高く掲げて




「尚香殿、どうした?」
庭上で掌を上に向けて佇む姿に思わず声を掛けていた。
声を掛けた主を振り返って彼女は漏らす。
「雨が降りそう」
「雨は嫌いかい?」
「・・・そうじゃないけど」
言葉とは裏腹に少し拗ねた様な表情を覗かせる彼女を手招きで呼ぶ。
後一歩の距離で止まった尚香の目線と同じ高さに屈んでにっこり笑って言った。
「雨が降ったら散歩に行こう」
「雨が降ったら?止んだら、じゃなくて?」
「そう、雨が降ったら」
あまりにもほのぼのした笑顔で言われたものだから、少々呆けてしまった。
「どうだい?」
問われて逆に聞いた。
「もし、降らなかったら?」
「降らなかったら遠乗りでもすれば良いさ」
「出来れば遠乗りの方が良かったのだけど、そうもいかないみたい」
尚香の言葉が終わらない内に、ポツポツと小さい粒が落ちて大地に染みを作る。
「それじゃあお誘いをお受けしますか」
悪戯っぽく笑って言えば、劉備は無言で微笑みながら手を差し出した。
何処から持って来たのかわからない傘を一つ差して、二人は誰も居ない庭を歩く。
「玄徳様、変わり者って言われない?」
「あぁ、よく言われたよ」
「雨の中を散歩しようとなんて思わないわよ普通」
「そうかい?でも、意外と落ち着くんだよ」
立ち止まって静かに大きく息を吸う彼を習って、深呼吸してみた。
湿った空気が優しく感じる。
「こんな静かな時間を楽しめるんだ、もったいないだろう?」
そう言ってにこりと笑う彼につられて微笑んだ。
「太陽の下で見る草木や花々も素晴らしいとは思うが、雨の日もまた違った魅力がある」
劉備の視線を追いかけた先にあるのは秋桜。
その隣には竜胆が咲いていた。
雨の滴が花弁や葉に当たって撥ねる。
わぁと思わず漏らした感嘆の溜め息に、隣の男は満足そうに頷く。
「雨の中と雨上がりと、それぞれ違った一面が見れるものなんだ」
「雨も楽しみ方次第ってわけね?」
子供の様な笑顔を作った彼女にそういう事さと微笑み返した。



そんな幸せな時間を過ごしたのはどれくらい前になるのだろう?
今、眼下に広がるは呉蜀の総力戦とも言うべき兵の数。
呉蜀の同盟に亀裂が入り、蜀の主は決戦を挑んで来た。
呉の主の孫権は守りの戦いとし、これを受ける。
そして劉備の妻の尚香は呉軍の将として戦場に居た。

誰かこんな未来を予想していた?
誰がこんな戦を仕向けたの?

本当は戦いたくない、しかし立たねばならない理由がある。
そっと本陣で控える孫権を見つめた。
彼女の視線に気づいた彼がどうした?と尋ね、尚香は何でもないと返す。
そうだよね?と自分の心に話しかける。
そうだよね?私が終わらせなくちゃいけないよね?
父が、長兄が、築いて守って来たこの国を、地に塗れさせるわけにはいかない。
例え愛した人が敵であっても。

「さようなら、玄徳様」

別れの言葉は小さく、周りの雑音と共に掻き消えて行った。
変わりに響いたのは兄の号令。
その声に応えて馬上で高く腕を上げた。
「行くわよ!」


下を向くな、振り返るな

手を、腕を、声を、高く掲げよ

この命、天を掴むまで止まれはしないのだから


<了>