芸 能
常陸之国御諏訪太鼓
 全国的に名高い「信濃之国御諏訪太鼓」に因んで、昭和57年に創設され、その勇壮活発な旋律は六番から成り立ち、諏訪住民の心意気をよくあらわしています。最近では昭和60年のつくば科学博に出演しました。
 
 史 跡
諏訪梅林
 天保4年、第9代水戸藩主斉昭公によって造園されたと伝えられています。約300本の梅が毎年春には芳香をただよわせ、これをめでる観梅客が年々多くなっています。明治の歌人長塚節もこの地を訪れ「雪降りて寒くはあれど梅の花散らまく惜しみ出でて来にけり」などの歌を詠んでいるほどです。園内に郷土出身戦没者の慰霊塔・石仏群が祀られ、心和む散策の地となっています。
 
諏訪の水穴
 神仙洞の別名にふさわしく鮎川の川淵で険しい崖裾の石灰岩にポッカリと□をあけて清流を吐き出す鍾乳洞で、信州諏訪に通じているといわれ、昔万年太夫夫妻は洞に入って帰らぬ人となったと伝えられています。洞内に数基の石碑が立ち、「二の戸」の先に光圀公の碑文があるといわれ、その先は今もなお未知の世界となっています。
 
多宝院朝日祐誠の墓
 江戸時代の学者で字を玄明・旭峯道人と号して、京の聖護院法橋家より院号を賜ったとされています。「日本詩選」「車記」「歴朝詩纂」「役公徴業録」などを著して常北の七友・松岡七賢人といわれ、水戸藩からも優遇されていました。碑文は長久保赤水(松岡七賢人の1人)が書いたもので、その墓石は現在小咲山に建っています。
 
諏訪鉱山旧跡
 この鉱脈の発見は、佐竹時代といわれています。北の沢鉱山として採鉱を開始したのは明治30年で、のち大正6年日本鉱業に経営が移されて諏訪鉱山と改められ、昭和40年まで行われていました。朝鮮動乱後の最盛期には鉱山従業員240人、社宅115戸、北の沢住人、1、000人に達し、小学校を初めさまざまの施設が立ち並び賑わいを呈していました。今はその面影を当時の石垣等に偲ぶのみとなっています。
 
仏舎利塔
 人類の平和と幸福をこめて、インド独立の父、故ネール首相から贈られた仏舎利(紀元前478年に入滅された釈尊のご遺骨)を奉安した塔です。
 昭和39年宮田町に建設されて、仏舎利塔国際巡礼団により仏舎利奉安式が行われました。その後、昭和51年、ここ富士山の山腹に移されました。
 
諏訪台遺跡
 現在の諏訪小学校敷地は「台」とばれ、昭和50年の発掘調査でさまざまの縄文土器が出土しました。土墳から木の実の色々の石器が見つかつて、縄文時代の人々が食料を蓄えていたことが証明されました。出土した品々は、日立市郷土博物館に保管されています。
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