新しい命を
凱旋した蜀軍の兵士達。
その中に目当ての人物を見つけた。
無事だった、それを知るだけで安堵感が心に満ちる。
今は無事を知った事だけで十分。
声を掛けるのは後にしよう、そう思った刹那、彼の表情に影が差した事に気づく。
無性に気になって、側に寄った。
「勝ったっていうのに浮かない顔してるのね、どうかしたの?」
彼の隣を歩きながら尋ねる。
「いや、特別何かあったわけではない」
「そう?」
「あぁ、軍師殿の策が見事でな、こちらの被害は殆ど受けていない」
じゃあどうして?と問いたい言葉は口から出ない。
なぜあなたは、あなただけは辛そうなの?
聞いてはいけない気がしたから、言葉にはしなかった。
「それより奥方、ちゃんと大人しくしてたんだろうな?」
「してたわよ!」
自分でも驚く程自然に反論できて、内心ホッとする。
「なら良いんだがな」
いつもと同じく意地悪く笑って、歩む速度を上げて行く。
しかしふと影が差す表情に、尚香の胸に不安がよぎる。
「孟起、具合でも悪いの?」
「大丈夫だ、心配するな」
それだけを言うと、後ろ手に軽く手を振って行ってしまった。
止まったまま馬超の背中を見送って呟く。
「そんな顔して大丈夫なんて」
胸の位置にある手をぎゅっと握った。
「信じられるわけ・・・ないじゃない」
掠れた声は誰に耳にも届かない。
眠っている間、しばし悪夢にうなされる事がある。
大抵戦の終わった日にそれは訪れ。
酷く馬超を苦しめるのだ。
家族や親族の命を奪われ、そして自分も数え切れない程の命をこの手で摘み取って来た。
生きなければいけなかったし、仇も取りたかった。
辛酸を何度も味わったが、それでも生きている。
しかしそれは誇りではない。
最近は戦う事に意味が見出せない。
俺はあと何人、殺せばいいのだ?
そんな事ばかり考える。
辛いんだと認める事も苦痛であって。
救いの手が欲しいくせに、求めない。
夢の中でさえ、戦い抜いた。
知ってる顔も、知らない顔も。
何百、何千という人間を倒した後に、広がったのはただの漆黒。
恐れも、悲しみも、何もかも飲み込むようなその世界。
自分の力だけでは立っているのが辛くて、槍を杖代わりに何とかその場に踏み止まった。
声も、息を吐く音さえも其処にはなくて。
忌まわしい!と吐き捨てる。
それはこの世界へなのか、自分へなのか。
何とか一歩踏み出そうとした刹那、遠くから声が聞こえた気がした。
「孟起」
呼ばれて振り返る。
俺を呼ぶのは誰だ?
「孟起」
澄んだ高い声。
この声の主を、俺は知っている。
「孟起!」
耳元で聞こえた声が意識を覚醒させた。
瞼を上げると顔を覗き込む尚香の表情が泣きそうで、頬に手を伸ばす。
「どうした?」
「・・・馬鹿。それはこっちの台詞でしょ」
馬超の手に自分の手を絡ませ、彼女の頬に涙が伝う。
「ずっと、うなされてたんだから」
夜中にも関わらず心配で来てくれたのだろう。
上半身を起こした彼を頭を彼女が抱きしめる。
慣れた人肌が心地良かった。
忌まわしい思いが消えて行く気さえする。
気付いたら誰にも言った事のない話を零してた。
「悪夢を、見るんだ」
小さく呟く声に、優しく「うん」とだけ返す。
「殺された者達が助けを請い、殺してきた者達が嘲笑う」
気づくと一人、立ち尽くしている。
そんな夢を何度見ただろう?
あと何度見るのだろう?
誰か教えてくれと何度叫びそうになっただろう?
「ね、ちょっとだけ聞いていて」
上から降る声に、首を縦に振る。
「命はね、一つ消えたら何処かで一つ生まれるの」
「人じゃないかもしれない、だけど生を受ける」
「だから、ね。消える命にも意味があるの」
「あなただけが苦しむ必要はないのよ」
子供に諭す様に話す彼女の声は穏やかで、慈愛そのもの。
いつの間にか目を瞑って聞いていた。
癒しを与えてくれる彼女が側に居る。
それで全てが消えるわけではないけれど、まだ生きていけると思った。
「すまぬな」
欲しい言葉はそれじゃない。
「・・・孟起はね」
一番にわかっていて欲しいのは。
「孟起は、新しい命を守って行く事も出来るから」
だから、怖がらないで。
だから、謝らないで。
そして、生きて。
「馬孟起である事に誇りを持って」
悪夢なら、私が助けてあげる
自分の生き方を迷わないで、恐れないで
土に返るその時までは、あなたはあなたである事を大事にして欲しい
<了>