『すし詰め学級のクラス会』

 

                                   村野井 徹 夫

 火事の合図は三点鐘                                             
  あわてず騒がず順序良く                                          
   出口で止まらずかけ通せ                                         
 これは、私が昭和二十八年三月に卒業した盛岡市立櫻城小学校の教室に貼ってあった標語のような言葉である。とはいって
も火事のことを記すのがここの目的ではない。確かにもしも火事になって『出口で止まったり転んだりしたら大事故になる』
ほどのマンモス小学校であった。何しろ卒業するときのクラスメートがジャスト七十名もいたのだから。現在の櫻城小学校の
一学年の人数が一つのクラスであったのだ。私たちはこのほかに途中転校していった友人とも付き合いがあって七十三名ほど
がクラスメートと思っている。                                         
 昭和二十八年の卒業生は、昭和二十二年、新学制の第一回入学生であり私たちは平仮名から習った最初の児童であった。こ
の櫻城小学校に入学のときは前の年と同じ五学級編成が考えられたが、あまりに児童が多すぎて入学の時には六学級に替えら
れていた。その時の人数は六十五名ほどであった。それが終戦直後の混乱期でもあり、転入・転出の転校生も多く、卒業の時
には七十名に増えていた。私たちは、その櫻城小学校で一度も学級編成替えを経験することなく六年間を過ごした。   
 担任の先生は入学から三年までが中嶋雄次郎先生、四年から卒業するまでは菊池賢吾先生のお二人であった。どうして六年
間、一度も編成替えがなかったのか中嶋先生にお尋ねしたことがあるがご高齢でもあって明確なお答えはいただけなかった。
どうやら四百人以上の児童を一年や二年でシャッフルしていては指導が行き届かなかったからというのが真相らしい。それと
一度転出してまた転入して来るときは元のクラスに入学したし転入の方が多かったからクラスによるアンバランスも生じなか
った。転勤族も今のような単身赴任ではなく家族を帯同していた時代であった。                   
 そのような七十名もの児童を担任するということは超すし詰め学級で先生方のご苦労も並大抵のことではなかったに違いな
い。今から思えば、先生が後ろまで見回りに来られたという記憶はないし、それどころかある時は机を廊下側に全部寄せさせ
 て、先生は反対の窓側を教科書を持って歩いておられたこともあった。またある時は木陰の青空教室に連れ出してくださった。
それでも私たちは教室が狭いためとは思わなかった。毎日が充実した楽しい小学生時代であった。           
 この超すし詰め学級、一度も学級換えもなかったせいか、実に仲が良い。私などは心無いことを言って誰かを傷つけていた
ことがあるかもしれないし、子供の喧嘩もしたけれど今のような陰湿ないじめはなかった。転校生もすぐ皆に溶け込んだので
ある。                                                    
 すし詰め学級の先生は大変であったと思うけれど、私たち子供にしてみれば友人の数も多くあながち捨てたものではない。
卒業後は親の勤めの関係で盛岡を離れた友人も多いのだが、そういう友人たちも何かと言っては盛岡に来れば地元にいる私の
ところへ寄ってくれた。                                            
 なぜ小学校のこのような付き合いが長続きしているのか不思議に思うことがある。これはきっと皆がなにがしかの挫折時代
はあってもそれぞれ幸せな人生を送っているからという気がしている。                       
 一昨年、私たちは中嶋先生をお迎えして繋温泉で還暦記念に二十七年ぶりのクラス会を開催した。遠くは札幌や名古屋・京
都から総勢三十二名が集まり本当に楽しい一夜を過ごした。本当はもっと出席するはずであったのだが、急な外国出張で出ら
れなくなったり、子育ては終わっても親や舅姑の介護で手が離せない人も多かった。                 
 二十七年ぶりのクラス会では住所不明の人もかなりの人数になっていたけれど、住所録を整備してみたら六十五名の消息を
掴むことができた。互いにどこかで繋がってはいたのである。                      (つづく)

 不明の八名の中に卒業と同時に東京に引っ越して行ったS君がいる。何年間かは年賀状のやり取りもあったのだが、全くの
音信不通になってしまっている。S君は何か家庭に事情があったのか賢吾先生が大変気にしておられ、先生が亡くなる何年か
前に『S君を探せ』と仰ったことがある。彼の苗字は多くはないものの特別のものではなく名前の方はちょっと珍しいもので
あった。そこで、私は出張でどこかの町に行ったりするとよく電話帳を調べたものである。ある日同姓同名の人物が見つかり
電話をかけたら覚えがないと言うことであった。その後も気になってクラス会の前に手紙で照会したら丁寧な返事が来てやは
り別人と言うことであった。                                          
 最近もインターネットで検索したらある地方新聞社主催の市民マラソンの出場者名簿に同姓同名がみつかった。新聞社を通
じて確認してもらったけれど、こちらもまた別の人であった。                           
 このような還暦を期してのクラス会であったがその後も何かの理由をつけてはミニクラス会を開いており旧交を温めあって
いる。今年も東京は銀座あたりで四月に開くことにしている。その時には画家として活躍している在日韓国人のK君の祖国で
の個展開催の進み具合を聞くのを楽しみにしている。彼は一年のときに大阪から転校して来て卒業後間もなく大阪に帰った。
 彼は子供の頃から絵がうまく、その夢絶ち難く美大に進学し画家になった。パリで二回、東京や大阪では何回も個展を開い
ている。祖国での個展は来年らしい。私たちは、櫻城小学校卒業後丁度五十年のクラス会を彼の祖国の個展の席で開こうとい
う夢をもっている。                                              
〔補遺〕                                                   
1)出だしの「火事の合図は三点鐘、云々」は4行だったと森学級の中屋重直氏から知らせを受けた。また、我がクラスメー
  トの石川紀子さんは『最後は「一度出たなら戻らない」ではなかったかしら』ということなので、         
   火事の合図は三点鐘                                           
    あわてず騒がず順序良く                                        
     出口でとまらずかけ通せ                                       
     一度出たら戻らない                                         
  これが“正解”だと思                                           
2)5月号の最後は「(1号分に)長すぎたら削ってください」と指定した部分がそのまま残されてしまい、締まらない文章
  となってしまった。(汗)