
1306年(嘉元4年)今の久慈浜あたりを久慈荘といった。当時は地頭や荘司が租税を取り上げ人民を役した時代。
1594年(文禄3年)久慈浜は佐都東に属していたがこの年に久慈郡久慈村となつた。
1563年(文禄5年)現在の離山に久慈城が有り、城主の宇佐美三九郎は北畠顕家軍の相馬盛胤の攻撃を受け、城は未完成のまま落城廃城となる。
1691年(元禄4年)水戸光圀は、西山荘に移ってから、度々久慈浜で魚釣り、地引きなどで遊び楽しみ、大橋村の郷士大内家へ泊まっている。
1786年(天明3年)  6月12日の夕方から十七日の朝まで降り続いた雨で 増水し、久慈河口付近の提防は切れて、大洪水となり南町明神社まで川になる。新宿は残らず床上浸水し泉町は天王社下まで水が寄せ、新宿の権現山まで船が往来したのである。この洪水によつて逃げおくれた者や家を流されたのをはじめ、牛馬、船など失い、この世の地獄となつた。
1836年(天保7年)水戸藩家老山野辺義観が海防総司に任命され、助川に城堡を築いた頃、久慈浜の行戸の鉄砲場に異国船見張りがあって万一に備えていた。
(参考文献〉日立市史・茨城の域館・久慈町郷土史・日立市史編さんだより

むかしの久慈浜(二) 「明住会たより」第号(平成年2月1日)

久慈城について
 日立市久慈町を流れて日立港にそそぐ久慈川を真下に「離山」という台地がある。もとは、この台地は南高野から続いた丘であったが堀り割られて新しい宿となった。このため南高野から離れ現在では離山・即ち割山といい、新宿町の名が残されている。
 この離山の東端で久慈川を真下に見おろす場所に久慈城跡がある。この離山の台地は約二百メートルに近い高さと、東と南が絶壁となっている。郭内は四十アールほどの平地になっている。太平洋を眼下に久慈川と茂宮川の流れを外壕に外敵を遮断するといった築城であった。
文禄5年(1563)城主の宇佐美三九郎は、北島顕宗軍の相馬盛胤の攻撃を受け落城廃城となる。現在は墓地や鹿島に通ずる国道二四五号線のために古城跡の面影が消えています。  (参考、茨城の城館、久慈町郷土史)