岩手県立盛岡第一高等学校1960年卒在京同期会
在京白堊三五会・紀行文・『福井紀行(7月5日−7日)』
by 内藤俊彦





――管理人宛送り状(メール)〔2013/08/09付〕――               

 8月に入っても梅雨時のようなハッキリしない天気が続いていますが,御地の模様は如
何ですか。御元気にお過ごしのことと存じます。                 
 小生は,7月上旬に越前旅行を楽しみました。その紀行をモノしましたので,お送りし
ます。白堊35のサイトに載せて頂ければ幸いです。但し,例によって,添付文書が欠け
ている場合は,気ままに書いただけのものですから,その儘にうち捨てておいて下さい。

 福田さんの原発問題に関する感想は,ポツポツ書いてはいますが,かなり重い問題なの
で,いつ終わるか判りません。遅れることの弁明を兼ねてですが,充分時間を掛けて議論
するべき問題だと思います。                          

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――管理人・註――                              

 旧字体漢字は、新字体に直したものと旧字体のままのものと混在します。     
 ルビは全て省略しました。                          




『福井紀行(7月5日−7日)』


 1.福井に着いたのは7月5日12時半過ぎである。駅の傍にあるホテルに荷物を預けて,
そのまま市内見物に出掛ける。駅から5分ほどのところに福井城の本丸がある。お堀と見事な
石垣が美しい。駅側からお堀に架かる橋を渡って入って間もなく,藩祖結城秀康の騎馬石像が
建っている。北陸の押さえとして関ヶ原戦役後,越前藩68万石を宛がわれた家康の次男,武
将としても所領經營者としても有能な武将であったと思われる,34歳で病没する秀康の石像
は,二十歳前の童顔に見えるが,どうした訳か中國人石工の作品である。その本丸の中に県庁
舎が建っている。長男忠直が幕府の忌諱に触れて改易された後,次男忠昌が改めて50万石の
所領を宛がわれる。その後石高に消長があって,幕末には32万石である。当地は幕末の賢侯
の一人とされる松平慶永(春嶽)公のお膝元である。                 
 市の中心街に柴田勝家を祀った柴田社とその博物館そして北の庄の発掘遺構がある。全体で
 百メートル四方も無い,極くこぢんまりとした結構である。博物館には見るに足る遺物はなく,
遺構も石組みの一角を整備して公開しているだけである。神社自体,商店街の前を通り過ぎて
も気がつかず,疲れを癒やしに入った蕎麦屋でビールを飲みながら店の主婦に訊いて漸く場所
を探し当てたほどであった。しかし往事の北の庄は,巨大な城郭であり,大きな街並みを持っ
ていたと解説書には書かれていた。信長に越前經營を命ぜられてから秀吉に滅ぼされる迄7〜
8年,戦乱に逐われながら大規模な築城と都市建設を行った勝家は,「甕割り柴田」の異名か
ら想像される勇猛一偏の武将ではなく,優れた統治行政能力を持つ戦国武将の典型であったと
言えるようである。九頭竜川に勝家が架けた北陸街道の半石造半木造の橋が紹介されていた。
 ホテルに戻り,休憩の後,夕飯を取りに街へ出て,足羽川河畔のホテルのレストランで天麩
羅を肴にして焼酎を飲んだ。最後に註文した「越前風おろし蕎麦」は蕎麦の上に大根おろしを
乗せて薄味の下地を掛けたものであった。一風変わった食べ方ではあるが,取り分け旨いとも
思われない。                                   

 2.翌日は,8時過ぎのシャトルバスで永平寺に行く。巨刹である。山門を入って緩い坂道
を数百メートル登ると本堂,と言うのであろうか,幾つかの巨大な堂宇が廊下で繋がれた建築
群からなる伽藍であった。杉の巨木がこの建築群を取り巻き山の奥深くまで続いている。堂宇
が山の斜面に建ち並んでいるために,長い階段が幾つもある。廊下も窓や戸の桟も塵一つなく
拭き清められている。時に雲水に行き会うが,修行の場は観光客には公開されていない。その
所為であろうか,あるいはまた私がスレてしまったためであろうか,若いときに暫く暮らした
瑞巌寺脇の僧堂で感じた緊張を,ここでは感じない。2時間ほどで見物を終わった。家人の註
文で永平寺御用達の胡麻豆腐を求めて送る。昼飯後市の中心部にある繁華街を散策し,足羽川
沿いの街並みを歩き回る。どんな戦略的意味があったのか判らないが,h艪ヘ昭和20年の戦
災で市の90%以上が消失したとされる。そして,23年6月には大地震に襲われて市が全滅
 した。そのためであろう,幕末に活躍したh苳ヒ士たちの屋敷跡,あるいは来bオた坂本龍馬,
横井小楠など志士たちの止宿跡はただ標識が残るのみである。             
[Fig-1]

  3.7日,この日は越前町(以前は,織田町と呼ばれていたはずである,町村合併によって,
何の取り柄もない,平俗な名前に変えられてしまったのは遺憾である)にある織田劔神社を目
指す。前日にバスの案内所で尋ねると,市の近郊にある清水ターミナルまでは路線バス,そこ
から織田までのバスは電話予約せよとのことだったので,事前に往復便を予約した。田畑や丘
陵の間に所々団地が展開する路線バスに身を委ねたが,日曜日の所為もあるかも知れない,乗
客は始発から私を含めて3名,途中の停留所で1名乗ったが,結局ターミナルで降りたのは私
だけであった。終点に着くとバスの運転手が,あれですよと,前に駐まっているタクシーを指
差した。名乗って乗り込む。走りだして間もなく,話し好きで好人物らしい運転手が言った,
端から実も蓋もないことを云うとガッカリさせるかも知れませんが,見るほどのものは何にも
ないところですよ。何もなければ,無いことを見届けるだけで良いんですよ,と私は負け惜し
みみたいな返事を返した。聞けば,以前,奈良の雅楽師で笛を吹く人が態々神社を訪れたけれ
ども,何にも無いのに驚いて早々に引き返したとのことである。            
[Fig-2]

 織田信長の先祖はこの劔神社の~主であり,織田の庄の荘官であり,地頭であった。荘官と
しての勢力拡大には,由緒ある神社の神官として權威が与っていたであろう。いつの頃か,多
分室町時代の初め頃,斯波氏が越前国の守護大名の時期にその被官となり,主家が尾張国の守
護大名になるに及んでその地に土着し,守護代あるいは又代として勢力を蓄え,信長の一代な
いしは二代前辺りから戦国大名化したのであろう。「信長公記」は信長の父弾正忠信秀に関す
る記述から始まっている。信秀は尾張半国を支配する織田大和守の下に附く三奉行の一人であ
 ったが,すでにこの時期には大和守の支配を脱して独自の領国支配を確立していたのであろう。

三河・美濃などの近隣との戦闘に明け暮れていたようである。信長の代になって,尾張国に割
拠する同族を下して一国を支配下に収めた。桶狭間の決戦の一年前である。当然斯波氏はこの
過程で放逐されてしまう。といった織田家の出自の話などをしながら,3−40分前後の片道
をドライブした。勢力争いをして,追放したり,殺したりという話しはイヤですな,好きにな
れません,と運転手氏は顔を顰める。マア,殺すか殺されるかの時代ですから,仕方が無いの
かも知れませんねえ,などと訳知りぶった応えをする。そして,我ながらいささか品位を下げ
たような気分になる。車は丘陵地帯を抜けて狭い盆地に出た。そこに織田劔神社はあった。小
さな町である。織田は現在は字名として,あるいは地区名として残っているのだろうか。神社
は終点から徒歩10分足らずのところにある。そのまま車で乗り付けて貰った。      
[Fig-3] [Fig-4]

 織田劔神社の社殿は幅が2〜30mほどであろうか,目測には自信が無いが余り見当外れで
もないように思う。正面の鳥居から社殿まで100m余りと言ったところか。負け惜しみを繰
り返せば,見るべきほどのものは何も無い,というところが見所である。社殿の右に台座に載
った銅製の~馬がある。障泥アオリに織田家の紋所「五つ木瓜モッコウ(織田木瓜)」が描か
れている。参道中程の左手に金属製の寄附者名簿が掲げてあったが,織田家ゆかりの名前は無
いようであった。神社の簡素さの所以を考えるに,尾張桶狭間から本能寺まで22〜3年,中
道での横死は,信長に先祖名字の地の~殿を飾り立てる暇を与えなかったのだろうか,あるい
は晩年の信長は~佛に関心が薄かったのだろうか。境内に設けられた「由緒略記」には,信長
が大きな神領を寄進したと書かれている。しかしいずれにせよ,この簡素なたたずまいは,日
光のケバケバしさに較べて,いっそ清々しい。信長の勁烈な生涯に相応しいと感ずるのは,あ
ながち私の信長贔屓の所為からだけでは無いと思う。多年の思いが満たされたように感じた。
負け惜しみでは無く,来て好かった。15分ほど後に同じ車で,運転手氏と四方山の話をしな
がら帰った。運賃は往復で800円,地方振興の為に県から補助金が出るのですという,車の
メーターは片道4,000円を越えていた。                     

 4.昼飯後,歴代藩主の憩った庭園と別邸「養浩館」で時間を過ごした。孟子の「浩然の気
を養う」を典故とする命名であろう。本丸のお堀から徒歩で10分足らずの距離にある。規模は
小さいが落ち着いた庭園である,池塘を囲む松の疎林をぬって苔むした小径が通じている。カ
モが数羽時々羽音を立てながら静かに泳いでいる。別邸は戦災のために焼け落ちたのを復元し
たとのことである。池に臨む別邸の座敷に腰を下ろしていると,少し離れた所で郷土史家と思
われる老人が一人の観光客相手に小声で藩史の蘊蓄を傾けているのが聞こえてきた。それを聞
くとも無く耳にしながら,横になってしばし午睡。                  
 道路を隔てて隣接する「福井市立郷土歴史博物館」を見学する。展示のメインテーマの一つ
はもちろん,春嶽公とその家臣たちの幕末史における活躍である。橋本左内,中根雪江,由利
公正などの名はよく知られている。春嶽公の事績を解説した映像が,休憩ロビーのモニターに
映し出されていた。                                
 御三卿の一つ田安家から出て親藩筆頭の越前松平家を継いだ春嶽公は,儕輩の諸大名に抜き
ん出て聡明であったと言える。人の言によく聴き,そして用いた。橋本左内を藩医の地位から
抜擢して,緒方洪庵の適塾に遊学させた後,藩政の枢機に参画させた。熊本藩の横井小楠を招
聘して,文久二年に幕府の政事総裁職に就任するや,折柄来rの小楠を江戸に呼び寄せて,
小楠の幕政改革理念とその方策を聞き,これを実施せんとした。幕臣の勝海舟,大久保一翁,
川路聖謨などと親交し,島津斉彬,水戸斉昭,山内容堂,一橋慶喜らと親しみ,勝や大久保の
 仲介があったとはいえ土佐脱藩浪人坂本龍馬などの志士を親しく引見してその言に耳を傾けた。
人間的に好くバランスの取れた名君であった。                    
 しかし,政治の場における春嶽公の弱点もまたここに胚胎する。名門の貴公子に生まれ,名
門雄藩の当主となった温良誠実な春嶽が相手にしていたのは,藩内外の政治闘争で鍛えられた
下級藩士あがりの冷厳非情の政治家たちであった。明治維新を仕遂げた精~は後者によって担
われていたのである。西郷隆盛,大久保利通,木戸孝允,坂本龍馬,下級公家出身の岩倉具視
など,近代日本が持つことのできた最も優れたstatesmenである。 良質の坂本龍馬伝を書いた
アメリカの歴史家は,悲憤慷慨して直接行動を専らとする,政治の世界で手を汚したことのな
い下級藩士あがりの志士たちが,幕末の政争の中で経験を積み,広い視野の中で民族と国家の
歴史的課題に取り組む政治的人格へ成長していったのである,と論じている。彼によれば,こ
のような政治的人格の誕生,志士から statesmanへの精神的成熟,が維新の変革を成し遂げた
人格的条件である。優れた分析である。大久保利通は政治に処する決意を「自ら任して過を引
き結局を我に取る」と述べている。政治的行為主体としての勁い自負,目的実現に向けた熾烈
な意思と責任の自覚が見事である。                         
 閑話休題。春嶽公の政治的立場はほぼ一貫して公武合体路線であったが,薩長が倒幕路線に
移って行く元治・慶応の交(1864・5)辺りから,公の立場は中央の政局から徐々に乖離
し始めていく。それは公(朝廷)と武(幕府)の政治的立場が両立しがたくなっていく過程で
ある。このディレンマの中で春嶽公が演じさせられた悲劇的な役割(この悲劇性を公自身がど
れ程明晰に認識していたのかは,判らないとしておこう)の一つは,朝議による辞官納地命令
 を慶喜に取り次ぐ役回りを押し附けられたことだろう。王政復古を宣言して成立した新政府は,
慶喜に対して,宮廷官職(内大臣)辞任と采地返納を命じた。慶喜・徳川氏の政治的軍事的経
済的実力を剥奪せんとする措置である。維新政府成立後,春嶽公に与えられた最初の任務は,
この朝命を慶喜に伝達することであった。朝命伝達と慶喜説得に二条城に向かう彼の背後に注
がれた狡猾で冷たい眼差しを彼は感じ取ったかどうか。王家に対する忠誠と宗家徳川氏の安泰
とを願う,安政以来の公の誠実な努力は非情無残にも裏切られることになる。将軍継嗣問題以
来春嶽公に近侍し,公と越前藩の政治行動を克明に記録した中江雪江は,明治元(戊辰)年の
日記の中で,公の政治活動を総括して次のように書いている。「戊辰の春に至て宗家覆滅之禍
あり,嗚呼王政之復古は老公積年之持論にして皇国之為恭賀拝喜益勤王之誠忠を盡し給ふとい
へとも,徳川氏之変故意料之外に出て累年推轂之精義を空ふし給ふ事を悲嘆し給へり」(「戊
辰日記」)。                                   
 敗戦前後の人災と天災とのために,往時の面影は残っていないだろうが,福井の街路と街並
みは落ち着いている。街を行き交う人も商店で遇う人も表情が穏やかで,品の良さが感じられ
る。                                       

 5.福井の市街地を北に流れる足羽川の西,狭い場所で1km足らずの所から足羽山が起伏
している。大きな山ではない,丘陵である。この山の山頂近くに藤島神社がある。新田義貞が
 祀られている。「太平記」によれば,貞義は福井の近郊で討ち死にしたと伝えられているのだ。
平地から鬱蒼と大木の茂るかなり長く高い石段を登らなければならないのだが,ここは手を抜
いて,鳥居の前を通り過ぎて脇参道の様な道をタクシーで神社前まで駆け登った。車道から数
段上に立つ鳥居の向こうの狭い境内に社殿がある。茅の輪の前に立っていると神社の関係者と
思われる普段着の若い女性が通り掛かったので輪の潜り方の作法を教わって,神妙に参拝を果
たした。茅の輪を潜って左から∞の形に廻るとのことである。山の裾に鳥居があるところから
見れば,本来は山全体が神域なのであろか,別に足羽神社ほか幾つかの神社がこの山に祀られ
ている,これらとどういう関係があるのだろうか,大木が山全体を深く覆っている。社殿が山腹
にあるからか境内はとても狭い。ということの外,特に書き記すことは無い。       
 「太平記」を繙くに,戦いに利あらず小勢で藤島城に向かう途中,小溝を飛び越えようとし
たところ,乗馬が「五筋マデ射立ラレタル矢ニヤヨハリケン,小溝一ヲコヘカネテ,屏風ヲタ
ヲスガ如ク,岸ノ下ニゾコロビケル。義貞弓手ノ足ヲシカレテ,起アガラントシ給フ處ニ,白
羽ノ矢一筋,眞向ノハヅレ,眉間ノ眞中ニゾ立タリケル。急所ノ痛手ナレバ,一矢ニ目クレ心
迷ヒケレバ,義貞今ハ叶ハジトヤ思ケン,抜タル太刀ヲ左ノ手ニ取渡シ,自ラ頸ヲカキ切テ,
 深泥ノ中ニ藏シテ,其上ニ横テゾ伏給ヒケル」(巻第二十)。軍記物は語りの調子が良いから,
思わず引用が長くなった。古代中世の武人は心剛毅なものである。敵方に頸を渡すことを羞じ
て,自頸した後,泥の中深く頸を隠して,その上に倒れ伏した,というのである。現代人なら
ば,自頸する前に心萎えて命絶えているであろう。頭注によれば,藤島城は福井市丸山に比定
されている。地図に徴するに,現在の丸山町は川を挟んで東側,神社から5〜6kmはあるよ
うだ。                                      
 徳川氏はある時期から新田氏の子孫と称して,源氏を名乗っている。とすれば,南朝の忠臣
 新田義貞公討死の地は,徳川家にとって因縁浅からぬ土地であろう。三河の足助アスケ川上流,
殆ど美濃との国境クニザカイに近い辺りに奥平郷という集落がある。ある時そこに一人の乞食
坊主が流れ込んで,郷士奥平氏の養子となって数人の子女を儲けた後,さらに上流に遡った松
平郷の郷士松平氏の養子となりここでも数人の子女を儲けた。その乞食坊主が,何を隠そう,
得川を名乗る義貞の子孫であったというのだ。山奥の集落の豪家に労働力として受け入れられ
た訳だから,屈強な身体を持ち経営の才に長けていたことは確かだろう。数代後にこの松平氏
は,足助川に沿って勢力を拡大し,安城を経て岡崎に進出した。得川を,いつの頃か徳川と変
えた。得は徳に通じる。荻生徂徠「辯名」にいう,「コなる者は得なり。人おのおの道に得る
所あるを謂ふなり。或はこれを性に得,或はこれを學に得。みな性を以て殊なり。性は人人殊
なり,故にコもまた人人殊なり」と。                        

 6.藤島神社から,木立に覆われて山腹を繞る自動車道を暫く歩くと見晴台につき,道が三
叉に分かれている。継体天皇像の標識はあるが,孰れの道がそれであるか判然しない。散歩中
と見える中年のご婦人が数人立ち話しているので,近付いて道を訊ねる。婦人の一人が,散歩
の途中だからそこまで一緒に行きましょうと連れの一人と歩き出したので,私も従う。私が新
潟から来たと知ると,息子が新潟に住んでいますという,お勤めですか,ええ中央区です,と
少し誇らしげに答える,自慢の息子であることが語気に自から現れて,微笑ましいと共に羨ま
しい。程なく,ここですよと指差す方に目を遣ると,10mほどの土盛りの塚の上に2m余り
の石像が建っている。写真は逆光になって少し見難いが,着衣や髪型,表情などが奇妙だ,明
治20年代の建立だという。下の写真は塚の裾に据えられた,由来を記した石碑であるが文字
 は読みにくい。継体天皇の石像だということを見るものに無理強いするためのものであろうか。
これがなければ何のことか判然しないのである。見る人によっては,出来損ないの孔子像か弘
法大師像と受け取るかも知れない。顔立ちがやや気品に缺けるが,高貴な方が常に高貴な容貌
をしているとは限らないから,まあ良しとするか。その下に,現代の読みやすい説明板の写真

を載せて置いた,即いて見られたい。                        
[Fig-5 [Fig-6]

 武烈天皇が皇嗣なくして崩御した後,応神天皇五代の孫として越前国から迎えられたのが男
大迹,尊号を奉って継体天皇である。継体の即位を積極的に推進したのは,大和朝廷の大伴大
連金村である。継体の父祖は近江国と越前国に勢力を築いており,天皇の生誕地も近江国であ
る。幼少時に父が薨じたので,母振媛はその父祖の地へ還り越前国坂井郡で天皇を育てた。福
県三国町あるいは丸岡町の周辺と考証されている,九頭竜川の河口付近である。武烈天皇が崩
御したのは,継体が五十七歳の時である。即位して間もなく,河内国交野郡葛葉郷の樟葉宮に
 遷った。その後山城国内で二度皇居を移し,大和の磐余の玉穂に遷るまで二十年を要している。
八十二歳で崩御した。以上は「日本書紀」「継体天皇」の項の粗筋である。研究者は,ここか
ら始まる王朝を「継体王朝」と呼んでいる。また,「応神天皇五代の孫」とは,皇統の正統性
を主張するためのフィクションであろうとし,さらに,大和国へ入国するのに二十年を閲して
いることから,大和に継体天皇の即位を阻止しようとする有力な勢力が存在したであろうと推
測している。足羽山は,「h芬s自然博物館」があり,散歩道が整備されている。この起伏す
る散歩道を楽しむ市民が多いようである。博物館の脇に出ると,またしても道が三叉になって
いる。さてどちらの道にしようかしらと思案しながら歩き回っていると,木立が茂って薄暗い
小さな池があり,その傍らに,北の庄攻撃の際の豊臣秀吉本陣跡と推定される旨書かれた標識
が立ててあった。散歩中の婦人に橘曙覧記念館への道を訊ねると,野草に隠れそうになってい
 る下り坂を示してくれた。継体天皇像へ導いてくれた婦人はタチバナショランと発音していた。
坂は土留めの附いた階段になっていたが,途中から石畳に変わっていた。取り留めもないこと
を考えながら歩いた所為だろう,記念館を見落として下まで降りてしまった。降り口から一・
二丁の四つ角の雑貨屋前に橘曙覧生家跡の標識があった。               
 その近傍は左内町と称する。橋本左内先生縁の土地らしい。歩き回っていると交差点に「左
内」の標識があった。昔流に言えば,「左内の辻」である。この地域内に「左内公園」があっ
た。少しばかりの遊具と狭い遊び場だけの,これだけを取り上げると何の変哲もない町内の広
 場なのだが,左内先生とその御両親の御墓所があるとなれば,取り扱いは自ずと変わってくる。
ホテルのフロントで貰った観光案内図に場所が明示してある。2m程の台座に,長身大よりも
少し高めの,佩刀を左手に持った橋本左内の銅像が立っている。顔は前方やや上方を見詰めて
いる。志士・偉人の目線はすべて上を向いているものらしい。銅像の背後に左内と両親の墓石
が建っている。左内を中心にして両親のそれが左右に配されていたように思う。偉人の親とい
うものは健気である,末代まで,偉人を顕彰するために,こうした位置に甘んずるのである。
私情を挟んで恐縮だが,私はこうした真っ直ぐな秀才は,ただただ遠くから眩しく仰ぎ見るだ
けである,苦手である,が,敬して遠ざけるなどの不遜は思いも寄らない。嘗て「啓発録」を
読んだが,ウゥンと唸ってしまった記憶だけが残っている。武士道と儒学によって鍛えられた
 禁欲主義の典型の一つである。旧暦で見れば,左内ともV諭吉は天保五年の同年生まれである。
両者のメンタリティーにはかなりの違いがあるようだ。左内は,安政六(1856)年に刑死
するが,すでに英書を読み解き,彼なりに日本近代化の端緒に辿りついていたのだから,ウゥ
ンと唸る外に仕様がないではないか。勿論この端緒から糸の向こう端まで辿りつくには,気の
 遠くなるような幾多の紆余曲折があり,我々はその紆余曲折の中途で右往左往しているのだが,
それは既に左内の与り知らない事柄である。そして,いま「糸の向こう端」と書いたが,実を
言えば,歴史に「糸の向こう端」はない,仮に有りとせば,文化的集合としての日本民族か,
あるいは人類そのものの,消滅する時であろう。余計なことを書いてしまった。刑死したのは
左内26才の初冬である。                             
 左内公園から200m足らずの処に西光寺という小さな寺がある,境内も狭い。山門を入っ
て間もなく,柴田勝家とお市の方の菩提を弔う眞にささやかな墓石があった。石は黒ずんでい
る。訪れる人は少ないようである。単に歴史上の名辞でしかなかった柴田勝家という名前が,
その運命が,この小さな古ぼけた墓石に出逢って,俄に近しく感じられるようになった。h
で収穫したことの一つである。大津の義仲寺ギチュウジに木曾義仲が弔われ,義仲の墓石の傍
らに松尾芭蕉の墓がある。芭蕉はどのような思いでここを終の棲家としたのであろうか。これ
も眞に小さな菩提寺ではあるが,今でも参詣人があるようだ。私はここを二度訪れた。芭蕉よ
りも,より多く義仲への哀惜からである。巴御前がその晩年にここで義仲の菩提を弔ったとい
う伝承があるそうだ。木曾義仲や新田義貞の死を詠う叙事詩はあるが,柴田勝家の死を弔い詠
う歌はないようだ。人々の哀感がお市の方により多く濺がれて,勝家の姿はお市の方の陰に隠
れているのではなかろうか。                            
[Fig-7]

 7.帰りは「h苴S道u瑞」の路面電車でh芍wまで戻った。当地に着いた日から気温は
連日35℃に迫る猛暑であった。6日と7日には,夕刻にかなり強い驟雨があった,雷鳴がし
きりに轟いた。h艪ゥら小浜まで足を延ばす予定であったが,余り消耗しないうちに帰還する
こととした。明日は金沢の兼六園にたちよって,新潟に帰ることとする。駅舎の中にある居心
地の良い料理屋で越前料理の幾つかを味わいながら,気持ちよく酔った。