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第10号(平成9年3月31日発行) リバーサイドレポート
 
久慈川の環境資源
 
茨城大学教育学部教授 大嶋 和雄


はじめに

 健康で文化的な社会の持続的発展を実現するためには、環境への負荷の少ない循環を基調とする経済社会システムの確立、多様な自然や生物と共生できるように人々が環境保全行動に積極的に参加することが前提となっています。環境は大気・水・土壌・生物の間を物質が循環し、生態系が微妙な均衡を保つことによって維持されてきました。人類存続の基盤である環境は、各環境要素が健全であるとともに、その全体が健全で恵み豊かな状態で維持されていかなければなりません。そのためには、科学的な環境モデルを作成し、環境への負荷が環境の復元能力を超えて重大な、あるいは取り返しのつかない影響をおよぼすことがないように配慮するとともに、生産活動などにおいて自然の物質循環を活用しつつ、人間が多様な自然・生物とともに生きることを確保していかなければなりません。とくに、現在も清流環境が維持されている久慈川のような河川をモデルとして、河川の浄化機能を含む環境資源の実態把握についての調査研究が重要な課題となっています。水質浄化機能は河川環境資源の一部であって、それは、生物活動・化学作用・物理的な拡散作用、さらには、それらの機能を支えてきた流域住民生活の歴史と密接な関係にあります。これまで、久慈川の豊かな自然や歳時記についての興味ある事柄が発表されてきましたが、それらの自然史的背景については報告されていないようですので、久慈川の生い立ちを記録する地形(河岸段丘・溺れ谷)、動物(サトミイワナ)、植物(高鈴山の照葉樹林)にも登場してもらいましょう。

久慈川と那珂川

 阿武隈山地を南流する久慈川と八溝山地を横断して東流する那珂川とは、山地を外れた瓜連丘陵で最も接近します。この瓜連丘陵の地下に埋没された旧河谷の流路は久慈川に連続し、その埋没河谷の礫層から砂金鉱床が発見されたこと(高の蔵)や阿武隈山地起源の礫が含まれていることから、200,000年以前の那珂川は久慈川の1支流であったと推定されています(図1、坂本・宇野沢1976)。那珂川と久慈川とが現在のような流域に変化した直接的な原因の1つとして、那珂川の谷頭が烏山を越えて喜連川と接続したとき、当時の喜連川湖をせき止めていた火山性堆積物が大量の泥流として那珂川に流れ込み、瓜連丘陵地域に分布する粟川軽石流堆積物を堆積したためです。その後100,000年前の見和海進以後の海面変化で形成された河岸段丘の発達状況は、両河川が2度と接続しなかったことを示しています。そして、両河川中流域の河岸段丘や支流の発達規模を比べますと、久慈川(流域面積1490平方キロメートル)と那珂川(流域面積3270平方キロメートル)とでは、前者の地形的規模の方が大きいことからも、那珂川支流説が支持されます。那珂川が鬼怒川上流部の諸支流を奪ったのは、100,000年前以降のことでしょう。これらの出来事は、いずれも地球が現在よりも温暖な、海面が10メートル以上も高かった間氷期に起こりました。近年の洪水時最大流量は、間氷期の降雨量の多かった雨期の平均流量に相当するものと推定できます。那珂川の流域面積とその流量とを比較すると、河口の海門橋付近の川幅が狭いために洪水対策を難しくしています。

図1 10万年前の久慈川と那珂川 (坂本・宇野沢1976)
図1 10万年前の久慈川と那珂川 (坂本・宇野沢1976)

 那珂川の最大流量(理科年表1996)は、1240立方メートル毎秒(野口)であるのに対して、久慈川のそれは1920立方メートル毎秒(榊橋)もあります。しかし、那珂川烏山より上流の洪水は、かつての主流路であった鬼怒川水系に流れ込んで上流域に被害を与えますが、下流への流量をそれだけ減少させています。那珂川が更新世末期になって現在の流路をとるようになったことは、その河川勾配と礫径との関係からも読み取れます。那珂川下流域(河口から22キロメートル上流の藤井川合流付近)の河川勾配は1対1000で川底には砂泥が分布し、中流域(河口から22〜56キロメートル茂木町生井)のそれは1対800で中礫が、上流域(河口から56〜88キロメートル黒羽町矢倉)では、下流域の3倍以上の勾配1対300で大礫が基盤岩を覆っています。さらに上流の黒磯付近では、逆に勾配が1対400に緩くなるとともに礫径も少し小さくなるなど、未だ河川地形はその水理条件と平衡状態に達していないようです。それに対して、久慈川の河川勾配及び礫径の分布は下流から上流へと大きくなり、現在の水理条件と平衡状態にあります。

海底の久慈川

 陸上には200,000年前以前の瓜連丘陵、100,000年前の那珂台地、5,000年前以降に形成された沖積平野、河岸段丘、自然堤防などの高海面期の地形が数多く残されています。
 原子力発電所の施設の安全性を確保するために、地震や活断層による地盤変動量を評価するための本格的な海底地質調査が久慈川沖の大陸棚で実施されました(加須美・奈須1964)。久慈川および新川の海岸低地の埋没谷は基盤岩を60メートルまで浸食し、その海底延長谷は沖合の水深95メートルに達しています。久慈川と新川とは水深50メートル付近の海底で合流していますから、海水準がマイナス45メートル以浅になって現在のように独立した河口になりました。海岸低地の埋没谷に陸成層が堆積したのは、海水準がマイナス80メートルからマイナス45メートルヘ上昇する過程であったことを、海底地形や堆積物分布が記録しています(図2)。

図2 久慈川沖の過去2万年間の推定海岸線 (大嶋ほか 1994)
図2 久慈川沖の過去2万年間の推定海岸線 (大嶋ほか1994)

 大陸棚の海底地形が形成された当時の海水準変化を、現在の水木浜及び河口地形を基準にして推定できます。大陸棚外縁は水深140メートルの堆積面からなるので、大陸棚形成後の海面は120メートル(大陸棚外縁水深-水木浜堆積面深度=140-20メートル)以下に低下したことはありません。水深70から140メートルの平坦な海底は、一様な堆積面からなっています。水深55から70メートルの海底は厚さ10メートル程度の砂に覆われていて、久慈川や那珂川の溺れ谷河口がマイナス70メートル等深線を切っていますので、マイナス70メートル以深に海水準が低下したと推定できます。また、この溺れ谷流路の最大水深は90メートルに達していますので、その当時の海水準を現在の久慈川河口の河床水深5から10メートルを基にして計算すると80から85メートル(溺れ谷最大水深-現在の久慈川河口水深=90-(5〜10)メートル)に求められます。久慈川河口の低地に海水が侵入したのは、海水準がマイナス45メートルに上昇してからです。当時の久慈川河口には、阿漕ヶ浦にかけて広大な湖が形成され、久慈川からの河川搬出物の大半はこの湖に沈積していました。このように堆積速度の遅かった環境が、海底に25から50メートルの浸食地形面を保存することにもなりました。久慈川河口の入り江は漁場や河口港として利用されてきましたが、河口に発達する砂州が排水障害となって下流域に洪水を多発させ、茂宮川との分離などの河川改修工事を余儀なくさせてきました。

大陸棚の海底地形と海水準変動

 40,000年前から現在までの海水準変化は、海岸付近に堆積した貝や泥炭などの採取深度と放射性炭素年代測定値から求めることができます(図3)。海水準がマイナス80メートル付近に数1000年間停滞した時期は、35,000年前と20,000年前の2回ありました。マイナス60メートル付近の停滞は27,000年前と15,000年前の2回、マイナス45メートル付近の停滞は10,000年前の1回です。したがって、水深140メートルの大陸棚外縁地形が形成されたのは40,000年前以前の氷河時代です。これらの年代測定値を基にして、各停滞海水準期の海岸線を復元することもできます。そして、海岸平野の埋没谷及び谷埋め堆積物は、このような海水準変動に対応して形成されてきました。マイナス80メートル期に現在の久慈川河口のマイナス60メートルに達する埋没谷基底浸食が進み、その後のマイナス60メートルヘの海水準上昇過程で良質な地下水を供給する基底礫層が堆積しました。軟弱な陸成泥層はマイナス60メートル停滞期に、海成の軟弱堆積物はマイナス45メートル停滞期以後にそれぞれ堆積しました。

図3 第四紀後期の海水準変動曲線 (大嶋ほか1994)
図3 第四紀後期の海水準変動曲線 (大嶋ほか1994)

 20,000年前以降の海水準上昇は2回の停滞期を挟んで、3回の急激な上昇が認められます。特に、17,000年前ごろ(100年に1メートル)及び8,000年前ごろ(100年に1.5メートル)に起こった海水準上昇速度は、地球温暖化で来世紀に心配されている海水面上昇速度(100年に0.7メートル)よりも大きなものでした。一方、5,000年前以降の海水準変動は小さく、特に、2,000年前以降(歴史時代)の海面はきわめて安定した状態にありました。約10,000年前の地球温暖化とともに発展してきた原始農業社会は、その後の3,000年間の急激な海面上昇によって引き起こされた洪水によって、彼らの家や畑地を水没させてしまいました。その恐怖体験が、ノアの洪水や海中からの国生み伝説として、世界各地の農耕民族の間に神話として語り伝えられてきました。このような海水準変動が沿岸地形に記録されていることは、その沿岸地域(大陸棚から那珂台地)の地盤が安定していることを示す何よりの証拠です。特に、大正12年の関東大地震時にも、阿武隈山地南縁に位置する日立工業地域はほとんど被害を受けなかったので、日立製作所は京浜工業地帯の工場群に代わって震災復興に貢献したと記録されています。久慈川の地形的特徴には長い地質時代の海面や地盤変動が記録され、活構造運動量評価の基準地形としての重要なデータを提供しています。

流域の生物相

 日本列島が大陸と陸続きであった時代に分布していた生物群が、海面上昇によって大陸から分断され、その後の120,000年間もの地理的孤立の中で、それらの生物群は日本列島固有生物群へと進化してきました。古い地形の残っている久慈川流域は、固有生物種の宝庫とみなされます。特に、ヒカリゴケの分布する高鈴山や神峰山の照葉樹林は、落葉広葉樹林との環境境界条件を残すものとして注目できます。この森林は温暖な間氷期(約300,000年前以前)の大陸沿岸域に発達した亜熱帯植物群の生き残りで、当時の林にはサルやイノシシの群れも見られました。この林から産するサトイモ科のサトイモ、コンニャクをはじめとするゴボウ、ユリ、クズ、ワラビ、カタクリなどの豊かな山菜は、旧石器時代以来の独特な和食文化の素材として利用されてきました。そして、これらの素材は、奥久慈の名産品や家庭の伝統的なお節料理の材料として珍重されています。
 一方、上流域に生息するイワナやヤマメは、北方から南下してきた氷河時代の落とし子と言われています。久慈川流域のサトミイワナは、天然記念物に指定されるほど体表の模様に特殊化が進んでいます。このイワナが里川に侵入してきたのは約150,000年前の氷河期で、その後の地球温暖期にも冷たく、豊かな沢水の供給される環境がその繁殖を支えてきたのでしょう。日本アルプスの上流域に自然分布が限られている本州のイワナの仲間が、今も里美村付近で見られることは、この地域には自然の豊かさが残されている何よりの証拠です。そして、この自然の美しさに感動した世界的なパッケージデザイナーのクリスト氏をして、彼の作品発表の場を里美村に選ばせました。また、久慈川中流域を代表するアユの縄張りの起源にも、氷河時代の環境変化の影響が読み取れます。温暖期には海面が上昇して、河口と同じような栄養豊かな環境が拡大しますと、アユは水苔以外にも多くのえさをとることができますので縄張りを作らなくても成長できます。しかし、寒冷な海面低下期には中流域までイワナ・ヤマメの生活域が拡大してきますので、アユの生活域は狭められてしまいます。また、氷期の流水量(渇水期の流量14立方メートル毎秒)や日射量不足は水苔の生産量を低下させましたので、生きていくための手段として、仲間のアユを追い払う縄張りの確保が習性となったのです。この縄張りに固執する習性を利用したのが、アユの友釣りです。生き残るために得たアユの習性が、今では身を危うくする原因になるというのは皮肉なことですが、エゴの追求は身を危うくすることは、アユの仲間も人間の社会も同じようです。

まとめ

 久慈川の環境資源の第一は住民の生活を支える豊かで清浄な水資源ですが、その川水の流れが長年月をかけて刻み込んだ地形記録も、海水準や地盤変動の評価基準として重要な地質情報資源になっています。さらに、この清流に育まれた生物相(生物資源)の四季折々の変化は、環境との共生・循環などの生態系指標になっています。この指標を的確に把握するには、上流から下流までの地形や水質特性と、そこに形成された多様な生態環境の実態を把握しなければなりません。サトミイワナやカジカの生息する上流の水質条件だけを最高の水質環境と決めつけて、下流域にもその水質を保持しようとするならば、コイやフナは生息できなくなりますので、上流から下流までの各地形に対応した多様な底質・水質環境の存在こそが自然本来の姿です。これまでの、コンクリート護岸による河川管理や排水の高度処理によるだけの水質保全対応では、川の持つ多様な環境資源を浪費するに過ぎないことが明らかにされてきました。この素晴らしい自然環境資源を子孫からの借り物であると認識して、損なうことなく子孫に返却するには、流域住民が環境との共生及び循環を主体とした生活様式を確立することが不可欠です。そして、この環境の持続的発展をより確実にするには、その環境に根ざした文化の創造と、その文化情報を世界各地に発信することが必要です。斎藤日出男氏(茨城大学講師)が紹介されたクリスト・アンブレラ展は、里美村の流域住民が守り育ててきた久慈川の魅力を茨城県から世界各地に発信した例の一つとして、学生たちは受け取っていたようでした。

上渕大橋から見たクリスト・アンブレラ展
上渕大橋から見たクリスト・アンブレラ展


参考文献
茨城大学地域総合研究所(1996)『茨城のすがお』文眞堂
加賀美 英雄・奈須 紀幸(1964)「古久慈川」『日高教授還暦記念論文集』
国立天文台編(1996)「理科年表」丸善
大嶋 和雄・斉藤 文紀・安田 聡(1994)「那珂川の溺れ谷」『茨城大学教養部紀要 26』
坂本 亨・宇野沢 昭(1976)「茨城県瓜連丘陵の第4系と久慈川・那珂川の河谷発達史」『地質調査所 27』



 
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