岩手県立盛岡第一高等学校1960年卒在京同期会
在京白堊三五会・エッセイ(福田浩尚)

海外(豪・約2年間)に赴任して間もない頃の体験記。
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『海外自動車騒動記』

 36年以上にもわたるサラリーマン生活の中で、2年ほど海外に駐在したことがある。

今から20年以上も前であるが、場所はオーストラリアのシドニーである。当時、コンピ

ュータ機器を海外に輸出しようという企画があってやはりアメリカがもっとも大きなマー

ケットになるであろうがアメリカは最初からではリスクが高すぎる、こういう場合は、テ

ストマーケットというのがあってそこで手始めにやるのが上策である。日本でも衣料品メ

ーカーなどは、札幌をテストマーケットとして様子をみるそうだ、などとそろそろ仕事も

分かってきた頃の生意気盛り・・・私がそんなことを吹いたものだから「そんなら、お前

がやってみろ」ということになった。早いほうが良いということでとるものも取りあえず

私の駐在が決まった。結果は思った通りには進まず、その後、私の赴任したシドニー支店

も、閉鎖することになったのだが、今回書くのはそのことではない。



 自動車にかかわることである。私たちの学生の時代は乗用車はまだぜいたく品であって、

今のように学生時代に免許を取る者はあまりいなかった。私もそのひとりでサラリーマン

になっても自動車の免許を持っていなかったがオーストラリアに赴任してみて困ったのは

まず車の運転ができないことであった。この国では、車が運転できないということは、ま

ず不能者に近くほとんど日常生活の行動ができない。日本人は大体郊外に住むのだが住居

からちょっとした買い物をするための店まででも3キロから4キロもあるのである。自転

車という手もあるのだがこのシドニーという都市の郊外は起伏が多く自転車では実に大変

である。しかも中年の外人(現地人からみれば)そんなものに乗ってえいこらペダルを踏

んでいるのを見たら不審者と見られても仕方がない。とどのつまり免許を取らざるを得な

いのである。

 ところが日本のように自動車学校みたいなものはここには無い。免許をとるためには、

警察へ行って、実地と法規の試験に合格する必要がある。構造というのが無い。よくした

もので、日本人の遊学生みたいのがいて、アルバイトで車の運転を教えてくれる。私も若

い男の学生について早速車の運転を習うことになった。実地は文字通り最初から、実地、

路上運転である。郊外の住宅地の広い道路に連れて行かれてこれがブレーキ、これがアク

セルさあ運転してみろと言われる。なんとかかんとか車を動かすことを覚え車道に出るが

最初のうちはこわい。2〜3週間もこんなことをしたろうか。いよいよ、警察へ行って免

許の申請をする。実地のほかに法規があって、当然英語で問題が出る。問題自体は、英語

さえ解れば簡単である。たとえば、信号待ちで、赤、青、黄、のランプがついているが進

んで良いのはどのランプが点いている時か、と言った類である。ところが20問中18問

正解しなければ合格しないので、日本人は良く落第する。首尾よく合格したので、いよい

よ実地試験である。車の助手席にでかいオーストラリア人の警察官がどっかりと座って動

かし見ろという。しばらく、そこいらを走らせて、バックで駐車させる。いわゆる車庫い

れというやつである。やってみたがどうも一回でスムーズに駐車位置に停まってくれない。

オーケー、オーケーと言って手を振って降りるのでこれは駄目かなと思っていたら、合格

だという。前にも言ったように、ここでは先ず車の無い生活は成り立たない。従って、日

本と違って、自動車の試験は落第させるのが目的ではなく、余程でなければ、合格させる

のである。かくして、わたしも、初歩マーク(これは、1年間誰でも免許とりたてのもの

は、車につけなくてはならない)をつけて、会社から支給された車を運転できることにな

った。



 それからが、大変だった。この国では日本のような車検制度というものがない。(現在

は判らない)。西洋人の文化として自己責任という思想が徹底している。事故を起こして

死ぬのも自分の責任である。街には車検がないせいか、今でも分解しそうな古ぶるしい車

がばたばたと音をたてて走っている。しかもこの国は広大である。高速道路では150キ

ロは平気でぶっ飛ばしている。

 私も、恐れてばかりはいられない。慣れるため、できるだけ一般車道での運転の機会を

増やすことにした。初心者に難しいのはレーンチェンジである。片側三車線が当たり前の

国である。私はシドニーの街に繰り出し運転していたところ、後ろから大きなトラックが

追いかけてきて私の横にピタリとくっつくと大きな声で口角泡を跳ばして怒鳴っている。

もちろん、英語で、しかも早口なのでさっぱり要領を得ないがものすごく興奮している。

よく聞いているとどうやら私の車のレーンチェンジに問題があるらしい。急に予測もなし

にレーンを変更されたので、相手のトラックは驚いてしまったらしい。私はほうほうの呈

で謝ると急いでその場を逃げ出した。それから、3〜4ヶ月してからであろうか。少しづ

つ運転に慣れてきたような気がし、郊外の借家から事務所までの間、30分間を車で通勤

する日が続いた。しかし、正規な教育を受けてない悲しさ、車の構造に対する知識は、中

学校の理科の域を出ていない。どうも車の調子が良くない。走行中に、時々エンジンが止

まるようなことがある。ガソリンスタンドもほとんどが、セルフサービスで、日本のよう

に、ちょっと調子が悪いからと言えばすぐ見てくれるような環境にはなっていない。すべ

て自己責任の国である。

 そのままほうっておいたらついに来るべきものが来た。勤務時間を終えて帰宅の途につ

く黄昏時であった。激しい交通の真っ只中の大きな車道で、交差点の信号待ちをしていた

ら、エンジンが止まってそれっきり動かなくなった。その時のことは今でも思い出したく

ない。パニック状態になった私は、少し邪魔にならないところに移動させようとバックに

ギアーを入れた。エンジンのかからない車はするすると後ろに向かって動くとあわててブ

レーキをかける間もなく後ろに停まっていた他の車にぶつかってしまったのである。後ろ

の車の持ち主は、中年の紳士と言った感じで、今ついたかすり傷を入念に見ている。車は

英国製の高級車で、話してるのを聞くと買ったばかりの新車らしい。私も、どうしようも

なく、アイアムソーリー、アイアムソーリーと連発するほかはなかった。そうしたらその

男性も、アイアムソーリーツー、アイアムソーリーツーといった。この時はじめて、ソー

リーという英語は、単に申し訳ないと、謝る時に使うだけでなく、自分も困った、情けな

いという意味にも使うのだなあと言うことが分かった。しかし、その男性も、こんな東洋

人を相手にしてもしようがないとあきらめたのだろう。そのまま運転して行ってしまった。

しかしそれからが、大変である。「泣き面に蜂」とはこのことを言うのだろう。動転のあ

まり、私はキーを車の中にさしこんだまま外に跳びだしたものだから、ロックされてしま

った。もう車の中に入れないのである。私はどうしようもなくただおろおろするばかりで

あった。私の狼狽しているのを、見かねたのだろう。一人の中年の男性が、自分の車を道

路わきに停めると歩み寄ってきた。私は、車が交差点でストップしてしまい、更に鍵を車

の中に入れたまま出てしまったものだから、自動的に鍵がかかって入れなくなってしまっ

たことをかいつまんで話した。鍵は他に無いかと聴くので、ここには持ってないが家には

ある。それでは、私の家に取りに行ってやるから、自宅に電話しておいてくれという。悪

いきがしたが、風貌からみて、親切そうな紳士だし、この際他に方法もないことから、彼

に私の家の住所を教えてやった。家内に先ず電話しなければならない。いきなり、見ず知

らずの外人が来て自動車の鍵などと言われても何のことか埒があくまい。急いで、電話を

探す。公衆電話があったので、近づいてみたら、もうすでに、妙齢の金髪女性が使用して

いる。仕方なく外で待っていたが、これがなかなか終わらない。どうも別れ話でもしてる

のか、電話の相手の不実でもなじっているのか、眼に涙までためて叫んでる様子だ。普段

なら、金髪が身体を震わせているのを見るのも悪くはない。だが、こんな時になにもそん

な長話なんか後にしたらいいのにと、時が時だけに業を煮やして、外からガラスをどんど

ん叩いて、早く終わるようにうながした。



 どうにかこうにか、家内とも連絡がついて、数十メートル離れた現場に戻った。このま

ま腕をこまねいて待ってるわけにもいかず、とにかく警察の手を借りなければならない。

運良くパトカーが通りかかったので手をあげ、事情をポリスに話した。二人連れのポリス

はけげんそうな顔をして、あわてふためいて興奮している東洋人の顔をじっと眺めていた

が、事情を了解したらしく、この国の、日本ではJAFにあたるロードサービスに電話し

てくれた。すぐ来てくれると言う。こういう類を含めた事故は、珍しいことではないらし

くこの国では、ロードサービスが、実に充実している。私は、先ほど頼んだ人が無事に鍵

を持って来てくれるか心配しながら待つことにした。このまま、車をそこにおいたままト

ンズラしたい心境になっていた。そのうちに、青いランプを点滅させて、ロードサービス

が到着したこのままでは、交通の邪魔になるのでクレーンで前車輪を吊ると道路肩に故障

車を移動した。鍵を頼んだ人はまだ来ない。家からここまでは、15分くらい、往復でな

にかあっても40分くらいで着く筈である。車の場所を移動したから見つけにくいのだろ

うか。あるいは・・・・、とよからぬ想像が胸をよぎった。ロードサービスの担当者には、

事情を話し少しの間待ってもらうこととした。一時間くらいたったであろうか。ようやく

目的の人が鍵を持って現れた。地獄で仏とはこのことなのであろう。他に言える言葉も思

いつかず何回も、サンキュー、サンキューと言ってお礼をした。とりあえず、その人から

名刺をもらって別れた。それから、家まで、牽引して行くことになった。



 家に着くと、今までの疲れがどっと、出てシャワーを浴びるとそのままベッドに入った。

ところが、ベッドに入ると今度は、興奮したせいか眠れない。ようやくうとうとしたと思

うともう朝だった。今日は色々後始末をしなければならない。先ず、車を見てもらわなけ

ればならない。私は、日本人が居て、会話の通じるガソリンスタンドまで車を運搬するこ

とにした。ここは、車の技術的なことを色々、きかなくてはならない。中途半端な英語で

は誤解を招く。スタンドマンは、ボンネット開けるとすぐに言った。バッテリーがめちゃ

めちゃですよ。これでは、車は走れません。いかな技術オンチの私でも、エンジンには、

気化した空気を送るとともに、バッテリーから供給された電気でスパークさせ燃料を点火

し、エンジンが回転するくらいことは、知っている。言われたとおりバッテリーを新品の

ものと交換した。



 会社に帰って、もらった名刺の番号に早速電話した。昨晩は災難にあったところを助け

てもらって本当にありがとうございました。電話の向こうでは、なんでもないことだ、大

丈夫だったかと心配してくれた。今思うと電話だけで、本当にこれだけで良かったのだろ

うか、感謝の気持ちをもっと現すためには、本人のところまで直接出向くべきではなかっ

たかといささか反省している。



 日本に帰ってからも、性懲りもなく車を運転している。オーストラリアは、二年足らず

で引き揚げてきたが、日本では外国で取得した免許証は国内免許証に書き換えられる。試

験もなにもなく、書類の提出だけで日本の免許を持つことができた。車を運転することは、

きらいでなく、現在でも買い物やらなんやらでドライブしているが、正規な教育を受けて

ないせいか、しょっちゅう車体をこすり傷だらけである。だから、私はいつも車を購入す

る時は、新車でなく中古車にしている。



                            <2006・8月記す>