村一番の自己紹介


最終更新:2016.03.13

経歴・体験など
2016.3.6:盛岡の叔父が亡くなった。父の一番下の弟。前日、スーパーに買物に出かけるほどで、
    この日早朝トイレに入り、自分から救急車を要請したとは驚き! 理想的な身罷り方がうらやましい。

2013.7.11:年に1回のPSA検査に通う石川クリニックでは毎月一回院長の家族を主体とした
    院内コンサートが開かれている。ひょんなきっかけでこの院内コンサートで『歌手デビュー』を果たし、
    叱られて・浜辺の歌・赤とんぼ・故郷を歌った。我が家庭医のご夫妻(高校の先輩)が花束もって
    駆けつけてくれた。

2014.4:双子の孫が、小学校入学を果たす! 生まれたときの体重が、708グラムと410グラム
    という超のつく未熟児が日立市立諏訪小学校に元気に通っている。

2013.4.22:59年前のこの日、右腎摘出。いつもの言い方をすれば人間腎臓は一つでも最低59年
    生きられることを実証した。

2012.4.:双子の孫が幼稚園に通うようになった。凄いことだ。

2010.1.19-27:厚生労働省主催の政府派遣フィリピン慰霊巡拝に参加して念願の父の慰霊の旅ができた。
    詳細報告はいずれどこかで・・・。

2009.10.末:娘夫婦が同じ団地の数分しか離れていないところに引っ越してきた。双子の孫の面倒をみるため
    妻は毎日通うようだ。小生も子供たちの風呂の面倒をみやすくなった。

2009.4.22:右腎摘出手術をしてから丁度55年経ったことになる。いつもの言い方をすれば、人間は腎臓一
    つでも最低55年は生きられることを実証した。尤も、世の中には私よりも早く腎臓を一つ失って、
    今なお元気な方もいる。電話相談の国内第一号の西來武治(81)先生は1949年だったかな?
    日立総合病院の泌尿器科の医師は市の健康セミナーで腎臓は頑張る臓器だと言っていた。腎臓自身
    は200年もつと言ったのは、聖路加病院の日野原先生だったかな?

2009.3.3:ちょうど1年前のこの日、娘のところにコウノトリがやってきた。それも一度に二人の赤ちゃんを
    連れて。だけど、妊娠26週での超低体重児(♀:708グラム、♂:420グラム)。生まれたときは
    無事、育つのだろうかと祈るような気持ちだった。今では、7400グラムと6380グラム(1月23日)
    になって、離乳食も食べている。無事、初節句を迎えることが出来たなんて夢のような気分だ。
    二人ともNICUから自宅に帰ってからというもの、ほとんど毎日ふたりを風呂に入れるために孫
    のところに通っている。

2008.2.17:母が亡くなった。1915年10月生まれなので、満で92歳だった。母は1949年4月から日本専売
    公社盛岡支局に勤め、工場の移転に伴い60歳の定年の前に退職した。高等女学校卒なので事務職
    を勧められたらしいが、給料の高い工員となって息子二人を育ててくれた。勤めてからも保育室
    の保母に職種を変えることを勧められたこともあるらしい。母は、息子を一人(私の弟)交通事
    故で亡くしているので、「他所の幼い子供さんをみると(亡くなった息子を)思い出して辛くな
    る」と言ってそれも断ったと言っていた。菩提寺のご住持が真宗では珍しい院号のついた6文字
    の戒名をつけてくれた。これは多額のお布施を差し上げたわけではなく、戦死した夫(わが父)
    の戒名に合わせてくれたものだと思う。

2006.5.27:生まれも育ちも北海道の妻が京都で中学のクラス会。夜11時過ぎにクラスメートから電話。
    「奥さんが意識を失って救急車を呼んでいます。」「私は脳外科医です。脳に何かできています。」
    「重篤です。安心できません。出来るだけ早く来てください。」「ご家族の代理でサインします、
    良いですか?」等々。結果的には脳ではなく、心臓の発作であった。最初は心筋梗塞、その3週間
    後には解離性大動脈瘤のために人工血管に置き換える大手術。退院まで56日かかった。クラス会
    出席者に4人も医者がいて、適切な措置を受けることが出来て命拾いをした。耳鼻科の先生だけは
    「ぼくは何も役に立たなかった」と仰ったそうだけど。2ヵ月の間にJRのジパング倶楽部の20
    枚の割引券をほとんど全部使ってしまうくらい日立−京都を往復した。入院中に、早稲田や全日本
    のラグビー監督を務めた宿沢さんが登山中に心筋梗塞で亡くなったニュースを知った。スポーツで
    鍛えた人なのに倒れた場所が不運だった。妻もみんなの前で意識を失ったから良かったものの、部
    屋に戻って眠っていたら誰にも気づかれず眠りっぱなしになっていたにちがいない。今では、ほと
    んど以前と同じような活動ができるようになったので、私もここにアップする気分になった。3割
    負担でも健康保険の有り難味が身にしみた。病院も転院することなくこのような手術を受けられる
    スタッフと設備の整った病院なのが幸いした。2007.2.25記す

2006.4.1:盛岡滞在、兄が労いのデコレーションケーキをプレゼント。涙がこぼれた。

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2006.3.31:定年退職、39年間の勤務終了。

2005.3.10:8日から盛岡駅前のホテルに滞在。60年前の3月10日は「東京大空襲」だけが
    喧伝されるが、盛岡駅前も空襲を受けたのだ。明け方「その駅前のホテルに泊まっている」
    んだと感慨に耽った。

2004.4.22:50年前のこの日、結核により右腎とお別れ。人間、片腎でも少なくとも50年は
    生きられることを身をもって証明した。歴史と同様、身の上にもifは許されないけれど
    腎臓と別れていなければ、違う人生を歩いていた、と思う。

2004.1.6:初孫誕生(女の子)。娘のところにもコウノトリがやって来れば言うことなしなのだが。

2003.3.15:息子、結婚(今時の結婚式は媒酌人もなし、式場雇いの司会者が取り仕切った)。
    これで、親としての務めが済んだか。

2002.6.1:生まれ故郷(大阪府・門真市)再訪。1964年以来38年ぶり。お鮨をとり、缶ビールを
    冷やして待っていてくれた。隣の娘さん・息子さん、向いの恂ちゃんとは58年ぶり。隣の
    家は「昔と造りが変っていません」とのこと。隣の娘さん(名前を聞き漏らした)は
    「お兄さんとはよく喧嘩したのを覚えてます。懐かしいなァ」。
    門真神社への寄付金100万円(松下電器)、50万円(阪急電鉄)の表示は1964年にも
    あったと思う。本当に懐かしかった。

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門真神社
左は1964年3月        右は2002年6月1日

2001.5.1-2001.4.30:工学部入試実施委員長。ミスがなくて当たり前、ミスがないだけで大成功。
    入試の種類が多すぎる。一年中入試をやっている。〔守秘義務〕

2000.5.1-2001.4.30:工学部入試副委員長。

1996.4:メディア通信工学科新設。教授就任。

1995.12:学部長命により部長室に出頭。学部長が開口一番『いい結果が出てますよ』。
    教授でも必ずしも後期過程の『指導教官(D○合)』に『合格』するわけではなく
    『授業担当(D合)』止まりの場合もあるのに、助教授『D○合』。既設の専攻には
    御呼びがかからなかったのに、嬉しい結果であった。

1995.8:茨城大学大学院理工学研究科博士後期課程「環境機能科学専攻」設置申請に伴い、
   この専攻に参画。大学院設置審議会の資格審査を受ける。

1994.7.24-29:ICVGE-8(Freiburg, Germany)で発表。フランクフルトから列車で4時間。あと1時
    間も乗っていればスイスに出てしまう。『電気通信普及財団』より旅費43万円受領。
    フランクフルトのシュテーデル美術館訪問。出国時、空港に8時間前に行って搭乗手続
    きをとるも、搭乗便・KLMオランダ航空(アムステルダム経由)が来ないため、ルフ
    トハンザに振替えてくれた。

1993.9.30:北海道大学より博士(工学)の学位授与。

1993.9.13-17:U-Y-98(New Port, RI)で発表。茨城大学工学部創立50周年記念事業による海外
    派遣プログラムにより50万円。会議後、ボストン美術館再訪、デトロイト(ALPS AUTOMOTIVE)
    の従弟(剛君)を訪問。最後はシカゴから帰国。シカゴ美術館、シカゴ交響楽団
    演奏を鑑賞。秋分の日:夕日が摩天楼の間に沈むのを見てここのビルは正確に東西南北
    を向いているのを確認した。

1992.6.24-26:初の渡航。アメリカでの国際会議で発表。全部口頭発表。場所:MIT 柊元教授(東工大)に
    プリゼンテーションを誉められたけれど、論文採択までには大分苦労した。ボストン美術館で
    ルノワールのブージヴァルの踊りを鑑賞。1992 Electronic Materials Conference

1991.9.8-13:2度目の国際会議。場所:岡山県玉野市。U-Y-91

1991.7.14-17:初めての国際会議で発表、といっても、場所は名古屋国際会議場。ポスターセッ
    ションを希望したら、お客は日本人だけで会期中一言も英語を話さなかった。ICVGE-7

1974頃:硬式テニスを始める。県大会(壮年の部)日立地区予選で2回戦勝利がやっと。今な
    ら老壮の部に出場しなければならないがサタデープレーヤーとなって久しい。

1967.4.1:就職。学生時代の下宿の小母さんから「帰ってくるなら空けとくよ」の一言で、
    結婚するまでの1年間、また弁当のお世話をいただく。
    茨城大学工学部電子工学科→電気電子工学科→メディア通信工学科

1965.4:北海道大学大学院工学研究科修士課程(電子工学専攻)入学。

1964.3:大阪府門真市の生家を訪ねた。幼時の記憶のみで門真駅から歩いた。全く迷うことな
    くたどり着けた。距離感は幼時の半分以下であった。近所の人とも会ってきた。
1961.4:茨城大学工学部電気工学科入学。日立での下宿の3年間、弁当を持たせてくれた。
1957.4:岩手県立盛岡第一高等学校入学。高校では化学部。草から紙をつくった。文化祭で一日に
    50回くらい説明した。

1956頃:中学のNHK合唱コンクールはいつも下橋中学に負けて代表になったことは無い。男声
    ダブルカルテットは楽しかった。

1954.4:腎臓結核により右腎摘出(生死の境をさ迷うも本人自覚無し)ストレプトマイシン
    (40本)投与、聾者になることを心配。パス服薬、この薬が呑めればどんなにま
    ずい薬でも呑めるようになる。人間、腎臓1個でも少なくとも48年間は普通の生
    活が出来ることを実証(2002.4現在)。今なら在宅で教師訪問などがあるが、1年
    間の休学は悔しかった。

1953.4:盛岡市立上田中学校入学。

1953.3:櫻城小学校卒業時は1クラスジャスト70名、6クラス。学級崩壊なんかなかった。
    途中転校して行ったクラスメートとも付き合いがある。

1947.?:父の戦死公報入信(1945/6/15:フィリピンにて戦死)。戦後の新学制の第1期生で平
    仮名で習うも、櫻城小学校は全国でも有名な日の丸校長で2月11日も、4月29
    日も11月3日も登校して祝った。貞明皇后が亡くなった時も校庭で宮城遥拝をさ
    せられた。だから、日の丸に違和感無く育ったものの、今の世に強制的に歌わされ
    るのは反対。歌わない自由がある方が良い。

1946.3.16:私の目の前で、弟・繁がトラックに轢かれて死亡(享年:4歳)。私が外に遊びに
    出た後を追ってきての災難。ほんの少しだけでも待ってやればよかったと今にして
    思う。

1945.8.15:終戦の詔勅をラジオで聴いた。「日本負けたんだって」と言った母の言葉を記憶し
    ている。
1945.3.10:盛岡駅前空襲。空襲警報が鳴る度に押入れに入ったり、防空壕に避難したり野宿
    を経験。
1944.12?:父、「南方」へ出征。出征当夜、家族は駅に見送りに行ったが小生は寝ぼけて連れ
    て行ってもらえず後で地団太を踏んで泣いた。小生が「小学校にあがる頃に帰る」と
    言って行ったそうだ。
1944.9.29:祖父死亡、一緒に暮したのは2ヶ月足らずながらブリキを切り半田鏝を七輪で
    暖め、呼子を作ってくれた記憶がある。父が軍装したまま亡くなった祖父の髭を剃っていた。
1944.8.1:父の応召により両親の郷里、盛岡市に帰郷途中、富士山に夕日が落ちるのを見た。
    盛岡まで乗り換えた記憶は無い。満員列車で母が水筒に水を汲みに行くのが不安
    であった。盛岡駅から家まで兄とトランクと一緒に人力車に乗せられた。
1940.7.8:大阪府北河内郡門真町に生れる
(父は転勤族)