突発的事件
甘寧は廊下を歩いていた。
一見、何らおかしな所はない普通の廊下だったが、今日は少し違っていた。
「おわっ!?」
突然何かに足を取られ、甘寧は盛大に転倒した。
「な、なんだこりゃ!?」
よく見ると、支柱に細い糸が括り付けられ、それが脛の高さに張られていた。
明らかに人の手によって仕掛けられたものだ。
「いいザマだな、甘寧」
物陰から一人の青年が姿を現す。
「凌統……てめぇの仕業かよ」
「さぁ、知らないね」
凌統は甘寧を見下ろし、ふっと鼻で笑った。
「そんな見え見えの糸に気付かない方が鈍いんじゃね? それでよく戦場に出てられるな」
「てめぇ……いい加減にしとけよ!!」
凌統が甘寧を目の仇にし、度々因縁をつけてくるのは、もはや日常茶飯事であった。
稀にだが、このような子供じみた悪戯を仕掛けてくる事もある。
周囲はこれを恒例行事のようなものとして見ているが、される方はたまったものではない。
日頃の鬱憤が積み重なり、甘寧の怒りは頂点に達していた。
甘寧は廊下に設置されていた花瓶を掴むと、凌統に向かって投げつけた。
「当たらねーよ」
凌統はそれを軽く避けた。
花瓶は床に叩きつけられ、粉々に割れる甲高い音がする―――と思われた。
しかし。
「あうっ!?」
凌統の後方で、予想とは違う鈍い音と、二人のものではない声が響いた。
「あっ……!!」
甘寧の目が驚きに見開かれた。
凌統も何事かと後ろを振り向く。
「!!」
散乱した花と、花瓶の破片の中に、孫尚香が倒れていた。
「姫さん!!」
「姫!!」
二人は即座に孫尚香の元に駆け寄った。
「おい、大丈夫か!? しっかりしろ!!」
甘寧は孫尚香の身を起こすと、両肩を掴んで揺さぶった。
しかし、何の反応もない。
「馬鹿、揺するな!! 頭打ってるかも……」
凌統が慌ててそれを静止する。
いつになく動揺した様子で、孫尚香の顔を覗き込んだ。
孫尚香の体は、頭から胸の辺りにかけて、水で濡れていた。
おそらく花瓶は頭を直撃したのだろう。
とりあえず、出血はないようだ。
「どこかに寝かせた方がいいけど、さすがにここじゃまずいな……人目にもつくし」
「じゃあ、そこの部屋に運ぶぞ!」
二人は孫尚香を連れ、手近にあった部屋に身を隠した。
そこは小さな物置だった。
薄暗かったが、明り取りのための小窓が付いていたので、視界に不自由はない。
「ったく、こんな事になるとはな……誰かさんが花瓶なんて投げたせいで」
「てめぇがよけたからだろ。大人しく当たっとけば良かったんだよ」
「無茶言うなっつーの!」
二人は気絶した孫尚香を床に横たえた。
相変わらず彼女は目を覚まさない。
「……もし死んでたらどーすんだ」
「馬鹿野郎、んな事あってたまるかよ!! 生きてるに決まってる!!」
心臓に手を当てて鼓動を確認する……事はさすがにできなかったので、ちゃんと呼吸しているかどうかを見る事にした。
胸の辺りに目をやると、微かにではあるが、規則正しく上下している。
どうやら軽い脳震盪を起こしているだけのようだ。
「生きてるか……」
二人は安堵の溜め息をついた。
とりあえずの無事を確認した事で、心に少し余裕が生まれた。
甘寧は孫尚香の胸元に視線を向けたまま、ぽつりと呟いた。
「姫さんって……結構でかいな」
「……ん?」
凌統もそこを見た。
「……確かに」
こんな所を近くで堂々と見られる機会は、そうそうない。
思わず凝視していると、甘寧が頭を殴りつけた。
「いてっ! 何すんだよ!?」
「やらしい目で見てんじゃねぇよ」
「はぁ? 先に見てたのはそっちだろ……こんな時に何考えてんだか」
「お前のその目付きがやらしいんだよ。姫さんもこんな目で見られて可哀想になぁ」
「これは生まれつきだ!」
殴り返してやろうかと凌統が思った時。
「ん、んう……?」
孫尚香が意識を取り戻した。
「いたたたた……」
頭を押さえながら上半身を起こす。
「大丈夫か?」
「大丈夫ですか?」
二人は孫尚香の近くに寄ると、ほぼ同時に言葉を発した。
「…………」
「…………」
『何同じ事言ってんだよ!』とばかりに、互いを軽く睨み付ける。
そんな二人の様子に気付いているのかいないのか、孫尚香は焦点の合わない視線を辺りに巡らす。
「ここは……一体、何がどうしたの……? なんか濡れてるし……拭くもの、ない?」
「あっ、はい……これでいいですか」
凌統は近くの棚に都合良くあった布切れを取り、孫尚香に差し出した。
「ありがと。で……どういう状況なのか、説明してもらえる?」
孫尚香は頭を拭きながら尋ねた。
花瓶が当たった箇所が痛むのか、時折顔をしかめる。
「こいつが花瓶を投げて、それが姫に当たったんですよ」
「責任擦り付けんじゃねぇよ! そもそも、てめぇがあんな下らねぇ小細工を仕掛けたから……」
「分かった分かった!!」
言い争いに発展する前に、孫尚香は二人をなだめた。
「つまり、私はあなたたちの喧嘩に巻き込まれたって事ね」
自分が花瓶をぶつけられたと知ると、本来ならば怒りの感情が湧くはずなのだが、それより先に呆れてしまった。
「喧嘩するのはいいけど、できれば誰もいない所でやってくれる? 他の人に迷惑だから」
「俺は喧嘩する気なんかねぇけどな。こいつが勝手に来るだけで」
「売られた喧嘩は必ず買ってる癖に、説得力なさすぎ」
「だーかーらー、そういう所が……もうっ」
止めても結局これだ。
「どうすればいいのかしら……」
孫尚香は思わず天を仰いだ。
「きゃあ! こ、これは一体!?」
突然、部屋の外から侍女のものらしき声が聞こえた。
廊下で割れたままになっていた花瓶が見つかったらしい。
「……そーいや、花瓶そのままだったな」
「状況が状況だったしな……」
あの時は、二人とも倒れた孫尚香しか目に入らず、花瓶にまで気が回らなかった。
「どうかしたのか?」
「あっ……その、花瓶が割れてて……」
「あれ、この花瓶って確か、この前殿が貰ったやつじゃないか?」
「そうだそうだ。名前は忘れたけど……どこかの名家と会談した時だな」
どうやら、続々と人が集まっているようだ。
「なんか大事になってきたみたいだな」
「出るに出られねぇな……」
「そりゃ、そうよね……」
三人は外に気付かれないよう、声を潜めた。
「それより、どこぞの名家から貰ったってマジか?」
「えっ? そ、そうね……確か、友好の記念とかで貰った花瓶があったような……」
「……それってかなりやばくね?」
「かなりどころじゃないかも……」
「やれやれ、そんなのを投げるとはね。後先考えないからこうなるんだよ」
「てめぇに言われたくねぇよ」
「これは何の騒ぎだ?」
「呂蒙殿!」
聞き慣れた声がした。
「げっ、おっさんかよ……最悪だな」
「ねぇ……そろそろ謝ってきた方がいいんじゃない?」
「同感だな」
「あなたもよ! 連帯責任なんだから」
孫尚香は凌統の頭を軽く小突いた。
「分かりましたよ……しかし、姫にまで殴られる羽目になるとは……」
「日頃の行いのせいだな。いい気味だぜ」
「俺は別に、甘寧に突っ掛かるぐらいしかしてないはずだけどなぁ」
「それで十分だろうが!!」
「ちょっ、甘寧、声が大きい!」
「ふむ……なるほど……」
「呂蒙殿、いかが致しましょう?」
「こんな事をするのは、あいつらだと相場が決まっている……そして、多分この辺りに隠れているだろうな」
物置の扉が、勢い良く開けられた。
「!!!!」
そこには、驚きのあまり顔を引きつらせ、硬直している三人の姿があった。
「……やはりな」
「おっさん……」
「呂蒙殿……」
「言い訳はいい」
呂蒙は、甘寧と凌統の言葉を遮った。
「お前達、揉め事を起こし過ぎだ。姫まで巻き込んで……これは、殿に報告する必要があるな」
「待って、呂蒙!」
孫尚香が間に割って入った。
「その花瓶、私が割ったの。うっかりぶつかって、落としちゃって……二人のせいじゃないわ」
「……!?」
「……本当ですか?」
「本当よ。自分の立場が悪くなるような嘘つくわけないでしょ。人が来たからつい、二人を連れて隠れちゃったの……ごめんなさい」
孫尚香は、呂蒙に深々と頭を下げた。
彼女の後ろで、甘寧と凌統が顔を見合わせる。
「姫、頭を上げて下さい……それでは、殿にはそのように報告致しますが、よろしいですか?」
「うん、よろしくね。ここは私が片付けておくから、皆も行っていいわ。騒がせてごめんね」
孫尚香の言葉に、侍女や兵士達は退散した。
彼らがいなくなったのを見届けると、呂蒙も一礼をして立ち去った。
その場には三人のみが残された。
孫尚香は割れた花瓶の残骸に歩み寄り、破片の一つを拾い上げた。
「あーあ、派手に割れちゃって……よく無事だったわね、私」
「あのよ、姫さん……ぶつかったとこ、大丈夫か?」
甘寧が孫尚香の背中に、恐る恐る声を掛ける。
孫尚香はゆっくりと振り返った。
甘寧と凌統が、ばつの悪そうな顔で佇んでいる。
孫尚香を傷つけてしまった事と、呂蒙から庇ってもらった事に対する罪悪感が、その表情から見て取れた。
孫尚香は重苦しい雰囲気を払拭するように、明るく語りかけた。
「もう、二人ともそんな顔しない!! 私は大丈夫よ! だって今、普通にしてるでしょ? あれは不幸な事故だったのよ、うん」
「それじゃあ……」
今度は凌統が口を開いた。
「どうして、俺達を庇ってくれたんです? 姫には、何の得にもならないじゃないですか」
「それは……」
孫尚香は二人に歩み寄ると、それぞれの手を取り、握り締めた。
右手で甘寧の手を、左手で凌統の手を。
「仲間の窮地を救うのは、当然だから」
曇りのない、明るい笑顔。
何故彼女は、二人のせいで傷を負っても、二人の仲の悪さを散々見せ付けられても、こんな顔ができるのだろう。
今の二人には眩し過ぎる、しかし心に何か暖かいものが染み入ってくるような、そんな笑顔だった。
甘寧と凌統は思った。
せめて彼女に対しては、これ以上迷惑はかけないようにしよう。
その笑顔が、本当に曇ってしまわないように。
いつもいがみ合っている二人が、この時は同じ事を考えていた。
「……ありがとな、姫さん」
「ありがとうございます……姫」
「……うん!」
そんな二人を見上げ、孫尚香は満足そうに頷いた。
「じゃあ、この花瓶片付けよっか!」
<了>
美幽さんから相互リンク記念に頂きました〜!!
思わず胸を眺める二人にそうだろうと笑い、尚香の優しさに
ほわ〜っとしてしまう可愛い作品に拍手ー!
美幽さん、ありがとうございます!!
ちなみにリクエストしたのは甘→尚←凌でギャグでも何でも良いというものでした〜