ずっと一緒




    ━━━死者に寄り添う花がある



                 美しくも儚い  その花の名は━━━




孫策がその身に不吉な呪を受けてから床に臥す時間が日に日に多くなる。
ついには房に閉じ篭り彼に面会できる人物は限られるまでになった。
呉の中枢に位置する場所にいる者達だけで密やかに孫策から孫権への引継ぎが
行われ始める。
その指示をしたのは他でもない孫策本人で、
孫権は「兄上らしくない!」と初めは嫌がっていたが、孫策の只ならぬ覚悟と説得に
首を縦に振った。
彼の妻の大喬は既に彼との別れを済ませ妹の小喬と建業から離れている。
彼ら夫婦の間に深い信頼と愛情があるからこそ彼の側に彼女が居ない事は伝えておこう。
現在彼の側にいるのは親友であり義兄弟でもある周瑜ぐらいなものだ。
孫策の額には呪を施した于吉の顔のようなものが醜悪な形として現れている。
そんな彼を見て大喬は取り乱し気を失ってしまった。
だからこその早めの別れを決断したのは孫策である。
聡い大喬は孫策が言いたい事もして欲しい事もすぐに気づき、今に至った。


「なぁ、周瑜」
「何だ孫策?」
「いや、何でもねぇ」
専用の房で、布団に視線を落として苦笑する孫策に周瑜が声を掛ける。
「姫の事か?」
目線を周瑜に戻すと軍師としての彼でなく、親友としての彼の視線があった。
「姫に会いたいのだろう?会えば良いではないか」
「・・・無理だろ、大喬と同じ目に遇わせちまう」
恐れられるぐらいなら、ずっと気に止ませるぐらいなら、死ぬまで会わなくて良い。
孫策の額に異変が起き始めてから彼は尚香を近づけさせなかった。
只一人、家族で孫策に会えずに居るのは彼女一人だ。
「・・・あいつは、優しすぎるから」
「それでお前は後悔しないのか?」
「あぁ、それで良い」
泣かせたくないんだと呟いた言葉が周瑜の胸で消える事無く焼きついた。


着々と孫権への引継ぎが進むのと同じように孫策の身体も、もう癒える事はない病のように
症状は悪化していく。
そんな中、孫策の耳に尚香の最近の様子が入って来た。
毎日一人で城を抜け出し、何処かへ出かけているらしい。
しかもその時間帯はまちまちで、夜中に帰って来る事も間々あるようだ。
それだけでも頭が痛いのに怪我を負って来る事もあるというのだから、孫権や呂蒙も
黙ってはいなかったのだが、一向に止めようとしない上数日居なくなる事もあるという。
何度注意しても部屋に監禁しても、見張りの兵を気絶させてまで居なくなるのだ。
既に馬も二匹ほど潰している。
そんな事を聞いてしまっては自分が出るべきであろうと考え、朝の軍議に久方ぶりに孫策が現れた。
隣には周瑜の姿もある。
額には布が幾重にも巻かれ、他の者への配慮を窺わせた。
身体は痩せ、力なく椅子にもたれてはいるが、その目は昔と同じ孫策を見る事が出来る。
「・・・尚香を呼べ」
使いをやってしばらく待つと、回廊を走る音が聞こえ勢いよく扉が開いた。
跳ねる呼吸を整え、上座に座る孫策を見る。
その目には兄に会えた嬉しさよりも、彼の身体を気遣う困惑の色が見て取れた。
「ここへ来い尚香」
自分のすぐ前を指差し彼女を呼んだ。
何も言わずに尚香は従って彼の前に立った。
「呼ばれた理由はわかってるよな?」
怒気を含んでいる彼の声に怖気づく事もなく彼女は正面から向かい合う。
「・・・最近の、私の行動についてでしょう?」
「そうだ、みんなにどれだけ迷惑を掛けているか考えてるか?」
「・・・わかってるわ、わかってるわよ!でも止めない、絶対止めない!!」
「尚香!」
乾いた音が部屋に響く。
殴られた尚香よりも殴った孫策の方が驚愕していた。
打った右手と尚香を信じられない目つきで交互に見やる。
周りの者達も口出しも何も出来ずに二人を見守る事しか出来ない。
静寂の中、赤くなり始めた左の頬を押さえながら彼女は孫策を前から見据え言う。
「罰だと言うなら何度殴られたって構わない、それでも許せないなら両手を切り離しても良いわ」
でも、と彼女は一旦区切る。
そして息を小さく吸ってから断言した。
「絶対止めないから」
何かしらの覚悟を秘めた眼差しと口調に、孫策も側に居る周瑜も何も言葉に出来なかった。
しばしの沈黙の後、尚香は反転して扉へと向かう。
孫策は何も言わない、ただ伸ばしかけた右手が尚香を呼び止めたかった事を語っていたが、
結局その手も空を切って自分の胸へ戻った。
そのまま尚香は振り向く事無く出て行き、彼女の気配は遠くへと去って行く。
孫策は椅子に深く座って、自分の右手を眺めながら深く息を吐いた。
そんな様子を気遣ってか周瑜が声を掛ける。
「孫策、疲れただろう?そろそろ戻ろう」
「・・・あぁ、そうだな」
周瑜に支えられながら部屋を出て行く孫策を見送る将達の視線は鈍く、悲壮感さえ漂う。
見送った後、孫権は人知れず息を吐いた。
尚香の考える事がわからない、兄に何て声を掛けたら良いのかもわからない。
だが何もしないわけにはいかないと自分を叱咤して、妹の部屋へ足を運ぶ。
尚香の部屋の前には侍女が待機していて、孫権の姿を認めると深く会釈をした。
「尚香はいるか?」
「おられます。しかし、誰にも会いたくないと仰っておりますが」
「話がしたい」
「・・・しばしお待ちください」
侍女の一人が中へ入って間も無く、『姫様!?』と甲高い声が聞こえた。
「何事か!」
部屋へ足を踏み込むと侍女が必死の形相で孫権の前で跪く。
「天井の板が外れていて、姫様が何処にも居られないのです!!」
「何と!脱走を図ったというのか」
「も、申し訳ありません!」
「・・・よい、お前のせいではない」
侍女を下がらせ、孫権は頭を抱える。
「尚香、何を考えておる?」
その声に答える者はいない。



「・・・なぁ」
「大丈夫だ、あまり気に止むな」
「やっぱ周瑜にはわかっちまうんだな」
「何年お前と一緒に居ると思っている、言いたい事や聞きたい事ぐらいすぐわかるさ」
そっかと力なく笑う孫策に笑いかける。
自分の右手をずっと眺めている孫策が、ようやく口を開く。
悲痛な、やりきれない思いを含めた声で。
「初めて殴った」
大事に、大切にしてきた妹を自分の手で初めて打った。
あの時の衝撃が痛くてたまらない。
「尚香を、殴っちまった」
右手を丸めて力を込める、見る見るうちにその手は赤く染まった。
自分で自分を許せなかった、ちゃんと話を聞いてやるんだったと後悔ばかりが募る。
「姫は、わかってるさ。お前がどんなに姫を大切にしているか、どんなに愛しているか」
孫策の肩を優しく叩く。
「それに、もうすぐ姫の動向も把握できるはずだ」
「周瑜?」
孫策の目に映ったのは、やり手の軍師の顔だった。


数日後の夜、燭を一つだけ灯して孫策と周瑜は語り合った。
昔の事、これからの孫呉の事、そして愛する者達の事。
まるで急かされるかの様に孫策は一気に語った。
そして尚香の名前が出て、その動きは止まる。
「尚香の・・・」
「孫策?」
「尚香の声が聞きてぇな」
「・・・孫策」
「あいつのさ、兄様大好きって声が消えかけてんだ」
ずっと聞いてた声なのに、何だか遠くその声が揺らいでしまってる。
あの声で、あの笑顔で、もう一度言ってもらえたら。
そんな願いを持ってしまった。
もう会わないと決めたはずだったのに、いとも簡単に脆くなる。
この腕でもう一度抱きしめられたら、と魂が欲した。
もう一度、もう一度だけ声か聞きたい。
「兄様大好きよ!」
急に聞こえた声に、一瞬幻聴かと疑ったが
振り向いた先に、彼女は泣きながら立っていた。
「・・・尚、香?」
「・・・兄様」
「尚香!」
孫策の腕が広げられ、そこへ尚香は飛び込んだ。
「ごめんなさい、見つけられなかった、兄様を助ける方法・・・ずっと探してたのに」
「仙人を探してたんだろ?」
驚いたように瞬きさせる尚香に少年の様に笑いかけた。
「周瑜が調べてくれたからな、大体の話はわかってる。ありがとな」
「でも、でも見つけられなかった!」
于吉と同等の力を持った仙人なら何とかしてくれると一縷の望みを持って
町や遠い集落にまで赴いて、信憑性の薄い話でもとにかく当たった。
その最中賊に襲われる事もあったし、酸漢に絡まれる事もしばしばあったけれど、
兄を助けたい一心で尚香は動いた。
「その気持ちだけで良い、もう無理すんな」
子供の様に泣きじゃくる尚香を優しき抱きしめる。
「いやぁ!どうして?どうして兄様なの?」
連れて行かないでと人知れない者に向かって叫び、置いていかないでと孫策に向かって泣いた。
尚香の頭をゆっくりと撫でて落ち着かせようとした刹那、あの忌まわしい痛みが襲う。
「・・・ぐっ」
額を押さえて痛みを堪える。
「兄様!?」
「典医を呼んで来る!」
典医に何が出来るわけでもない、しかしそれでも何かに縋りたいと思うのは周瑜も同じだった。
一人居なくなっただけでこんなに寒いものかと孫策は何処かで思う。
頭が弾けそうな痛みに耐えて、
「大丈夫だ、心配すんな」
心配そうに見つめる尚香に何とか返すが、そろそろだろうなと思ったのも事実だ。
「・・・お前に謝っときたかった」
そっと左頬に触れる。
「痛かったろ?」
自分の痛みもほっといて、他人の痛みを気にする優しい兄が悲しいくらいに好きで、
涙が零れ落ちた。
何か言いたいのに、声が上手く出てこない。
嗚咽がばかりが漏れる。
尚香も頭の隅ではわかっていた、孫策は長くないと。
「俺はもうすぐ居なくなるけど、心はお前と一緒にいるから」
孫策が諭す様に話してくれたおかげで、酷く小さかったけれども
声が出た。
「・・・ずっと?」
「ずっとだ」
胸の位置にある尚香の顔が少し微笑んだのがわかる。
それでもきっと悲しい思いもたくさんするだろうし、傷つく事もあるだろう。
そんな時に少しでも自分が存在した事が力となってくれたらと孫策は想う。
「ずっと一緒ね、兄様」
尚香という欲しかった暖かみが腕の中にあって、安心できた。
これで、やっと。
「兄様?」
「幸せになれ、尚香」
目を閉じた先に光が見えた。
「っ兄様!?」
「ずっと、側に居るからな」
小さな声がすっと切れるように消える。


「孫策!」
典医と孫権を連れて戻った周瑜の目に映ったのは、安らかな顔で彼女にもたれる
孫策と、涙を流しながら彼を抱きしめる尚香の姿だった。



   ━━━ 暗闇に浮かぶ赤い赤いその姿

 

                     優しく悲しいその花の名は

 

                                  死者も愛する曼珠沙華 ━━━







<了>

兄妹愛の話が書きたくて書いちゃいました。
しかも死ネタかよって感じですが、思いついちゃったもんはしょうがない!
しかし、シリアス過ぎましたかね?