日立村物語

一山一家(いちざんいっか)


本山の社宅 大正3(1914)年撮影
☆ 住まいの充実
久原は日立鉱山創業初の通達第一号で「鉱夫の家賃は廃すること」としました。
修繕・電気・水道・し尿処理などの費用も無料となりました。
最盛期には人口一万人を超えました。

供給所
☆ 暮らしを支えた供給所と通い
鉱夫は給料の八割を記入された「通い(かよい)」と呼ばれる通帳を渡され、その範囲内で「つけ」で購入できました。

価格は市中より一から二割安く、特に米の価格は一升18銭に据え置かれ、一升50銭に高騰した大正7年も据え置かれました。
日立製作所関係者も利用しました。

本山小学校  大正4(1915)年撮影
☆ 充実した学校
最盛期は児童2,500人を数えた本山小学校
現在は、あかさわ山荘として利用されています。

大雄院病院  大正3(1914)年撮影
☆ 県内初の本格的病院 大雄院病院
病院は従業員のみならず、地域住民にとって非常な助けになりました。
日立製作所関係者も利用しました。

無賃電車(むちんでんしゃ)
☆ 市民の足 無賃電車
鉱山電車は、明治41(1908)年より、助川荷扱所〜大雄院の製錬所までの5.3Km間に電車を走らせ、鉱石の搬入、製品の搬出のために作られました。

また、通勤通学などに無賃電車として提供され、多くの人々が利用しました。
昭和35(1960)年、トラック輸送に替わり、約半世紀のお役を終えました。

共楽館(きょうらくかん)
☆ 華やかな夢をはこんだ共楽館
共楽館は、従業員に飲酒に代わる遊興または精神的慰安のために大正6(1917)年、歌舞伎座を模して作られました。
総建坪約340坪、定員1,500名

歌舞伎・映画・大相撲ほか中央よりの出演で盛り上がり、素人演劇など娯楽の殿堂として、更に、修養・教化の場として活用されました。

この建物は久原の一山一家主義唯一の重要有形遺産です。