那珂通辰(みちとき)
2009.03.13 TOPへ
◇天皇を巻き込んだ南北朝の争いが何故、茨城・常陸の国での戦いなのか整理してみる。それも甕ヶ原(みかのはら)合戦というから、興味を惹く。那珂通辰は那珂城主だが、近辺の優勢な佐竹の圧迫を受けていた。それも那珂氏の領地長倉の地にも佐竹義綱(よしつな)の居城を構えてしまった。元弘3年(1333)11月陸奥の北畠顕家(あきいえ)は鎌倉で謀反を起こしていた足利尊氏追討を命じられた。陸奥、相馬、中村、いわきの兵5千余騎は、陸前浜街道を南下し、甕ヵ原・水木に来た時には途中から加わった応募兵を加え、8千余騎にもなっていた。一方、尊氏から好遇を受けていた佐竹貞義は尊氏から指示を受け、北畠軍の南下を4千余騎で阻止にかかった。それが、水木神社付近で一大休憩をとっていた時に佐竹軍が猛撃を加えた。優勢な佐竹軍の背後から猛打撃を加え、佐竹軍は常陸太田に退却した。これが那珂通辰軍なのである。那珂通辰は鎌倉、京都と逃げる尊氏を北畠顕家軍と共に追い、戦果をあげた。後に帰郷した通辰は佐竹と戦い、常陸太田の正宗寺(しょうじゅうじ)の裏山で自刃した。
◇写真は白アジサイの芽である。(写真3月10日)
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