『 戦 前 と 戦 後 』

[Bakuhatsu-joukyou] [Aioi-bridge]

広島市・相生橋の袂(1964/3撮影)
                    1992年にはこれはなかった↑


                                         ≪第一稿:2002/08/08≫
                                         ≪第二稿:2002/08/09≫
                                         ≪第三稿:2002/08/11≫
                                         ≪補正稿:2003/04/26≫

                                                村野井 徹夫

 毎年8月になると、原爆・終戦のことが話題になる。今年も57回目の広島の原爆忌が過ぎ、やがて同じく57回目の
終戦記念日を迎えることになる。今朝も、ラジオ深夜便の「心の時代」で作家の早坂暁さんが『夢千代の記憶を街角に』
と題して話していた。1945年8月6日の広島での情景を絵にしたものを陶板に焼きつけて描かれたその場所に恒久的
に掲示しようという話であった。これらの絵はNHKが募集して市民から寄せられたもの3000枚にもなっているとい
うことだ。早坂さん自身、累々たる死体の中から赤ちゃんの泣き声が聞こえてきたことが『夢千代日記』を書くきっかけ
になったということでそれを拙いながらも3001枚目の絵にして展示したいと話していた。           
 1945年8月15日の終戦の日から57年、戦争を知らない世代が大部分を占めているが、私は大阪での夜の探照灯
の灯りが怖かったことや盛岡では空襲警報発令の後、電灯に風呂敷を巻いて押入れに入って寝たり畠の上に布団を持ち出
して寝たり、真夏の太陽がぎらつく中で防空壕に入ってじっとしていた記憶もある。また、外に遊びに行って数機の低空
飛行している偵察機におびえて帰宅したことも覚えている。そして8月15日の天皇の放送を聴いた時の情景を思い浮か
べることもできる。「ヘンな声」と思ったものだ。                              
 57年と言えば、人生50年と言われた時代もあったのだから人間の一生にも匹敵する時間が経過したことになる。こ
のことを思えば今の若い人達が戦争なんて歴史の一こまであって、鎌倉時代や室町時代の昔のことも60年近い前のこと
も大して違いはないと思うのは無理もない様にも考えてしまう。もっとも、京都の人が「前の戦(いくさ)」というのは
500年以上前の応仁の乱のことを言うのだそうだが。                            
 私自身、                                                
  1868年(明治元年):明治維新                                   
  1894年(明治27年):日清戦争                                  
  1904年(明治37年):日露戦争                                  
  1910年(明治43年):韓国併合                                  
  1914年(大正3年):第一次世界大戦                                
  1931年(昭和6年):満州事変                                   
と年表を紐解いてみないと明治・大正の事柄は全て大昔のことのように思ってしまう。ところが、第一次世界大戦の講和
会議・ベルサイユ条約が締結されたのは太平洋戦争の「戦前」わずか23年前の1918年、日露戦争のポーツマス条約
締結だって36年前のことに過ぎないのだ。私が生まれた1940年(昭和15年)は明治で言えば73年、明治維新を
経験した年寄りが何人もいたっておかしくはない。そういえば、高等学校の同窓会の会長さんは日露戦争に従軍し、失明
した盲学校の校長先生だった。その校長先生は毎日我が家の前を歩いて通勤されていた。このように、私の育った時代は
日露戦争の従軍兵士も現役で働いている頃だったのだ。「戦前」といっても生まれる以前のことは無限に遠い過去のこと
と思いがちなのだ。そのことを思えば、1941年の日米開戦や1945年の戦争終結がはるか大昔のこととして今の若
いものが全く関心を示さないことも無理からぬことのように思えてくる。                    
 しかし、私が防空壕に入って暑さに耐え忍んだ小さな体験や偵察機におびえたことなど60年経った今も鮮明に覚えて
いるし、原爆の後遺症に今なお苦しんでいる人は決して8月6日や8月9日の地獄絵は決して忘れることがないことから
も分るように、国を支配された国民や侵略・略奪をされた人々はその恨みを決して忘れるはずがないことに思いを致さな
いわけにはいかない。私は、1964年の3月に広島を訪れた。その時に原爆ドームのすぐ近くの相生橋のすぐそばの掘
建て小屋で原爆の放射線を浴びた瓦や礫を売って生計を立てている人を見かけている。「戦後」19年を経てなおそのよ
うな状態に唖然としてしまった。私は貧乏学生であったので買い求めることはしなかったが、その小屋に打ちつけてある
ブリキに記した「爆発当時の状況」だけは写真に収めてきた。瓦礫を買えないけれど、写真だけを撮らせてもらう言い訳
をヒバクシャと一言、二言交わしてきたような気がする。原爆ドームを見たときもそのまわりではしゃいでいるアメリカ
の少年たちに腹をたてていた。                                       
 私が育った時代で言えば、高校を卒業した年でさえ「戦後」わずか15年だったのだ。             
 今アメリカでは、昨年のニューヨークにおける同時多発テロ事件により、報復措置を考えて戦時体制にある。しかし、
私達はいかに "Show the flag!" と言われようと、今の日本の世の中を新たな戦争の「戦前」にしてはならない。『「戦
後」は終わった』という言葉が言われたこともあるけれど、「戦後」はいつまで経っても「戦後」であり続けなければな
らない。                                                 
[Peace-park]         [Gembaku-dome]
[Monument]

写真は、全部1964年3月撮影。
広島平和祈念公園は今ではきれいに整備されて、
当時をしのぶものは原爆ドームくらいなもの。

                                          ≪第一稿:2002/08/08≫
                                          ≪第二稿:2002/08/09≫
                                          ≪第三稿:2002/08/11≫
                                          ≪補正稿:2003/04/26≫
                                    ≪写真再スキャン貼付:2011/03/>04≫
                                  ≪HTML言語で書き直し:2012/06/>10≫

アクセスカウンタ:    since July 9, 2012.
これ以前のアクセス数は不明