もう止まれないの<下>
陸遜は回廊を急いだ。
急いでる理由は何となく。
ただ、側に行きたいだけなのかもしれないと苦笑する。
それでも、あなたには聞きたい事があるのだと心の中で反復させた。
人通りがほとんどない場所で探していた彼の人は、外をじっと見つめている。
「尚香様」
「伯言、どうしたの?」
話しかけられた尚香は、ゆっくりと陸遜の方を向く。
「少し聞きたい事があって」
話と聞いた尚香の眉がピクリと怪訝そうに動いた。
「兄様達に言われて?」
「いえ、私が個人的に話を聞きたいと思っただけです」
「私の戦についてかしら?」
ただ頷いただけの陸遜に小さな溜め息をついた。
「理由なんかないわ」
「嘘でしょう?」
即返った問いに尚香はうっと呻く。
「あ、逃げないで下さいね。私の言う事を聞かないともう戦には出られないそうですから」
「そ、それは戦においての話でしょう!」
「ですから、お聞きしているのですが」
にこりと笑った。しかし目は笑っていないのを尚香はわかっている。
逃げられない、思いついたのはそれだけだった。
「・・・・・・」
「お聞かせ願います」
観念して下さいとばかりに尚香との間合いを徐々に詰める。
迫る陸遜が怖かったわけではない。
一人でも、理由を知っている者が居ても良いかなと思っただけだ。
気づいた時には語り出していた。
「有望・有能な武将を亡くすよりも、私が死んだだけの方が
呉にとってはずっとずっと有益なのよ」
「・・・どういう事ですか?」
「興覇、もしくは公績が先陣を切るとするじゃない?でも、そこで伏兵にあったり、
罠があったりしたら被害は甚大でしょう?」
彼女の言葉に隠れていた物が見えてきた。
「でもね、私だったら。私だったら損はないのよ」
彼女が戦において誰よりも早く先陣を切る理由がようやく理解できた。
先頭部隊が斬りこんで行った時に、敵の罠が潜んでいたら自分が罹って後続部隊が
回避出来れば良いし、もしこのままでは敵わないと思ったりもしくは死んだならば
、他の隊は逃げる事も陣を立て直す事さえ出来る。
武将だと言い切れない女の弱さを、せめて何かに活かしたいと彼女は願っていた。
全ては呉の天下の為、兄達や他の者を守る為。
その為ならば自分の身は顧みない。
死にたいと思っているわけではない、他の者達を生かしたいと心から思っているだけだった。
そしてそれを周りには一切漏らさない。
「止める事は出来ないのですか?」
答えはわかりきっている。
「もう止まれないの」
そう言って微かに微笑んだ。
「・・・あなたは」
あなたは真っ直ぐ過ぎるのです
惨酷な程に
そして
「優しいのですね」
「やめてよ伯言、それじゃ私が良い人みたいだわ」
「実際良い人だと思います」
「違うわ。私は、我侭で自分勝手に戦陣を駆ける、ただのじゃじゃ馬姫よ」
そう思って欲しいと願っているのか、
それで良いと自分に言い聞かせている様でもあった彼女は、強くて脆い。
「伯言。他言は無用よ、わかってるわね?」
尚香の瞳が光を弾いた。
強気な態度と裏腹に、お願いよと懇願している様にも見える。
「・・・わかりました」
「その間は何かしら?」
怪訝そうに陸遜を見上げる。
「いえ、私から他言はいたしませんよ」
「そう、なら良いわ」
安心したと微笑んだ彼女は、軽い挨拶を済ませてその場から離れた。
気配が無くなったのを確認し終えて、陸遜は壁に背を付ける。
「と、いう事だそうですよ。甘寧殿」
横目でちらりと覗くと、ばつが悪そうに頭に手をやって甘寧が出てきた。
「んだよ、気づいてたのか」
「これでも武将の任も背負っていますので」
苦笑する陸遜に、あぁそうだったなと返す。
「どうされますか?」
「どうって、何がだよ?」
「尚香様ですよ」
「止めろって言ったって聞かねぇんだからしょうがねぇ」
なぁ、そうだろ?と問いかけたのは陸遜にではなかった。
甘寧の後ろから複雑な表情をした凌統が一歩前に出て来る。
「凌統殿もおられたのですか」
軽く目を開いた陸遜に短くあぁと返す。
「・・・・・・」
「何か言えよ」
「うるせーよ。言葉が上手く出てきやしねぇ」
彼女の覚悟は想像していたのより悲しかった。
自分のこの手は何の為にあるのかとさえ考えさせられた。
しばしの沈黙が訪れる。
「わかった事が一つあります」
陸遜が不意に言葉を漏らす。
甘寧と凌統の視線が注がれた。
「今まで以上に彼女が愛しく、守りたいと、強く思いました」
「・・・ふっ、はは、言うじゃねーか陸遜!」
「からかわないでいただきたい!」
「からかってねーよ、俺と同じだ」
甘寧が不適に笑っていた。
陸遜は苦笑しながら返す。
「・・・負けませんよ」
「上等!」
「おいおい、俺を置いて盛り上がるなっつーの」
まったく、こいつらに出遅れたとあっちゃ凌公績の名が廃る。
悩むのがどうかしてると思うほど答えは簡単だった。
「姫様を守る、それは俺も同じだ」
「共同戦線ですね」
陸遜に大きく頷いて返す。
甘寧も続いて首を縦に動かした。
その後の戦では先発部隊と一緒に右翼左翼が絶妙に展開し、後方では
巧妙な策を披露する軍師の姿が常に見られた。
こうして孫呉の名は大陸全土へと知れ渡るのだった。
<了>