現地一泊研修「会津史跡探訪」   
 
平成23年10月19日〜20日 
 
  行程
  <1日目>
   豊浦交流センタ(7:00発)−飯盛山(9:40着)−御薬園−末広酒造−(鶴ケ城会館で昼食)−
   鶴ケ城−松平家御廟−芦の牧温泉着(16:30着)
  <2日目>
   芦の牧温泉(8:30発)−慧日寺−戸の口原古戦場−三忠碑−亀ケ城−(しおや蔵で昼食)−
   土津(はにつ)神社−薄皮饅頭柏屋−豊浦交流センタ(16:30着)

   今回は本年度第2回目の現地研修である。会員18名 及び賛助会員1名、合わせて19名が
  参加した。見どころの多い史跡の町 会津を訪ねての一泊研修であった。
   天気予報では冷え込むと報道されていたが、2日間に亘り寧ろ暑く感じる程の絶好の行楽日和
  であった。役員さん方の いつもながらの用意周到な計画と準備により内容の濃い研修ができた。

 
   行きのバスの中では、今や恒例となっている先生方の講話があり、十分に事前知識を授かった。
  まず 橘先生より「会津地方史跡めぐり・・・徳一上人と慧日寺」について、続いて坂本先生より
  白虎隊と鶴ケ城について、さらに橋本先生より会津藩主松平家御廟と土津神社について講話があった。
   2日目のバスの中並びに史跡現地に於いても、小林会長を含め先生方のタイムリーな解説があった。
 
 
    夜は難しい研修から離れて楽しい宴会、飲むほどに酔うほどに口が滑らかに。カラオケも用意
  されていて喉自慢、大いに盛りあがった。一言特筆すれば料理がことのほか美味しかった
! 
       
 
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 集合写真1:ローマ市寄贈の碑:説明ボードによれば、「白虎隊士の精神に深い感銘を受けたローマ市が昭和3年ローマ市民の名をもって、この碑を寄贈した」という。  白虎隊士の墓:明治元年(1868)の戊辰戦争において、飯盛山で自刃した十九士の墓。自刃約3ヶ月後、村人により、密かにこの近くの妙国寺に運ばれ仮埋葬された。  戸ノ口堰洞穴:戊辰戦争の際、白虎隊士中二番隊が飯盛山に戻る際通った洞穴として知られる。写真は白虎隊が自刃前に通った洞窟の出入口  御薬園:会津松平氏の庭園。中央に心字の池を配した回遊式の庭園と、各種薬草を栽培する薬草園が御薬園の名前の由来の由
 若松城(鶴ケ城)葦名氏、伊達氏が居城した城。1591年(天正19)、蒲生氏郷によって7層の天守閣が造られ、名前も鶴ケ城と改められた。天守閣は1965年(昭和40)に復元。  集合写真2:鶴ケ城を背景にパチリ。
 松平家御廟,松平容保の墓:藩祖・保科正之の嫡子正頼が亡くなった明暦3年(1657)にはじまる。三代目正容から九代目容保までの藩主は山頂に神式で葬られている。
 宴会風景:料理は質,量共に抜群。宴会食は、新潟から毎日直送される新鮮海の幸を中心とした豪快料理。
鮑まで出たのには皆びっくり。
 カラオケ:大正時代の懐メロから現代の歌謡曲まで多種多様の喉自慢写真は昔のお嬢様方の合唱。  集合写真3:芦の牧グランドホテル自慢の加温,加水なしの天然温泉は眼下に渓谷を望む露天風呂へと注がれる部屋も広くて立派でした。  慧日寺 金堂,中門:開祖徳一による慧日寺創建の想いを、今に伝える古代の金堂,中門復元。平成20年3月に完成。  慧日寺金堂の内部:金堂は勝常寺の薬師如来坐像・日光月光両脇侍の写真を拡大して展示。慧日寺の薬師像は丈六(4.8m)と言い伝えられている。
 戸ノ口原古戦場:白虎隊士中二番隊が出陣して西軍と激突した場所。戸ノ口原に展開された戦闘では、会津守備隊が孤立無援となり、散り果てた隊士も多かったという。  猪苗代城跡(亀ケ城):江戸時代、一国一城令が発せられた後も城として認められ明治維新に至った。戊辰戦争の際、戦場となり戦略的にも重要な役割を果たしたとされる。  土津霊神之碑:会津初代藩主保科正之公の履歴を刻んだ石碑。初め亀石は南向きに置かれたが、一夜のうちに湖まで這い出した。そのため亀を北向きにしたところ、二度と這い出すことはなかったという。
 土津神社:会津藩初代藩主・保科正之を祀っている。 保科正之は2代将軍徳川秀忠の第4子。創建当時の社は、戊辰戦争のとき焼失。現在の社は、明治13年に建てられ、現在に至っている。