俺から離れないで下さい




父上が死んで、その原因だった甘寧が呉に加わって、
自分の気持ちはどうしようもなく憤り、それでも呉の為と考えるならば
抑えるしかなかった。
しかしそんな簡単に許す事は出来ず、余裕がない感情を曝け出すのにも疲れ、
感情全てを持て余すようになった。
安穏とは程遠い心情は、睡眠という逃げ道さえくれず、
そんな日々を過ごしているとやはり身体は正直なもので。
「・・・だるい」
独り言を漏らしてみるが、自分の乾いた笑いしか返って来なかった。
さすがに辛くなって昼寝でもしようと人通りがない場所を選らんだ・・・つもりだった。
「・・・?」
気配を感じて辺りを見回す。
薄暗い回廊の端、側にある部屋は殆ど使われない物置。
そんな場所に先客はいた。
まさかこんな所にと思う人物が。
「姫様?」
「あら、公績じゃない」
「あら、じゃないですよ。何だってこんな辺鄙な場所にいるんですか?」
「そんなのどうだって良いのよ。ほら、ここに座んなさい」
「どうだってって・・・あー、はいはいわかりました」
尚香の剣呑に近い視線に負けて、隣に腰を下ろす。
それを見て彼女は満足そうに笑む。
凌統からすれば、今はあまり人の近くにいたくないのだが、尚香に敵う訳もなく
言う事を聞くしかない。
視線を合わさないようになるべく外を見ていたが、ぐいっと顎を上げられて
不意に視線が交わってしまった。
覗き込まれた瞳の、奥の部分が見透かされそうで恐怖さえ覚える。
「やっぱり、寝てないのね」
「・・・わかります?目の下に隈まで出来ちゃって色男が台無しだ」
わざと軽くおどけてみせた。
胸の奥のどす黒い部分にあなたが気づかなければそれで良い。
尚香の両手が頬を包み込むように触れた。
暖かい体温がじんわりと伝わってくる。
翡翠の光が揺れた気がした。
「・・・姫?」
「な、んで?何で一人で抱えてるのよ!?」
凌統の両目が驚いたように大きく開く。
「気づいてないとでも思ってるの?あなた食事すらまともにしてないじゃない!」
凌操の葬儀を終えた後のこの数日間、凌統は食事も睡眠もまともに取っていない。
身体は欲しがっているのに心が受け付けない状態だった。
呉への忠誠と親の敵を討ちたい気持ちの葛藤は病に似ている。
「私は、あなたを助けられないの?」
「・・・気持ちは嬉しいんですけどね」

この虚ろなくせに激しい憎悪の感情は
優しいあなたをズタズタに切り裂くかもしれない。

「あなたを傷つけるのは嫌なんです」
「・・・馬鹿、馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿」
「ちょっと言い過ぎじゃ?」
苦笑する凌統に大きく息を吸って尚香は思い切り吐き出した。
「一人じゃどうしようもない位辛いくせに、私にぶつける位しなさいよ!」

自分の中に溜め込んで壊れるぐらいなら私にぶつけて、どんな事でも受け止めるから。

凌統の襟首を掴んだまま俯く。
お願いだから、一人で抱え込まないでと蚊の泣くような小さな声が聞こえた。
「・・・何で泣いてるんですか?」
「泣いてなん・・・公績が泣かないから代わりに泣いてるの!」
彼女が泣きながら怒るものだから凌統は小さく噴出した。
「いや、笑っちゃいけない場面だってのはわかってるんですけど・・・ちょっ」
肩を震わせる尚香が凌統の両頬を引っ張る。
相当怒っていたのかと思えば、その力は意外にも優しかった。
「もっと笑って」
「いひゃ、むひでふ」
頬を引っ張られたままでは言葉は上手く出なくて、そんな彼を見て尚香は笑う。
「怒りたい時も、泣きたい時も、笑いたい時だって一緒に居てあげる」
だから、一人で抱え込まないでよと頬を引っ張る手が今度は包み込んだ。
「姫、それって愛の告白?」
「そっ、そん、そんなわけ・・・あるかもしれないけど」
「へー、光栄だねぇ」
「もうっ!さっきまで死にそうな顔してたくせに!!」
ぱっと凌統を突き放して立ち上がる。
そのまま踵を返して立ち去ろうとしたが、凌統が呻いて胸を押さえたので駆け寄って
抱き起こした。
「公績!?」
「・・・なーんて、騙される姫も可愛いなぁ」
にかっと悪戯が成功した事を喜ぶ子供のように笑う凌統にデコピンを食らわす。
「心配して損した!」
そう言いながらもどこかほっとした様子を見せる尚香を軽く抱きしめた。
「公績?」
「あー、すいません・・・今、すっげぇ眠い」
尚香を抱いたまま眠りに落ちかける。
「姫が側に居れば眠れるみたいです」
そのままの体勢で床に転がる。
「ほんとに寝るの?」
「駄目ですか?」
「駄目なわけ、ないじゃない」
涙声の彼女の声が嬉しそうだった。
頭に回された優しい腕に安堵感を覚える。
「俺から離れないで下さい」
子供じみた我侭だとは思ったが、今は彼女に甘えていたい。
「離れないわよ」
彼女の声が耳からじゃなく胸から染み入ったような気がした。
もう少しだけ話したかったが、強烈な睡魔に呑み込まれ久しぶりの眠りへと落ちていく。
その心地良さに諦めて身を任せた。

「おやすみ、公績」

落ちる間際に耳元で聞こえたのは彼女のとっておきの優しい声だった。



<了>