ひろば87-1

20歳の百年塾 市民と行政が協働

学ぶ そして まちづくりへ

 20周年を迎える百年塾は "まちづくりである"とし、単に学ぶだけでなく実践する生涯学習を進めてきました。市民と行政が協働で推進計画・体制をつくり、情報の共有をしながら役割も分担してきました。

 昭和61年6月に予算ゼロで、公募の委員を含めた17名の「ひたち生き生き21生涯学習市民会議」が発足し、市民の視点とペースで市民が実践できる生涯学習計画「百年塾プラン」を策定しました。
 発足当時に関わった人たちの百年塾への思いや心に残る事柄などの寄稿をお願いしました。

草創期の頃

太田美恵さん
  昭和63年、日立市の社会教育課は社会教育指導員の民間人初登用を行ない、私はその折採用された四人の女性社会教育指導員の一人として、泉ヶ森公民館へ赴任したところでした。
 時あたかも昭和から平成に移りゆく頃、当時高齢化社会にむけて、文部省は生涯学習を重点的に推進する方針をとり、それに呼応する形で飯山教育長は「百年塾」を立ち上げました。他の自冶体が学習中心型をとる中、百年塾は生涯学習とまちづくりを一体化させた画期的なものとして市民に紹介され、昭和63年から平成元年にかけてはPRイベントがいくつも行われました。事業部会副部会長としての私は東奔西走の日々でした。その中で、百年塾活動を支える公民館の講座、市民の趣味の集い、グループ活動を紹介するビデオのナレーションを書く仕事等は今でも楽しい思い出の一つです。初々しい気持で登録した市民教授、その縁で今はポルトガル語を使って臨時採用教師として働いています。


六島田鶴さん
官民一体で
 私は、昭和62年準備副委員長として理念の樹立や組織などの全体像の作成など創立総会に備えました。総会後、副本部長を12年、学校部会推進委員を6年務めました。官民一体で進める百年塾運動は珍しく、視察が多かったこと、キャッチフレーズ・シンボルマークの選定、学校開放意識調査など役員も推進委員も夜遅くまで頑張ったことが懐かしい。
 平成4年第1回フェスタを新都市広場中心に盛大に開催、みかんとサンマの無料配布も人気を集めた一つでした。張り切った私はサンマ配りに夢中、おかげでサンマの臭いが衣服について困ったことも思い出します。また、多くの素敵な友人に出会えたことは大変嬉しいことです。みなさんと共に楽しく努力を続けられた事に感謝しつつ、更に自己発見の旅を続けたいと考えています。


清宮烋子
名前の誕生
 生涯学習を日立市でもスタートするため教育委員、社会教育委員、学識経験者などから教育委員会が選出した委員のほか、市報で市民も公募した。私は社会教育委員ではあったが、一般市民として応募し4名の中に入った。
 先進地の見学や関係する書物を読み、文部省が紹介する講師を招いての勉強会などが開かれ、着々と日立市民生涯学習の形が立上っていった。
先ずはネーミングということでそれぞれに案を出し合った。若い人たちはカタカナというかハイカラが多かった。シティ、ユニバシティ、ライフetc。戦前、戦中派は漢字が多かった。私は百年塾という案を出した。一応板書はしてもらえたが、当時「塾」というのはエスカレートしていると顰蹙をかっていた丁度その時、当時教育長だった飯山利雄さんがひょっこり顔を出され、ボードに張られた紙を見て「"百年塾"いいね」と言われそれに決まった。


永井久善
ともに20年
 「ひたち生き生き21生涯学習市民会議」に、私は社会教育委員と文化事業団の立場で参加しました。この会議は当時の中曽根首相の提唱する「臨時教育審議会」に刺激された日立市の臨教審となったと思います。国の動きに啓発されて「市民会議」17名の委員による熱心な2年間の審議で、市民の視点でまとめた施策を63年3月、飯山教育長を通じ立花市長に答申しました。そして6月には準備委員会、8月には百年塾推進本部が誕生、特色ある市民主導型の生涯学習運動がスタートし20年の歳月を迎えます。
 元来、教育の仕事は息の長いものであり、「ローマは一日にして成らず」「河清百年を待つ」の思いです。私は当初から今日まで関係した責任も含め、ささやかな努力を続けております。このことが私の生涯学習だとの思いで取り組んでいます。



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