青森の遺跡、史跡巡り

平成20年10月24日(金)〜25日(土)

坂本会長記

<三内丸山編>

 早朝どしゃ降り、走行中も小雨が続いた。社内で歴史に纏わる講話(二本松藩、伊達藩、南部藩・
弘前藩・三内
丸山遺跡)。目輝き真剣に聞き入る姿あり。懸命にメモしている姿あり。研修に臨む
真摯な姿勢が見られた。

至誠天に届く。三内丸山では雨は止み路面も乾いていた。古代史会会長、青森歴史会会長の肩書きを
もつ、
鶴賀先生の案内で史跡を巡る。国内最大の縄文遺跡は今から5500年前から4000年前
までの、1500年間
の遺跡。

 見学は次の順路で行った。道々の会話から鶴賀氏は奇しくも政治家故梶山静六と旧交をもっていた
ことを知る。

 @ストーンサークルで「身分差」の説話。

 A南盛土で千年間に亘り、土器破片等の廃棄物を捨て、小山様になった話。

 B復元竪穴住居跡、大きさと家数から一時期に500人以上が生活していたと聞く。

 C大人の基では、「広い舗装道路」の両側に整然と向かい合う形で並んでいることの意義を思索。

 D北の谷は「遺物の宝庫」。泥炭層のため櫂、火起し棒、堀棒、植物、種子、花粉、骨など腐らず
  に残る。

 E子供の基で、1才未満の死亡率が高かったこと。「甕」に入れて家の側に埋葬し復活を期待した話。

 F復元大型竪穴住居跡「35cmの倍数の縄文尺」で建造。300人収容できる広さ。集会、儀式、
  冬期作業場か。

G大型建造物跡では、径2mの穴、径1mの栗柱残根、4.2m間隔の柱位置に畏敬の念。外で復元
 建造柱を仰ぐ

 ◎展示室で出土品の解説あり。円筒土器、土偶、漆塗器、針、釣針、銛、組紐、腕輪、ピアス、編布、  翡翠玉。

<弘前城見学編> (10時〜12時)

 築城当時4万石の大名にしては広大堅固な城郭で、30万石の大名城に匹敵するものであった。
藩主は代々
時勢を見抜く眼力に長け、よく対処し、ついには10万石に格付けされた。或ときは豊臣
秀吉の臣下となり、或
ときは徳川の臣下となり、ついには薩長軍旗下に入り12代藩主承昭は廃城も
許され、日本四大古城の一つ
になった。

 駐車場から数分で三の丸入り口に着く。「日本一太いそめい吉野」の立て札に誘われ、件の古木を
眺める。
東門の前に立ち、重要文化財の重みを感ず。程なく案内所に至り、「ボランティア案内」を
請う。二手に別れ
前後して城内を歩む。日本一古いそめい吉野は樹齢120年、明治15年と文献に
残ると言う。
ソメイ吉野は「寿命70年そこそこをご存知か」と問うので、「ソメイヨシノを命名した
のは郷土の植物学者松村
任三である」ことを告げる。百年余の寿命は奇異と感歎す。津軽統一者、
津軽為信話。二代目藩主津軽信枚
築城の話。築16年で落雷により天守閣消失。200年後、九代
寧親が蝦夷警護の功により天守再建に成功の
説話等々。本丸の石垣の歪み修理のため、天守は来年から
約10年間見られないと言う。良い時期に訪れる
ことができた。

 天守の内部の史料館を見学。本丸跡に立ち四囲を見渡す。往古は御殿、能舞台、館神が建ち、
奥ゆかしき
賢所。今は桜が立ち並ぶ花の名所。岩木山を背景に記念撮影。昔は特定の身分の者だけに
許された場所
だけに神妙な顔。遙かに霞む山の稜線と、たちこめる雲のバランスが良い。何にもまして
皆さんの顔が美しい。
(標高1,625m)