あなただけですよ




「伯言ってあんまり笑わないのね」
孫策の下へ仕える様になってまだ日も浅く、仕事という仕事はなかったが
呉国の公主の相手としては毎日の様に駆り出されていた。
今日も一緒に他愛無い話をしていると、彼女はいきなり言ったのだった。
「・・・そうですか?」
「うん」
あっさり返ってくる返答に自分は何と返して良いかわからず困って溜め息をつく。
ふと気づくと息が掛かるか掛からないかのギリギリの処まで彼女の顔が近づいていた。
「笑って」
只一言そう言われて無下に断ることも出来ず、笑顔ってこうだったっけか?と想起して口角を上げてみるが、
目の前の少女は可愛くなーいと口を尖らせた。
「男が可愛く笑ったってしょうがないでしょう?」
「あら、笑顔の素敵な男性はもてるのよ」
「別にもてたくないです」
「どうして?」
それこそ返答に困る。
初めて出会ってからまだそんなに月日はたっていないが、既に自分の心の中には
恋心が芽生えてる。
他の女性など視線の中に入れようとも思わない。
「まぁ良いわ。でもね伯言」
何ですか?と視線を向けると彼女は破顔した。
「私が楽しい事をいっぱい教えてあげる!」
だからね、笑ってばっかりで大変になるはずよと陸遜の手を取って
兎の様に飛び跳ねた。
公主らしからぬ仕草だが、そこが彼女らしさであり、魅力だと知っている。
「それは覚悟をしておかないと」
「あ、今笑ったね」
彼女の声に我に返る、笑った?自分が?
そんな彼を翡翠の瞳は嬉しそうに見守る。
「ね、笑うといつもの何倍も素敵よ」
彼女が嬉しそうに笑うから、知らず知らずに吊られていた。
「あなただけですよ」
「何が?」
「私を簡単に笑わせてしまうのは」


私に笑顔をもたらしてくれ

笑むのが苦でないと思わせてくれる


「尚香様には敵いませんね」


それから幾年の月日を重ね、陸遜は呂蒙や周瑜と一緒に軍師としての仕事をこなすようになって、
彼女は彼女で将に混じって戦に出るようになっていた。
幾度の困難や窮地をも乗り越えて二人は成長し、呉国の要となる。
尚香の側に居る時の陸遜は平時においては絶えず穏やかに微笑んで幸せそうに見えた。


しかし彼女が蜀の劉備へと嫁ぎ、無理やり帰らされ、
呉蜀間の亀裂が彼女の短い生涯を閉じさせた。


「恨んでいますか?」

「それともいつもの様に微笑まれているのでしょうか?」


そんな事を問い掛けても帰って来るのは水の流れる音だけで、彼の耳には
泣いている様に聞こえた。
長江のほとりに佇んで、小さな水溜りの様になっている川面に映る自分の顔をじっとみる。
見慣れたはずの顔が自分の物でない気がして、昔やった様に口角を上げてみた。
上げたはずの口角は上がってなくて、笑ったはずの目元は歪んでて、
映る表情は泣いている様にしか見えなかった。


「っ、あなたがいないと笑うこともできない!」


川面に落ちる水滴が波紋を広げ

歪んで映る彼の姿を静かに受け止めるだけだった



<了>