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        日立地域の政治風土
                             講義 石井仁志
               1 始めに
 
 日立の明治以降の日本鉱業と日立製作所の発展の歴史からお話しして、現在の日立市の政治風土をお話しするつもりです。
 石井は2003年4月に市会議員として立候補し、お陰様で当選できました。ここでお話しすることは、この選挙を通して当時から薄々感じていたことです。
 学者ではありませんので、議論が少し荒いですし、勝手な仮説がたくさん出てきますが、その辺りの粗雑さは、政治家現職の感覚としてご容赦ください。
 
 要約すると、鉱工業の発展に伴って主に東北各地から集まった人達が、この日立の主流であって、政治風土はほとんど伝統・一般に既成勢力・保守と言われる部分を吹っ飛ばして、保守勢力の強い茨城にあっても特殊な政治風土を形成した、というものです。
 
 資料は主に1955年発行(昭和30年)発刊された『近代鉱工業の地域社会と展開』(東京大学出版会)によります。東大の後に偉くなる経済学者などがたくさん参加した、調査報告書です。昭和30年に刊行されていますので、現時点から見ると企業発展のピーク時の調査に思えます。
 
 勝手な推論の前提に、石井仁志の出自を説明して置いた方が理解しやすいと思います。
 
 父親は小木津町の東連津川支流の最上流の農家の次男坊です。この実家は私が小学生の時(昭和30年頃)はまだ電灯が引かれていませんでした。水車小屋で自家発電のなどを試みていました。
 父親は明治29年生まれで、高等小学校を出て、山一つ越えて、日本鉱業にお茶くみで入社したと聞いています。最後は真面目な会計担当として本社の課長ぐらいまで行ったようです。
 母は98歳になりますが、実家は現在の常陽銀行日立支店のある場所で、大きな呉服屋さんを営んでいたとのことです。私は諏訪台(日立市役所裏)の役宅で生まれたようです。本人の記憶はありませんが、まあ日立の土着といって良いと思います。
 ただし、学生時代から東京へ出て、新聞社勤務が58歳まで。会社を退職して半年で選挙に立候補しています。ずっと東京生活ですから、選挙のための地盤は全くありません。組織もなく、他人の選挙の手伝いもしたことはありませんし、大みか町でコミュニティを中心として少しボランティアをしていただけの実績です。
 大みか町には会社関係を除いて、町方と言われる市会議員がこれまでいませんでした。お陰で当選しましたが、このまちには、こんな立場の候補者を受け入れる政治風土があったということです。
 
            2 人口推移
 
 後に日立市となる日立村と高鈴村の人口推移を別紙に示しています。並列して日本鉱業と日立製作所の社員数を記載しました。
 人口が2〜3千人の寂れた村に久原房之助によって日立鉱山が開発され、金銭的には相当な苦労をしているようですが、明治の殖産興業かけ声にのって人を集めます。
 久原を慕って秋田の小坂町から指導者クラスを何人か連れてきますが、鉱山の急速な発展に地元の人間はすぐに足りなくなり、主に東北地方から人を集めます。
 明治35年当時、現在の日立市の範囲である多賀郡、久慈郡で最も人口が多かったのは久慈町3,684人、次いで国分村3,614人、豊浦町3,334人と主に漁業関係が産業の主流です。
 伝統や文化は、通常経済的な余裕の上に生まれます。下部構造と言われる経済がしっかりしていなければなりません。
 日立村と高鈴村は赤沢銅山といわれた江戸時代から鉱毒問題なども含めて、それほど豊かではない寒村だったようです。
 そして、ここで強調したいのですが、山あいの鉱山周辺では集められた人達の住居が会社の鉱山住宅に集められ、一山一家というように既存の集落とは隔絶した生活環境を作っていました。
 植民地に進出した帝国列強が植民地に作った一種の租界状態です。当然周辺に食料調達手段もありませんから、供給所というこれも租界状況の生活環境を作ります。
 この「一山一家」の名目は、低賃金の言い訳にも使われます。供給所では主食など生活物資の総てを格安でツケ売りし、お酒の販売量まで管理しています。
 
            3 日立の商業
 
 この供給所方式はのちに、日本鉱業から独立する日立製作所にも、親会社を習って受け継がれます。ここに、日立の商業的な発展が出来なかった理由があります。
 通常人口が増えて町が形成されると、従来の居住者は集まってきた人間を相手の商売が出来るはずです。供給所外にも少し飲食店や商店もできたのですが、供給所があるために商業で財をなす店はありませんでした。
 例えば城下町であった水戸や常陸太田からは商業資本が発展して、県内各地に進出しました。
 従来の土着だった地主層などが、商業的な恩恵を享受できれば、自分たちの伝統文化を守れたはずですが、このような理由で資本蓄積がかないませんでした。鉱山住宅などには行商が入り込んだようですが、元来寒村で地主が万屋を営んでいた程度の商業機能しか持たなかったため、余所からの行商人に席巻されたのが現実のようです。
 大正3年頃から始まった大雄院、新町の給料日に合わせた「会計市」も、余所からの行商者が露店を並べて、かえって地元を駆遂していったようです。(243p)
 さらに下がって、実際に商店を始めたのは、会社の景気動向によってリストラされた人達が細々と食いつなぐケースが多かったようです。
 また、供給所の仕入れについても、大きな商業者がいなかったこともあるのでしょうが、生鮮品を除いて、ほとんど地元からの仕入れはありません。東京や常陸太田、水戸辺りから買い付けているようです<日製供給所の仕入れ先>日立付近10,414千円(23.6%)水戸付近18,851千円(452.7%)茨城県内8,029千円(18.2%)茨城県外6,891千円(15.5%)合計44,185千円。(288p)
 そして戦後は日立のまちは灰燼と化します。せっかく店舗を構えた商業者も総てを失います。一方、鉱山の供給所は米や味噌など主食に限定されていましたが、日製の供給所は従業員の生活レベルに合わせて、きらびやかな商品を用意しました。兎平の供給所は240人の従業員を擁し、店構えも百貨店形式だったとのことです。
 昭和29年時点の調査では、日製の供給所ですが、支払い給与の30%を供給所の売り上げとして回収されています。別の統計では手取り賃金の5割前後を供給所で消費しています。(287p)いわゆる「柵内」で完結してしまうのです。(247p)
 供給所は儲けを考えていませんから、商業的な観点から見ると、周囲には現在のショッピングセンターより影響力は強いわけです。
 昭和29年時点で日立鉱山に13供給所、日立工場には20の供給所が存在しています。(285p)
 土着の住民はこれだけ人口が増えてもその恩恵にあずかれず、地元の伝統と文化を維持する資本蓄積はかなわなかったのです。
 
 ついでに下請けとなる中小の工業者に対しては、商業よりもう少し企業は配慮があったようです。会社としても、いつも好況ではありませんから、何度もリストラなどが行われます。この場合の受け入れ先として、中小の下請け企業の必要性を感じていたようです。重電関係の高度な技術もあって、下請け工業に分業することの不安もあったようです。ただ活況を呈するようになると、下請けの低賃金を活用するようにはなります。それ以上技術向上などに協力した気配は伺われません。
 ただ、日製が新型工作機を導入すると、旧式になった従来の工作機を払い下げたような援護はあったようです。

            4 えびし親
 
 通常地域社会には地主−小作関係、網元−網子の関係など、親分子分関係、経済的な保証と奉仕関係で作られる「えびし親」「えびし子」という呼び名があります。名称は初めてですが、網元−網子の関係、農地解放後にも地主小作関係が残っていて、私たちの子供時代には厳然と存在していました。封建関係を残した上下関係で、搾取もありますが、一方では生活困窮時の庇護・福祉の役割も担っていました。(記述:大内力東京大学助教授、塚本哲人北海道大学助教授、317p)
 このえびし親に当たる人達が、当然に地域の顔役として町村議会などに選出され、いわゆる既成勢力、プチブル的保守層を形成していきます。
 日立には先の人口変遷で見たように、比較的に農村部より漁港を持つ川尻、河原子、久慈の方が、このえびし親に当たる網元衆と言われる部分がはっきりしていたようです。経済的にも資本蓄積が出来て、造り酒屋などが川尻で出現しています。
 この当時の政治風土で、町村会議員、市会議員などを調べるべきなのでしょうが、えびし親=既成・保守勢力として、農村地帯に比べて、これらの漁業者の町の方が元気だったようです。
 農村部は元々寒村でした。各地から集まった鉱工業の会社員に生鮮野菜ぐらいは売ったのでしょうが、商業的な発展の道は閉ざされます。
 
 そして、鉱工業の急速な発展に伴って、流入人口も増えますが、周辺部の主に農家の次男、三男が会社勤めをするようになっていきます。
 当初、農業者からは工場勤めの職人は渡り工などと、好ましい職業とは見られなかったようですが、昭和恐慌など農村部が疲弊すると、農家の娘が会社勤めに嫁に行くなど、次第に地位の逆転が起こります。5反歩以下の農業者が大部分を占めますから、やがて会社勤めが羨望の的になります。
 当時の周辺農村部から会社に勤めに出ると、田畑の耕作は妻と老いた両親に任せて当主は休みの日だけ農作業に従事します。いわゆる「三ちゃん農業」です。
 ここでもう一つ注意したいのは、農家から会社に出て行った彼らの地域での政治的行動です。いわゆる寄り合いとかに、地域のボスを筆頭にした伝統文化が残されています。いわゆるえびし親−子の関係も含まれます。
 
 ここで、もう一つ推測をします。鉱工業従事者の約半数が、社宅など、いわゆる租界生活をしています。買い物は供給所で、そこには農村部から見れば、目もくらむような豊かな商品が揃っていたはずです。
 さらに、鉱山も日製も最新技術を積極的に採用しています。日本鉱業もほぼ創立時に東京帝国大学出の俊英を集めています。これは日製も同じです。
 いわゆる一般社員と役宅と言われる高級社員は住む場所も違っています。
 まだ電気冷蔵庫は出来ていませんが、毎朝氷を配達してくれる氷冷蔵庫があります。我が家にもありましたが、役宅を離れると氷の調達が出来ませんから単なる物入れです。
 昭和29年の家庭生活を少し紹介します。
 調味料では農村部では味噌・醤油に限られていますが、社宅の上層家庭では味の素、マヨネーズ、ケチャップ、コショウが登場しています。たぶん供給所で販売していたのでしょう。 
 このような租界での文明を、机を並べて見聞きした農村部からの戸主は、地元の政治的・文明的後進性がイヤになります。
 地元の寄り合いは女房にまかせて、本人は地域社会から逃避してしまいます。
  
          5 地域から切り離されて
 
 両社の労働史を調べきりませんが、様々な勢力の盛衰がありますが、基本的には「一山一家」と言われる、労使協調路線が主流を占めています。
 会社としても過激な組合を作られるより、強調できる組合を手厚く育成してきました。日本鉱業は今でも銅相場の国内主導権を持っているようですが、ここの組合も全国規模で労働運動をリードしてきた時期があります。日立製作所も同様でしょう。
 
 先ほどの地域社会から離れてしまった、農村部からの出身者は、組合など会社内の文化・文明に目を向けます。自分たちが生まれ育った地域より、明らかに数段上の外来文化を見せつけられるのですから、仕方がないことです。
 
         6 生き残れなかった地元勢力
 
 かつての日立村・高鈴村の人口比率からも、企業が集めた人数は圧倒的でした。説明を省略していますが、多賀地区でも同様なことが起こっています。
 通常、文化・文明は外来文化と地元文化の融合、互いの長所を取り入れた形で発展すると言われます。
 私もこの日立の文化的な特質を探して、日立市史などを読んできました。古墳時代から貝塚があって、温暖で海の幸に恵まれて、との類です。
 そして鉱工業の発展ともなって各地から人が集まり、山間の平地の少ない場所なのですが、気候温暖と皆さんが住み着いてい20万人都市まで発展しました。
 
 縄文時代から弥生時代へかけての出土頭蓋骨を見ると、完全に人種が変化したのが分かります。新しい渡来人と旧来人に何があったのかは分かりませんが、断絶を感じます。
 ここで気が付きます。日立の伝統は圧倒的な渡来人に壊滅させられたようです。地元の政治勢力は通常、既存勢力・保守となって地域を支配するはずですが、残念ながらほぼ生き残れなかったようです。
 
              革新勢力
 
 これを検証するために、昭和30年から大畠議員が登場する平成2年までの衆議院選挙の得票数を表にしてあります。
 当時の茨城2区は日立市、那珂湊市、常陸太田市、勝田市、高萩市、北茨城市(以上が市部)、町村は東海村から大子町を含むほぼ県の北半分です。
 資料の最初に出てくる昭和30年2月の第27回総選挙は、いわゆる「55年体制」という日本の保守政権が確立した時点です。
 各候補者の得票数を拾ってみます。ちなみにこの時の茨城2区の立候補者は5人、表記以外に武藤武雄(日本社会党)が立候補しています。
 
 この時の第2区と茨城県との保革比率を比べます。
 県レベルでは保守系(自由党、民主党。次の33年には自由民主党となります)31.38%+39.70%=71.08%です。
 2区立候補は3人です。日立市だけの保守系3人の得票割合(26,445/53,465*100=)49.46%です。
 革新系(社会党左派、右派、労農党。次回は社会党に統一)8.92%+7.52%+7.17%=23.61%です。ちなみに共産党は県全体で0.33%でした。
 2区立候補は2人、労農等の石野、社会党の武藤武雄(20,222+6,421/53,465*100)=49.83%です。革新系が少しですが保守系を凌駕しています。
 
 以後も同様な経過を辿ります。県では保守系が7割の得票をしている保守王国茨城で日立市だけは勝っています。3人区の茨城第2区で革新が2議席を何度も占めます。この傾向は現在の大畠議員になっても継続しています。
 たぶん日立市の住んでいる人達は当たり前な事だと思っているはずです。でも、今回大畠議員の所属する民主党が政権与党になっています。日立市は今日のためにこの政治体制をずっと用意し続けてきたのです。
 日立の労働組合が革新なのかどうか、議論はあるでしょうが、民主党の性格とあまり変わらないでしょう。
 ただ、企業と労使協調路線をとる、日製労働組合は、運動会がなくなりましたから選挙が最大のイベントです。労使で力を合わせて、工場対抗戦みたいになっています。
 ここでは日立市民の政党感覚が民主党政権誕生を迎えた今は、極めて先進性に富んでいたと総括しておきます。

             8 大みか町の場合
 
 議論を大みか町のレベルに下げます。2003年に石井は立候補をするのですが、これまで大みか町から会社系議員を除いて、誰も立候補していませんでした。
 日立市南部地区とは大みか町から南を言いますが、人口26,740人この中で大みか町は5,496人、約2割です。市会議員の数は私が立候補するまで0、久慈浜に6人いたはずです。なぜこうだったのか。
 会社がする選挙戦は別ですが、通常町方と言われる候補者は地域の既存勢力・保守層の援護を受けるか、彼自身が立候補します。
 ところが大みか町は、かつては松林で集落もないところに明治39年(1906)駅ができました。その後、昭和37年(1962)日立港後背地として区画整理事業で駅から海までの大きな駅前通りが出来ました。元は水木町の地主が多かったのですが、現在の大みか工場建設のために畑を失った久慈町の人達も大みかに進出してきました。
 駅前通りを挟んで、南に久慈浜勢力、北に水木勢力となっています。両町とも漁村ですから網元−網子関係から発展してきた既成勢力の力関係は残っています。これが水木、久慈浜の町方議員を持ち上げてきます。
 
 ところが、大みか町は両者がにらみ合いの状況で、既成勢力・保守層の主導権を握れるボスが存在できませんでした。町方と言われる保守層をまとめきれないのです。
 保守層がこの大みか町をまとめきれないとすれば、新しく移り住んだり、企業退職者が多い大みか町で狙うのは、ここまで述べてきた革新層です。
 もちろん私たち町方が、茨城県連合推薦などをもらっても、労働組合の選挙は工場別対抗運動会と一緒ですから、霞んでしまいます。
 政治の先進性をずっと持ち続けた企業OB、あるいは昔と違って少し会社の締め付けがゆるんでいますので、企業勤めサラリーマンの奥さんなどにターゲットを絞ることになります。
 
      9 日立地区の政治的先進性
 
 ここまで勝手な推論を多用して話しを進めてきました。
 一つは、日本鉱業が発足した日立村や高鈴村は、企業が急速に発展して村との融和もないまま、租界状況でこの地区に人口を増やしました。
 鉱山の周囲には山の中で本当に何もないところでしたから、供給所方式は必要不可欠だったでしょう。こうして土着の者達には商業の道は閉ざされていました。周辺地域の住民、地主も小作人もこの人口発展の恩恵にあずかれませんでした。せいぜいが飲み屋を開業する程度の恩恵しか受け取れません。
 この供給所方式は、さらに発展する日立製作所にも受け継がれます。土地を提供して一定程度の資金を得たはずの地主層もその資金を有効に活用できなかったのです。伝統文化を守るための資本蓄積は、急速すぎる人口増大、供給所方式による商業発展の道を閉ざされ、土着の勢力は駆遂されてしまったのです。
 最終的には息子世代をこれらの企業に送り込むのが精一杯だったようです。
 
 もう一つが、進出企業従業員と土着の伝統文化との融合はありませんでした。地元の既成勢力の一般的な保守勢力と全く関わらない人達が、植民地の租界のようにこの地を支配しました。
 今でも会社人間と町衆との関係にはその残滓が残っているようです。会社人間が上位民で、町衆は下位の民という意識があります。
 企業の下請け工作をする中小企業はそれなりに数がありましたから、技術も給与もはっきりした格差があり、これを助長したようです。
 
 私自身は親の代から見て土着民のはずです。東京へ出稼ぎに行っていましたから、これらの被害は直接には受けていません。ただ、コミュニティのボランティア活動などを通して、地元に戻ろうとした時、この日立の政治風土に気が付きました。
 
 日立市は学区毎のコミュニティ活動が大変盛んで、市民協働意識は日本中で模範となるレベルです。実はこれらのコミュニティ活動を仕切っているのは、企業退職者が大変多いのです。
 保守王国茨城の地にあって、日立はその既成勢力・保守層を駆遂してしまいました。各地から集まった多様な価値観を持った人達が、新しいまちづくりに本当に伸び伸びと活動しているのです。古い町ですと、これまでのしきたりや身分関係に囚われて、一般的な革新層は第一線に出て行けないのです。
 既成勢力・保守層を切り崩すために、60年代70年代の学生運動などもあったはずです。そうしてようやく、日本中が今度の選挙で既成勢力・保守層から革新的な政権交代を果たしたのです。
 このような推測を重ねて、この日立の政治風土が国内の見本となるほどの先進性を発揮していると思っています。
 
 以上で、石井の講義を終わります。
                            石井 仁志 2009.11.21.
資料:日立の人口推移と会社従業員
 
日鉱従業員数 日製従業員
日立村人口
高鈴村人口 西暦
明治37年 2,415 3,206 1904
38 2,467 3,365 1905 12月、 久原房之助、日立鉱山を開業
39 2,533 3,312
40 2,620 3,335
41 2,692 3,639 1908 大雄院販売所を開設。助川〜大雄院間電気鉄道竣工
明治42年 1,070 2,962 3,839 1909 日立製作所が久原工業の修理部門として発足
43 1,004 3,266 4,120
44 1,001 3,590 4,371 393
大正元年 1,541 4,172 4,637 1912 日立製作所を鉱山より分離
2 1,988
3 2,658 1914 第一次世界大戦
4 3,275
5 6,901
6 7,509 11,359 5,978 1917 共楽館竣工
7 7,377 (日製、独立直前)
8 5,509 2,789 1919 株式会社 日立製作所独立
9 5,294 25,263 8,401
10 3,420
11 3,137
12 3,258
13 3,351 日立町 1924 日立村、町制に施行
14 3,650 助川町に 1925 高鈴村が助川町に
15 3,416
昭和2年 3,500 24,683 10,771
3 3,328
4 3,453 3,554 1929 日製、海岸工場建設
5 3,078
6 3,011
7 2,859
8 3,304
13 39,645 30,937 多賀町 19,791 1938 多賀工場建設
14 73,604 15,116 1939 日立、助川両町合併で市制に
17 89,526 22,928 日立工場のみ
18 11,888 多賀工場のみ
19
20 1945 日立製作所海岸工場爆撃

資料 『日立鑛山史』(非売品、昭和27年発行、日本鑛業株式会社日立鑛業所)
資料 日立市の人口のうつりかわり(平成21年1月、日立市総務部総務課)

日立市産業別人口構成
  大正9年   昭和27年
人口 人口
農業 2,418 18 1,169 5
鉱業 3,044 22 4,822 22
工業 4,959 36 8,506 39
商業 1,827 13 3,805 18
その他 1,476 11 3,233 16
13,724 100 21,535 100
日製 日立工場工員 出身地
昭和10年 昭和14年
茨城県 6,131 10,441
福島県 1,206 2,775
栃木県 462 1,234
岩手県 422 1,001
宮城県 317 850
秋田県 412 687
東京府 139 180
その他 667 1,314
9,756 18,482
※ 大正時代は秋田、岩手の他県人が90%
  昭和4,5年頃近辺農村出身者で半々
日製 会社施設 居住状況 (S29.8月)
社宅 アパート その他 合計
日立工場 1,406 553 614 3,606 6,179
多賀工場 683 194 281 1,699 2,827
電線工場 (588) 667 1,258
絶縁物工場 92 23 30 126 271
  各社宅毎に供給所があった
日製 供給所1か月平均売上高(昭和29年上期)
日立供給所 46,884,000
多賀供給所 24,530,000
合計 71,414,000
支払い給与総額の30.4%が供給所の売り上げとなっていた

◆ 日立市議会議員
市長  高島秀吉 s20.9.15〜 多賀工場総務部長、日立電鉄社長
(得票順) (得票数)
1 日製営繕課長 986 19 洋品販売業 522
2 日製庶務課長 20 日鉱庶務副課長
3 日鉱精錬課長 21 日鉱社員(県労連)
4 日鉱勤労課長 22 製菓業(自由党)
5 漁業(漁協) 23 書店婦人会長
6 下常陸セメント社員 24 土建業
7 日製社員 25 日鉱社員(県労連)
8 土建業(日製請負) 26 農業(日鉱関係地主)
9 日鉱社員(県労連) 27 農業(農協組長、自由党)
10 日製労組執行委員長(左社) 28 石炭販売業
11 日鉱社員 29 農業
12 日製調度課長の母 30 日製社員(左社)
13 日鉱社員 31 米穀商
14 日製労組書記長 32 土建業(日製請負)
15 日製前執行委員長 33 日製庶務主任
16 電線工場庶務主任 34 塗装請負業
17 日製社員 35 旅館業
18 日鉱労組前委員長 36 私立高校校長 370
36人中 日製10人 鉱山9人
■日本鉱業■
<日本鉱業 供給所> たぶん昭和29年調査
(本山地区) 掛橋、石灰山、入四間、六角矢
(大雄院地区) 杉本、万城内、鹿の場、助川、大雄院、柴内、久保田、諏訪
12カ所、売り場面積 670坪(2,211u) 対象家族数 17,408人
<浴場> 14カ所 合計面積 907坪(2,993u)、利用者 11.014人
<理髪所> 8カ所、214坪(706u) 利用者 644人
資料 『近代鉱工業の地域社会と展開』(1955年発行(昭和30年)、東京大学出版会)
日立市 衆議院議員 保革 得票率  ※ 総得票数は、落選者と無効票もも含む
年月日 A S30.2 S33.5 S38.11.
選挙区定員(人) B 二区 3人 二区 二区 3人
保革 主要候補者 C 石野久男 塚原俊郎 大高康 山崎猛 石川次夫 塚原俊郎 大高康 石野久男 石野久男 塚原俊郎 大高康 石川次夫
日立市得票 D 20,222 7,348 11,949 7,148 28,361 11,873 11,286 16,863 20,217 12,732 12,973 27,858
日立市総得票数 E 53,465 73,323 78,440
占有率 (D/E*100) F 37.8 13.7 22.3 13.4 38.7 16.2 15.4 23.0 25.8 16.2 16.5 35.5
選挙区得票 G 53,785 59,526 52,862 52,301 59,767 64,062 58,562 52,407
選挙区得票総数 H 248,992 252,181
占有率 (G/H*100) I 21.6 23.9 21.2 21.0 23.7 25.4 23.2 20.8
(政党名) (労農党) (自由党) (民主党) (自由党) (社会党) (社会党) (自民党) (自民党) (社会党) (自民党) (自民党) (社会党)
年月日 A S42.1 S44.12. S47.11
選挙区定員(人) B 二区 3人 二区 3人 二区 3人
保革 主要候補者 C 石川次夫 石野久男 塚原俊郎 下山田行男 石川次夫 塚原俊郎 梶山静六 石野久男 石野久男 塚原俊郎 梶山静六 石川次夫
日立市得票 D 39,599 14,348 13,486 10,817 27,281 21,657 15,317 14,158 21,123 20,825 16,341 28,202
日立市総得票数 E 80,628 89,608 92,187
占有率 (D/E*100) F 49.1 17.8 16.7 13.4 30.4 24.2 17.1 15.8 22.9 22.6 17.7 30.6
選挙区得票 G 76,910 49,546 69,557 44,551 49,972 78,935 60,752 43,751 66,100 75,196 68,002 53,687
選挙区得票総数 H 248,218 272,495 277,301
占有率 (G/H*100) I 31.0 20.0 28.0 17.9 18.3 29.0 22.3 16.1 23.8 27.1 24.5 19.4
(政党名) (社会党) (社会党) (自民党) (自民党) (社会党) (社会党) (自民党) (自民党) (社会党) (自民党) (自民党) (社会党)
年月日 A S51.11. S54.9 S55.6
選挙区定員(人) B 二区 3人 二区 3人 二区 3人
保革 主要候補者 C 安島友義 石野久男 塚原俊平 梶山静六 石野久男 塚原俊平 梶山静六 安島友義 城地豊司 塚原俊平 梶山静六 石野久男
日立市得票 D 35,226 18,681 24,005 15,814 15,901 19,525 27,920 28,537 38,248 25,095 25,028 14,098
日立市総得票数 E 100,372 96,036 107,487
占有率 (D/E*100) F 35.1 18.6 23.9 15.8 16.6 20.3 29.1 29.7 35.6 23.3 23.3 13.1
選挙区得票 G 68,573 68,241 79,261 67,809 59,329 69,197 112,509 58,604
選挙区得票総数 H 300,036 310,703
占有率 (G/H*100) I 22.9 22.7 26.4 22.6 19.1 22.3 36.2 18.9
(政党名) (社会党) (社会党) (自民党) (自民党) (社会党) (自民党) (自民党) (社会党) (社会党) (自民党) (自民党) (社会党)
年月日 A S58.12. S61.6. H2.2.
選挙区定員(人) B 二区 3人 二区 3人 二区 3人
保革 主要候補者 C 城地豊司 塚原俊平 梶山静六 石野久男 城地豊司 塚原俊平 梶山静六 海老沢文範 大畠章宏 塚原俊平 梶山静六 中村敏夫
日立市得票 D 36,420 21,167 20,372 16,078 44,596 24,767 26,385 5,119 44,287 21,110 23,766 7,032
日立市総得票数 E 98,329 103,187 96,832
占有率 (D/E*100) F 37.0 21.5 20.7 16.4 43.2 24.0 25.6 5.0 45.7 21.8 24.5 7.3
選挙区得票 G 76,181 74,608 93,092 63,587 122,237 73,057 110,524 18,492
選挙区得票総数 H 318,850 326,924
占有率 (G/H*100) I 23.9 23.4 29.2 19.9 37.4 22.3 33.8 5.7
(政党名) (社会党) (自民党) (自民党) (自民党) (社会党) (自民党) (自民党) (共産党) (社会党) (自民党) (自民党) (共産党)