むかしの久慈浜(三) 「明住会たより」第3号(平成7年6月1日) |
久慈町の大火(明治時代) |
二月は年問を通して火災の最も多い時期である。耐火建築や消防施設の整備されない昔の浜の木造家屋は火災ともなれば、ひとたまりもなく焼失、類焼も免れない、久慈町も現在は火災件数も昔と比較すると少なくなっているが、ちょっとした火の始末をする心の用心こそ火災防止の基本であろう。 |
◇明治33年8月28日(1900年) 28日午前7時30分頃、久慈町北端字滑戸高地(行戸)の民家より発火し、折柄北風はげしく瞬く間に戸数250余、寄留者、居宅者を合わせて312戸を焼き払い同じく8時半頃鎮火せり。右に付き県庁及び郡役所より救護の手続きを為し久慈小学校を以て救護所と定めた。 |
◇明治35年3月25日(1902年) 久慈郡久慈町の字新宿地内より午後4時40分頃発火、棟数49、戸数70戸を焼払い同10時鎮火せし由にて、原因は前日の夕刻、火を焚き其灰を破れ笊に入れ軒下に積み置きしより発火せしものなりといふ。尚は聞くに出火の際は北風強烈にして多賀郡坂上村及び石神村の消防組は数台の啣筒を使用して消防に尽力せしも火勢強烈にして如何ともなし難かりし由にて人畜には死傷なかりしも300余名の罹災者は、海岸の砂又は他人の軒先に露宿し居り、惨状目も当てられぬ計り、郡役所より直ちに救助の手配し居るといふ。 |
(明治35・3・27いはらき新聞) |
むかしの久慈浜(四) 「明住会たより」第6号(平成8年6月1日) |
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久慈海水浴場と久慈濱音頭=(昭和) |
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昭和三年十二月二十五日、常北電鉄(日立電鉄一常北太田、大裟駅問が開通した。昭和五年七月には、漁業者の一部に海産業を衰退させるとして反対の声もあったが、浴客を吸収して町発展に努めようと久慈川の向うの海岸(向こう渚)に海水浴場が開設されることになった。久慈川には無料の町営による渡船が設けられた。また久慈町二業組含(旅館・飲食)が主催となり、町及び各種団体と常北電鉄が共催で太田、、久慈濱間切符購入者は一般で二割引、団体は三割引と便宜を図り、利用者の獲得に努めた。七月十五日には久慈濱芸妓の総出勤で大漁節磯節踊り等にそえ「久慈濱音頭」を初公開した。また山のような景品、宝探しが人気を呼んだ。 |
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次がその時に公開された久慈濱音頭である。=民謡 久慈濱音頭= |
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一、俺等 久慈濱 荒波育ち アドント大浪も 荒けりゃ 気も荒い アドントドント散れドント散れ散れドントナ |
四、大漁見たけりゃ 久慈濱ござる鰹、鰯の山の山 |
二、どんと砕けて あの散る浪はあれは俺等の度胸ためし | 五、鮎は久慈濱、鰹は灘よわしは新宿籠の鳥 |
三、わしと行かぬか 久慈濱へさんま地引の網引きに | 六、行こか村松、晴嵐どころ虚空蔵さま お祭りに |
◇参考・.昭和六年七月前年度渡船で不便であると釜坂地内でやる。 |