櫻城小学校クラス会

 

 

皆々様

 待って待って迎えた3月13日でしたがあっという間に過ぎてしまいました。案内状に記した会場へのアクセス方法が適切でなく、遅刻を余儀なくされた方もおられ、ご迷惑をおかけ致しましたことお詫び致します。

 急に計画したクラス会でしたが、遠くは北海道・兵庫から、そして盛岡からも3人出席していただき、14名も集まることができて大いに盛り上がりました。ここにその様子をご報告するとともに、その時の写真を同封いたします。会費以外に出席者から余分に写真代等を戴きましたので、今回欠席の方にも写真を送ることが出来ます。と、こう書いたところへ、宍戸君のご好意で富士写真フィルムのピクロログラフイーという機械でミニアルバムを作ってくれるという知らせが届きました。欠席の方にはこちらだけ送ります。

 

 会場の場所が分かりにくかったようで、二人ほど揃いませんでしたが予定の14時を15分ほど遅れて始まりました。小ぢんまりした部屋ですが、立食パーティー形式にしたら立派な活花を会場でサービスしてくれました。

 まず、私から今回のクラス会を計画するに至った経緯を報告致しました。その報告の中では申しませんでしたが、今回のクラス会開催は案内状のような池末さんの大学への転身も一つのきっかけではありますが、1月中ごろに私の戴いている年賀状から横舘・宍戸君に電子メールで皆さんの近況を知らせたことが始まりだったように思います。そのあたりから計画をし始めましたので泥縄もいいところでした。ゴメンなさい。

1月11日付横舘君・宍戸君宛メール、件名:消息

 中嶋先生:相変わらず2000メートル/週、泳いでいるそうです。200万メートルを既に突

破.

 高君:今年展示会をやるからよろしく、とのこと。(展覧会ではなく、展示会と幸いてあった)

 池未さん:日本福祉大で教鞭を。全家連は非常勤。4月から名古屋と東京を往復。

 宍戸君:相変わらず美しい奥さんと一緒の写真。仙台七夕?

 横舘君:定年後を模索中?

 高橋君:北上信用金庫。

 植本君:東北電子計算機鰍ノ出向(仙台)。

 関君:丸紅を退社、笹川関連の財団へ。

 多田君:皆さんと一杯やりたいとありました。横浜

 村木君:かわらず。

 小林君:住友商事退社.

 岡本君:年賀状が写真でなくなってから何年になるか。八戸

菊池先生の奥さんが亡くなって息子さんから喪中のはがきが来たのは1年前?                                            

村野井:65歳までなので実感がわかない。それまで身体が持つかどうかを心配

     昨年は電気電子の就職担当、今年はメディア通信の就職担当&学科長

私の大学は65歳定年なので、周りが来年で退職という話をしてもピンと来ないのですと申しましたら、案内状に「来年は還替を迎える年」と書いたこともあって後で一人一人のスピーチのときも『還暦』がキーワードになってしまいました。そんなこんなで、還暦の年の来年は盛岡で是非開催しようということになり、佐々木君・井上君・田鎖さんの3人に幹事をして戴くことになりました。今回は出席できませんでしたが、いろんな情報をお持ちらしい半田さんにも幹事になって頂く様にここに推薦致します。

経緯報告の中で、菊池先生が亡くなって15〜16年かなということと、中嶋先生にはこの会のことを知らせてあり、先生は『毎週2回プールで2000メートル泳いでおり(週に2000メートルというメールは間違い、4000メートルです。これまでに220万メートル泳いで元気でおられ、『皆さんに宜しく』というメッセージを戴いていることを報告致しました。日本列島を半分以上泳いだことになります。

(220キロと言った私の計算は1桁間違っていました。)現在は書道の先生をして

おられ、お弟子さんは全部で3000名にもなるそうです。

 乾杯の後、横舘君から欠席者からのメッセージが読み上げられました。西川さんのように90歳のお母様の介護と(石川さんもほぼ同様でした)、舅・姑さんのお世話で遠出が出来ない(吉田さん)という女性方、当日は部下の結婚式によばれている(植本君)、3月期は予算や労務対策(阿部君)・期末は業績向上の都合(原君)で出席できない男性方、といろいろですが返事を下さった皆様方は概ね元気なようです。丸紅を退社して笹川財団に転身(関君)、写真・海釣りを楽しんでいる(岡本君)、当日は                                                        

中学の同級生による誕生会で出られないけど気持ちは東京に向いている(半田さん)という便りもありました。川口さん・津志田君は仕事の都合でしたか。小林君(住友商事退職)は、出席の予定でしたが直前に体調をくずして欠席されました。残念です。斎藤君、メッセージに何も書いてありませんでしたがお元気ですか。平井さん、お返事がありませんでしたが戻ってこないから届いていますね。

 小1時間歓談した後、各人のスピーチを、入り口に一番近いところにいた井上君から始めたところで宮崎さんが遅れて到着。宮崎さんの挨拶の後、仕切りなおして井上君から順番にスピーチをしました。最後は、一番遅く来た宮崎さんです。

時間制限のない場所なそうですが、都合で退席する人のことも考えて集合写真を撮り5時半ごろ一旦中締めをし、最後は8時過ぎに会場を後にしました。最後まで残っていたメンバーのうち村木・多田・池末・高・横舘君たち諸兄姉は横舘君なじみのライブハウスにジャズを聴き(あるいは演奏?)に出かけたと思ったら、すぐ向かいの「北海道」という炉端焼きの店に繰り込んで10時過ぎに解散したということです。私は、取手(茨城県)の弟さんのところに行くという田鎖さんを上野の11番ホームまで送りました。女優さんかタカラジェンヌのような久實ちやんを伴なって何とも面映い思いをしながらエスコートしました。私は叔父のところに泊まる予定にしていましたが、連絡をしていなかったし結局は上野のカプセルホテルに沈みました。

 これまでに明らかになっている住所録を同封致します。「○○さんの住所は、誰それさんが知らせるだろうから」などといわず、重複してもかまいませんから他に知っている消息がありましたら、どなたでも結構です私宛ご一報下さい。私のほうで取りまとめて住所録を整備しますし、来年の今頃には宛名カードを印字して来年の幹事さんにお送りします。ご要望ならば(ご要望でなくても)、高君にも展覧会の案内用に送りますよ。

 

以下、出席の皆さんの様子を北から順に記します。

宮崎(寺田):お嬢さんの受験やらで東京には2月にも来ています。新宿の方で用を足してきて遅く来られましたが、やはりそのせいかな。お母さんが盛岡にいるので盛岡に寄って行く、ということで6時半頃退席。今回はほんの少ししか一緒に話ができませんでしたが、札幌でデートをしたのは何年前でしたかね。前に会ったときは生保レディの支部長でしたが、今は?

佐々木:「来年還暦になるのは、中学も高校の同級生も同じだけど、こちらを優先  させて計画します。」ということでした。「クラスには出戻りです。いつ戻ったかな。」(佐藤「4年生の3学期?に転入したぼくの後です」)。前回(1978年)の集合写真と中学2年か3年の時に中嶋先生と撮った佐々木・浦部・村野井・千田・あと一人?が写っている)写真を持ってきてくれました。中央自動車整備工場(弟さんが48歳で亡くなって引き継いだ)をやっています。高「アッちやんは野球が上手かったなあ。」相変わらず物静かでした。髪の毛は質・量ともに羨ましい。娘さんのところに行くといって7時ころ(?)退席。中央タクシーはお兄さんがやっているそうです。二人分の会費を払って下さったそうで感謝します。中締め以降の会費徴収少なくてすみました。

田鎖(佐藤):翌日は姪御さんの結婚式で、お母さんと一緒に取手(茨城県)に。お父さんはショートステイで施設に預けてきました。お父さんはよく遠足に一緒に行ってくれたよなあと皆で感慨にふけりました。皆で佐々木君・井上君に次の幹事のお願いをしているうちに立候補していただき、佐々木君が「頼もしく思っています。」ということです。完全主婦業、とのこと。宛名に「久美子」と

 書いたら、電話で「私、美しくないのよ」ということでした。「高松の池の白鳥は舘坂橋のあたりから朝帰りするのよ。私、その頃本を読んだりしてるの。」

井上:田鎖さんに「みちのく絵巻」をもっと宣伝しなきやダメよ、私なんかお使い物にもしてるわよ、と言われました。櫻城小学校の創立90周年記念行事に出席したことや昔の木造校舎の職員昇降口があずまやみたいにして保存されていることを報告してくれました。山田君、工藤君、藤村君の消息が分かるようです。材木町は、櫻城の学区でなくなったそうです。そう言えば前回、子どもさんを櫻城に入れるために開運橋の方に寄留したと言ってましたね,相変わらず色白でした。

高橋:昔の悪ガキ振りを指摘され、言い訳しきり。東北財務局から北上信用金庫へ天下り、今は理事です。「そろそろ後輩に道を譲らなければならんかな」と考えているそうです。普段は北上に単身赴任で週末に仙台に帰ります。皆で孫の話を聞いてあげなければならなかったのにゴメン。孫の写真を皆に見せて、「孫を風呂に入れてやらなければならないので・…‥。」と言って早めに帰りました。仙台に、です。「菊池先生が亡くなったのははじめて知った。」そうです。

村野井:「先生」と言われる度に「先生と呼ばないでくれ」と言ってました。学生以外から、先生と呼ばれることに抵抗感があります。同じ年齢だけど若くして教授になった教官が会議の時などに他の人を呼ぶのに○○助教授だの、○○委員だのと言うのに違和感を覚えるのと一緒です。田鎖さんが「同級生に肩書など言う必要ないわよ。テッちやんでいいじやない」と助け舟を出してくれました。他に、田鎖「腎臓を取ったって、(酒を)そんなに飲んだり運動したりして大丈夫?」私「腎臓は四分の一あれば大丈夫。(一つしかないから)癌になったらおしまい」。片腎になって45年。四月からメディア通信工学科という新しい学科の学科長と就職担当を務めます。

村木:池貝鉄鋼に勤めて36年。現在、取締役です。最初、「工場長」などと紹介したものだから、怒って(?)私には取締役の名刺をくれません 自分の作ったクラブでゴルフをしています。トロフィーでも何でも造るそうです。「櫻城の頃は高橋君と組んでよく遊んだ。樹の枝に綱を下げて北上川でターザンごっこをして新聞に載り叱られた。校庭で壇の上にも立たされた」。あの記事は記憶にあります。手を滑らせたら川にザブーンでしたね。田鎖「晩酌なさるの?」村木「家では全然飲まない。」 私「毎日飲んで帰るということ。」

高:パリで2回個展を開いたそうです。「2回目のときは佐藤君がパリにいたらしいけど、後で知って残念な思いをした。」 誰かが「今度パリで個展をやるとき は皆でツアーを組んで行きたいね」と言ったけど、「そうは簡単には行けないしなァ」と今度はため息。そしたら、「パリの前には日本でも開くし、今年は11月に(銀座で?)グループ展を開くよ。見に来て欲しい」ということでした。最

 初の個展のときは横舘君のお母さんに作品を買っていただいた。最初は、建築の道を考えたけど、小学校の頃に絵を描いた頃の思いを絶ち難くて結局は美大に入ったということです。四女までいて、一番下は12歳,高君は一足早く今年が還暦の年です。

池末(大村):急に孫よりちょっと年とった年齢の子達に教えることになって戸惑っています。「子供の頃って、30歳の人なんか随分年取っているように思ったよね−。それがもう(私達)還暦? 」一同「‥‥‥…。」皆が大学の先生なんて授業のときだけ行けばいいだろうとアドヴアイス(?)するものだから、「週にどれだけ行ってるの?」と訊かれました。「週に7日行ってるよ」と答えましたが、工学部も実験となると家では仕事にならないので、ということです。旦那様も大学に勤めているのだし、よく聞いて下さい。娘さんの一人は国際結婚してイタリアに。「とてもきれいなところに住んでいる」そうです。孫はいないのでおばあちやんではありません。これまでも都内で単身赴任(全国精神保健福祉センター相談室長)していたけど、今度は名古屋の方に単身赴任)健康に気をつけてください。飲み過ぎないように。

横舘:「来年5月9日で定年です。年金生活でもいじゃないと言うのだけど、神さんは、デパートにも行きたいし旅行もしたいからまだ働いてもらわないと困ると言ってます。弟が岩手朝日テレビの編成局長で盛岡に行っています。川口(伊藤)さんのNHKと岩手朝日テレビを宜しく。」 田鎖さん日く、「とても同じ

 年に思えないワ。(あの若さで)何もしないなんて勿体無い。」 自分と同じ年という意味ではなく、男性諸君の中でという意味で言ったと思います。そう言っても女性も同じ年なのですよね。大村さんも、宍戸君も、英二君も、アッちやんも、高君も30歳を過ぎてからヨコちやんの取材網で再会できたのではなかったかな。

佐藤英二:味の素に勤め、海外勤務2回。子どもの教育では頭を悩ませた(?)。一人は今、ボストンの学校にいる。趣味でギターをやり、週末に鎌倉の円覚寺で弓を引いている。「弓を引いた後は血圧が下がります。」「小学校の頃、高君のお陰で絵を習わせてもらうことが出来た」と言ったら、高君は高君で「英チャンのお陰で絵の具を買ってもらえた」と言っていたように聞きました。お母さんが仙台にいて、お兄さんも具合が悪いのでいずれはお母さんと一緒に暮すことになるかな、と言っていました。中学で仙台に転校したし、大抵の人は40数年ぶりだったでしょうね「飲みすぎた。頭痛がする」とちょっと先に帰りました。「“新たな出会い”と言った感じでした。高君の展覧会等、次の機会を楽しみにしています。」というメールが早速届きました。

多田:自衛隊を55歳の11日(誕生日)に退職、山一読券へ。山一があのようなことになった後は、先輩に誘われてある会社で自衛隊相手の営業をしている。自衛隊で身に付けたスキーの指導員の資格を生かしていろいろやっている。ウェイターのようにサービスするものだから、田鎖さんが「家に帰ってもそのようにマメなの?」。「自分の食べたいものを自分でつくる。女房には一口たべさせるだけ」。年賀状に「また、皆さんと一杯やりたいですね」としか書いてないものだから、山一の後どうしているか心配しておりました。英チヤンの印象では「山田線の鉄橋で一緒に遊んだなあ」と意気投合していました。釘を線路に乗せて列車に轢かせた、今では考えられない遊びをしたものです。

宍戸:富士写真フィルム勤務。小学校の頃の絵のことになると、皆、宍戸君の絵の記憶はにあるようでした。「高君のように描きたい」と絵を始めたけれどものにならず(?)、音楽(クラシックギター)をやっていますム編曲なども今ではパソコンでやるそうです。海外旅行が趣味でスペインには10回近く行ったと言ったのかな?南米にも行き、次男が南米音楽フオルクローレのチヤランゴ(アルマジロで作られた小形ギター)奏者としてプロ活動をしている。南米旅行記を大学時代の友人のホームページに掲載しています。7時までに小田原に行かなければということで一番先に退席。フジカラー400は宍戸君が開発したのです。日本化学会の化学技術賞を受賞しています。先日インターネットを検索していたら出ていました。

武居(鎌田):東京で見合いをして東京に住むと思っていたら、話の途中で見合い相手が関西に転勤になった。断ろうとしたら親に「それは理由になりません」とたしなめられた。ひょうひょうとした話振りは昔からそうだったかな。「ほんで」とか関西弁もすっかり板についています。神戸の地震の時は武居さんのところは被害は軽微だったそうです。「墓参りに行かんならんし、クラス会は夏がいいな」。お母さんが盛岡の昔の仁王小路の元の場所に住んでいるそうです。

 

高君が「来年盛岡でクラス会をやるときはどうせ泊まらなければならないから、繋温泉か鶯宿温泉がいいな」、と言ってるうちに田鎖さんが途中で話を引き取って、「親や舅・姑の世話をしている身にとっては盛岡市内であれば何時間か誰かに世話を頼んで参加するということもできるけど一泊するような遠出は無理よ。泊まるところなら、私がピンからキリまで希望のところを紹介してあげますから」というように幹事に立候補してくれました。

半田さん情報として、千葉(高橋)正子さんの死亡を伝えましたが、武居さ「彼女は突然死だった」ということを話してくれました。お母さんが名古屋の方に取り残されたという何ともお気の毒な話でした。今まで72人という人数なのに誰一人欠けた人はいないと思っていたのに残念です。小森ゆり子さんもいましたね。73人か。瓢箪から駒のようなほんの思いつきから始めたクラス会でしたが、思いの外沢山の人にご参加戴き、開催した甲斐がありました。あんなにゆっくり歓談できる会場を用意してくれた横舘君に感謝します。

今回参加できなかった方や今回話し残したことは、来年の風薫る五月かお盆の頃か八月かに開かれるクラス会に出席してまたまた盛り上げて戴きたいものと思います。その前に高君の展覧会の案内状も届くことと思います。また会える日を楽しみに致しましょう。

最後に、どなたかの消息が分かったなら、私宛お寄せ下さい。重ねてお願い申します。今回も、「私のところには連絡がなかった」とひがまれそうでしたが、情報を集める努力はしたのでした。その結果、遅い連絡になって出席できなかった方もいて申し訳ありません。悪しからず。

                  〒3160001

                  日立市諏訪町52612

                  村野井 徹夫

                  FAX(0294385111(職場・4月から)

                  E-mail:muraichiban@dmt.ibaraki.ac.jp

 

写真はこれまでの記述から連想して推定して欲しいところですが念の為、記します。

(前列)左から、材木・宮崎・池末・田鎖・武居・村野井

(後列)左から、横舘・井上・佐々木・多田・高・宍戸・高橋・佐藤

一番しか歌えなかった校歌、やっと探し出した卒業アルバムには載っていません。