天国?地獄?
鍛錬場の中心で、周りの視線を一斉に受ける二人がいた。
快活な声を出しながら、素早い動きで技を繰り出す弓腰姫の異名を持つ孫尚香。
もう一人は、鈴の武神と世に名を轟かす甘寧だ。
「大分腕が上がったんじゃねぇの」
「じゃあ次の戦は連れてってもらえるかしら?」
「いや、それはわかんねぇけど」
彼女の答えに僅かに苦笑した。
妹溺愛の孫権がそう簡単に首を縦に振るわけがないのは周知だし。
それは尚香本人もわかっているから気分は複雑だ。
「まぁ、俺からも進言しといてやるから気長に待ってな」
「私は今すぐにでも前線で戦えるんだけど」
「いやいやいや、それはさすがに無理だろ?」
「えー?」
そんなやりとりをしながら鍛錬を続ける二人。
甘寧がふと回廊を見やると鋭い視線をぶつけてくる二人組みがいる。
陸遜と凌統だった。
二人の険しい表情に思わず唇の端が上がる。
優越感ってのはこういうものなのだと実感した。
それが向こうからも見えたのか、二人の体が一歩前に乗り出す。
その行動さえ甘寧にはたまらないほどの優越感と変わる。
視線と思考が恋敵に移って甘寧に大きな隙が出来た。
そこに尚香の投げた圏がどストライクとばかりに額に激突する。
彼の誤算だったのは、鍛錬の相手が決して油断の出来ない者だった事。
そして自分が他の事を考えながら物事を行えるほど起用ではない事だった。
練習用とはいえ硬い木で出来た圏が額に直撃したのだ、無事で済む筈が無い。
意識が遠のき、無様に後ろへと倒れこむ。
「興覇!!」
尚香の声が遠くに聞こえた。
額に冷たい感触を覚え、ゆっくりと瞼を上げる。
遠ざかっていた意識が少しずつ覚醒していった。
「興覇?」
太陽の光を背にして自分を心配そうに見つめる尚香の顔が目に入る。
「あー、どのくらい気ぃ失ってた?」
「ほんのちょっとよ」
しばらく動かないでねと付け足され、彼はバツが悪そうに頭を掻いた。
だが今の自分の置かれている状況を確認して驚く。
甘寧の頭は尚香の膝の上に乗せられ、水気を帯びた布で額を軽く押さえられている。
自分の意志とは反対に体が飛び起きた。
しかし急激に動いたせいで頭がクラクラと回る。
「馬鹿、だから動かないでって言ったのに!」
ふらつく体を引っ張られ彼女の膝にまた収まった。
「ね、もう少しおとなしくしてて」
子供をあやすように言われ、何だか気恥ずかしい。
尚香の顔を真っ直ぐに見れないのが少し悔しかった。
餓鬼だなぁと思いつつ、この憧れの膝枕という状況はおいしすぎる。
しかも相手は惚れてる女で、恋敵が見ている前で・・・と
ほくそ笑んで目線だけで辺りを伺うが陸遜と凌統の姿は見えない。
見せ付けてやろうと思ったのにと舌打ちをするが、邪魔されないだけでも十分だと思い直す。
二人きりで、しかもこんなおいしいシチュエーションは中々巡ってこない。
天国ってこんな感じか?
「興覇?」
「ん?」
「さっきから不機嫌そうになったり、ニヤニヤしたり・・・頭おかしくなった?」
尚香の手痛い一言も今は気にならない。
彼女の後頭部に手を添えて自分の方へ引き寄せた。
鼻が触れるか触れないかの処で止める。
ここで愛の言葉を囁くつもりだったが、足元に刺さった矢が邪魔をした。
「んな!?」
まさかまさかと思いつつ飛んできた方向を振り返る。
其処に弓を抱えて佇んでいたのはやはり陸遜だった。
「すみません、まだ弓の扱いは慣れてないもので」
「嘘ついてんじゃねーよ、お前今まで何回火矢の作戦を決行してきたんだよ?」
とのつっこみも甘寧の顔を掠め、地面にめり込んだ凌統の最強武器怒涛がかき消した。
「あー悪い悪い、手が滑って」
全然悪びれた様子も見せずに今まで何処にいたのかいきなり背後に姿を現す。
「姫、お怪我はありませんか?」
「え、えぇ、大丈夫だけど」
「俺にも謝れ!」
「さぁお手をどうぞ」
がなる甘寧を無視してしゃがみ、尚香の手を取って立つ。
好いところだったのを邪魔された挙句、彼女からも離され青筋がこめかみに浮かび上がる。
「何だってんだお前ら!」
「いやですね、尚香様の後は私達の鍛錬に付き合ってくれる約束を忘れないで下さい」
いつの間にかすぐ側に来ていた陸遜が普段どおりの笑顔で答える。
「待て待て待て!そんな約束した覚えは無い!」
「俺達二人が約束したのを覚えてんだからしてあんだよ」
もちろん嘘なのだが攻めが二人で自分の尊重を守りきれない。
しかも予期しないところから追い討ちをかけられた。
「そうだったの?ごめんね、長い時間興覇をつき合わせちゃって」
「は?ちょ、ちょっと待て」
「いえいえ、大丈夫ですよ。これからたっぷりと付き合っていただきますから」
甘寧が何か言うより先に陸遜が尚香に答えてしまった上に、返答の邪魔もされ
何も言えないでいると、何かを思いついた彼女に腕を引っ張られた。
「興覇、ちょっとしゃがんで」
「?」
尚香の言うとおりにしゃがむと、額に軽いキスが降ってきた。
呆ける三人の前で、はにかんだ様に笑い。
「早く瘤が治りますようにっておまじない」
それじゃね!っと軽い足取りでその場から消えた彼女を視線で追いかけ、
しばらく無言で立ち尽くす。
が、幸せに浸る時間は長くは続かず、背後で燃え盛るような殺気にそろりと振り返る。
予想通りに彼らは世界一とも言える笑顔で青筋を浮かべていた。
目の奥に黒い炎が火柱を上げている。
逃げだそうとするが両側から捕まえられて、動けない。
「覚悟・・・してくださいね」
「あの世で親父に詫びてきな!」
その後甘寧は額の瘤など気にならない程のダメージを受け、
しばらくの間愛しい彼女の側には近づけなかった。
まさに天国を地獄を一日で味わった男であろうことはいうまでもない。
<了>