岩手県立盛岡第一高等学校1960年卒在京同期会
在京白堊三五会・紀行文(内藤俊彦)




 寒くなってきました。お元気なご様子を在京白堊三五で拝見しております。また,村野井さんと向井田さんの写真を,
異国の空の下で見ながら,それぞれに懐かしんでいます。20km以上も遡上してきた鮭は,痛々しいまでに傷ついてい
ますね。その種と個体の生命力に畏れすら感じます。                             
 当地も寒くなりました。19日に初雪があり,翌日の朝は水溜まりに薄く初氷が見られました。それから金曜日まで寒
い日が続き,その後若干陽気が恢復したようです。今日などは,ガラス戸越しの陽光を受けていると,汗ばむほどの暖か
さです。しかし昨日から,全市一斉に暖房が入りました。当地は市内を幾つかの地区に分けて,地区ごとに独占企業が集
中的にスチーム暖房を行っており,各地方の暖房開始と終了の日付は中央によって決められている由です(中央集権とい
 うか中央統制といいますか)。寒暖に拘わらず,4月初旬の某日には暖房が切られることが既に決められておるそうです。
 今頃は,八幡様境内の大きな銀杏の木が綺麗に黄葉していることでしょうね。こちらでは柳や楊(広く言えばポプラで
しょうが)の葉が黄葉して盛んに飛び散っています。当地は緯度(43°53′)が高く(ほぼ旭川に等しい),午後三時頃に
は既にものの影が長く伸びます,そして周りに全く高地のない平原のなかに立地した街ですので,夕陽はほぼ地表に平行
に射してきます。微かに冠雪した岩手山の写真を楽しませて頂きましたが,当地では季節の移り変わりを視覚的に楽しむ
風情はなく,寒くなって来たと思っているうちに,ある日木の葉が散り始め,粉雪が舞うということになります。慣れれ
ばこれもまた一つの風情なのでしょうね。                                  
 さて,当地に来るに当たって少し凝りすぎたメールアドレスを作って,専らそちらを使っていたのですが,どうも反応
がはかばかしくないと思っていたら,セキュリティ警戒網に引っかかって,その多くがあえなく迷惑メールに隔離された
ようです。私は結構気に入っていたのですが tonight・・・・@というのは,その筋から見ればいかがわしく見られたか
もしれません。そのため,当地の様子を文章にして写真を添えてまっとうなメールの方で送信しますので,お手数でも在
京白堊35のサイトに搭載して頂ければ幸いです。                              
 寒くなって参ります。どうぞお体をお厭い下さい。当地では,昔は零下40度まで下がったが,今はせいぜい25度で
す,暖かくなりました,と慰めるのか脅かすのか判らないような言葉を頻りに掛けられていますが,元気でおります。
                                                    匆々

『長春たより(1)』


―大学―

 大学本部のあるキャンパスは市街地の中心部に位置しているのであるが,喬木が
亭々と繁って並木を作り,疎林をなしている。林の中では,カササギやオナガなど
の野鳥が飛び交い,尻尾を伸ばすと体長が50cm位になる殆ど黒に近い焦げ茶色
のリスが走り回っている。春先の早朝には,アカゲラの木を叩く音が遠くまで響い
てくる。そして,木々の間にはテーブルと椅子が据えてあり,早朝に通ると木立の
中で英語を朗唱する学生の姿をしばしば見かける。冬季や雨の日などは建物の中の
広いスペースを見つけて稽古している熱心な学生もいる。          
 この大学は教員養成大学であって(正門の欄間の部分には『爲人師表』と大きく
書かれている),入学定員は3000吊を超える。中央政府(教育部)の直接の管轄下
にある『重点大学』であるから,学生の出身地は,地元が多いことは当然ではある
が,遠く四川省・湖南省・安徽省・浙江省・福建省など全国に散らばっている。女
子学生が圧倒的に多い。ちなみに,日本語科と商務日本語科は,おのおの毎学年ほ
ぼ30吊前後入学するが,男子学生はそれぞれ4~6吊くらいである。なお,この
大学の商務を含めた二つの日本語科の教育評価は国内でトップクラスの実績を上げ
ている。                                
 中国でも大学はそれぞれ教育理念やら教育目標やらを掲げて,定期的に厳しい評
価を受けることになっている事情は,独立行政法人化後の我が国の大学と同じであ
る。昨年滞在した折に,構内の至る所に『建設国内一流国際知吊的 研究型綜合性
師範大学』というスローガンが掲げられているのを見付けて,法人化を控えた我が
国の多くの大学が掲げたスローガンとの余りの類似に,往事を思い出して思わず苦
笑したことを覚えている。                        
  大学は全寮制で,学生は1室6吊が原則として4年間起居を共にするようである。
ここで一人っ子が集団生活を経験することになる。多くの学生が,寮生活を通して
初めて,自分のことを自分で処理し,ルームメイトや友人たちとの葛藤を解決し協
 調することを覚えたと述べている。部屋にはユニットになった個人用のベッド・机・
洋朊箪笥・整理引出が設備され,個人専用のインターネット・コンセントも取り付
けてある。                               
 ある日2年生の教室に入って教卓を見ると,表面を拭いたらしい痕があり所々に
水が乾き切らずにいるのに気付いた。教卓の脇に置かれた雑巾はグッショリと水を
含んでいる。憮然として,いいか,雑巾はこうして絞るものだ,と口上を述べて実
演すると,床に大きな水溜まりが出来た。剽軽で気が利く男子学生が,先生,後は
私が片付けます,とモッブを持って水を拭き取ってくれたけれども,後ほど年配の
教員に聞けば,雑巾・手拭いは両手で押しつけるだけで,絞ることを知らない学生
が少なくないのだとのことであった。大学に入るまで受験勉強に忙しかったのであ
る(私には,それにしても・・・・,という思いが当然あるのだが)。      
 全寮制は学生管理の上からも必要であろうが,それ以上に彼らの生活教育および
社会教育(ほかに適切な言葉を思い付かない,生活上と社会上の躾とでも呼べばい
いのだろうか)の面からも上可欠なのであろう。少し話が飛躍する嫌いはあるが,
欧米では,これら一人っ子たちが国家や社会・経済のリーダーとなる 3*40年後
の中国首脳との付き合い方を研究しているのだという,冗談とも真面目とも付かな
い話を聞いたことがある。しかしこの噺,何やら幾許かの現実味が感じられるよう
にも思われる。(17th Sept. '09)                     


―『預防猪流感』―

外国語学院一階ロビーにあるエレベーター昇降口脇に,女子学生のサークルが出
 した『預防猪流感』と題する手書きの文書が貼られていたので,写してきた。曰く,
『・打噴嚔或咳嗽掩口鼻/・勿随地吐痰/・有呼吸道感染徴状,或発焼時,/応戴
上口罩,儘早就医』(/は改行,簡体字は通行の漢字に改めた)。クシャミや咳を
するときは口や鼻を掩えとか,喉などに感染症状が有たり発熱した時は,マスクを
して直ぐに医者に行けという注意は極く常識的なものであろう。しかし,やたらに
あちこちに痰を吐くなということになると,少し考えなければならない。   
 さすがに大学構内で教職員や学生が痰を吐き散らすという光景は見たことがない
が,街に出ると,歩行者はもとより,自転車や自動車の窓などから痰を飛ばす風景
 は普通に見られる。どうかするとエレベーターの床にまで痰の痕があることがある。
ある日道を歩いていると,自転車で追い抜きざまに痰を飛ばした奴がいた(私を目
 掛けて吐いたのでなかったのは,幸いであった)。飛沫感染の危険どころではない。
 事ほど左様にあちこちで遠慮なく痰が飛ばされることになると,事は『預防猪流感』
(つまり,公衆衛生)の問題を越えて,公衆道徳の領域にまで及ぶことになろう。
(19th Sept. '09)                            


―旧滿洲國官庁街―

 長春は歴史の新しい街である。19世紀初頭に現在の長春駅の東南4*5kmの
所に城壁を備えた長春城の市街地があったが,1905*6年に北側の城壁から2
kmの地点に長春駅が建設され,駅の南側,鉄道付属地に南滿洲鉄道株式会社の手
によって,新しい長春の市街が建設された。1931年の柳條湖事件に始まる所謂
 『滿洲國』建国とともに(これを,中国の現政権が『僞滿洲國』と呼ぶ所以である)
ここ長春に首都が置かれ『新京』と改称されたことは周知の通りである。旧長春城
はこの新長春の市街地に吸収された。                   
 建国後,日本人技術者によって新都建設が行われたのであるが,このプランの中
心テーマの一つが,駅から西南5キロほどの地点の新宮殿とこの宮殿から真南に延
びる幹線道路の両側に配置される官庁街の建設である。新宮殿は愛新覺羅溥儀が遷
座するはずのものであったが,完成前に滿洲國そのものが崩壊したために沙汰止み
になってしまったのは,お気の毒であった。解放後現政権の手によって完成され,
現在吉林大学の校舎の一部として使用されている。宮殿の南側は東西1km前後南
北1kmほどの広場となっており,晴れた日には(そして,長春は雲一つなく晴れ
上がった日がとても多い),市民が凧揚げを楽しんでいる。         
 この広場から真南に伸びる幹線は現在『新民大街』と呼ばれている。広い中央分
離帯には鬱蒼とした松の巨木が繁っており(椊えられてから,おおむね6*70年
は経っているのであろう),中央に歩道が設けられている。プランとしては,鎌倉
鶴岡八幡宮参道を大きくしたものと考えればよいかもしれない。道路の両側には幅
広い歩道があり,それに沿った紅や藍・赤紫などの花を付けた朝顔の絡まる鉄柵の
向こう側には,『僞滿洲國國務院』を始めとする滿洲國官庁の煉瓦造りの建物が厳
めしく建っている。現在その多くは,吉林大学の医学系施設として使用されている
ようである。これらの建物については,拙い文章の能く形容する所ではない,写真
で見て貰うことにしたい。写真を撮った時期が丁度建国60年記念の国慶節直後で
あったために,市内のビルというビルには慶祝の横断幕が張られていた。写真に写
っている赤い横断幕がそれである。これが取り払われたならば,撮り直したいと考
えている。(29th Sept. & 10th Oct. ’09)                 



―北朝鮮政府直営朝鮮料理店―

 吉林省の東端は南の鴨緑江と北の図們江を隔てて北朝鮮に接している。そして長
白山(白頭山)の北の中国領は曾て間島と呼ばれた朝鮮族居住地区であり,現在は
延辺朝鮮族自治州が置かれており,長白山の南にある通化市内でも商店の看板はハ
ングルと漢字が併記されていた。そのためであろうか,長春にも朝鮮族が比較的多
く居住しているようであり,朝鮮料理店が至る所にある。中でも西朝陽路ある北朝
鮮政府直営の朝鮮料理店『仁風閣』は堂々たる構えの高級レストランである。 
 中国に長く留学し現在四川省成都に滞在中の韓国人金君(娘婿であり,腕の確か
な漢方医である)が,国慶節の長い休みを利用して長春を訪れたのを機会に,あち
こちを探索に出歩いている。私は『ニーハオ』と『シェシェ』くらいしかできない
ので,金君が専ら先導役を努めてくれる。この日も新民大街の西側にある繁華街を
散策した後,昼食にこの『仁風閣』に立ち寄った。というよりもこのレストランが
本日のお目当てで,散策はそのための腹拵え(『腹拵え』とは,言葉の通常の用法
にいささか逆らうようでもあるが,特定の目的のためにお腹の状態を整えておくこ
とを『腹拵え』と言うとすれば,言葉の原義にいささかも外れるものではない・・・・
と思う)であった。                           
 さて,正面の回転ドアを押して中に入ると,伝統朊の若い女性が応対に出て,直
ぐ二階に誘ってくれた。二階は,広いホールの両側と中央とに5~60cmほどの
高さの小上がりがあり,そこが太い木製の間仕切りとガラスとで3坪弱の広さに囲
 まれている。木の仕切りや壁の腰板・天井の木枠などは透明な塗料を塗っただけで,
白い木肌と木目が美しく簡素である。中に6人掛けのテーブルが設えられ,下が掘
り込み式になっている。                         
 伝統の民族朊を纏ったお嬢さんたちが給仕してくれるのだが,お嬢さんと呼ぶの
が憚られるほど,彼女たちは背筋が伸びて立ち姿に気品があり,挙措は堂々として
いる。しかし,金君が朝鮮語で話し掛けて冗談を言っても,表情は硬くニコリとも
しない。料理の皿を,この伝統朊と挙措に相応しいとは思えない遣り方でテーブル
の上にゴトンと置いた。北朝鮮の国旗の胸章を付けている。日本人と韓国人が来た
ので警戒しているのでしょうかねぇ,ナショナルチームがアゥエイで試合している
気分ですね,と金君が巧いことを言った。もっとも,この硬い表情は,途中から笑
顔に変わって,金君の話に柔らかい表情で応えてくれるようになった。我々が,毒
にも薬にもならない,無害な人間と判明したためであろうか。しかし,彼女たちの
吊誉のためにいささか弁じておくと,二度目に行った時には,最初からとてもにこ
やかに対応してくれたのであった。                    
 料理の方はどうか。金君が,ウム,これは韓国でも滅多にない伝統の味ですね,
と唸った。冷麺は平壌周辺が本場とのことである。極く薄い醤油色をした透明なス
ープの底に,黒味がかった細い麺が沈んでいる。その上に牛肉・キュウリ・トマト
の薄切り,ゆで玉子,キムチ・コチジャンなどが載っている。スープはしっかりと
 出汁が効いて,さっぱりした上品な味わいである。麺の歯触り歯応えも申し分ない。
キムチ・・・・日本で市販されているキムチは甘味料や香辛料が様々に使用されている
ために,くどい味になっていて馴染めなかった。ここのものは,唐辛子の強い辛味
と発酵によるかすかな酸味がシンプルな味わいを出している。余計な甘味料が使わ
れていないところがよい。近代化の悪弊を免れていますね,と金君が際どい褒め方
をした。伝統の朝鮮料理を満喫し,美しい令嬢たちのにこやかな笑顔に送られて,
我々は『仁風閣』を後にした。                      
 『仁風閣』についてはもう一つの『事件』を書き記しておかなければならない。
2007年秋に,大学の女性教師の案内でここを訪れたことがあった。ドアを排し
て中に入ると,階段の直ぐ脇に控えていた,背が高く若くスマートな美女(支配人
格であろうと思われた)が,混んでいるから暫く待ってくれるようにと我々二人を
制した。しかし暫く待つ間に,後から来た4~5人のパーティーが幾組か,美女の
誘ないにより我々を素通りして二階に上がっていった。日本人である私を殊更に忌
避したものとは到底思われない。単に経営上の判断から,多人数組を優先しただけ
のものであろう。ここで連れの女性が憤然と怒りを発して抗議に及んだ。この両人
の諍いは実に見応えがあった。連れが怒気を面に表して声を励まして面詰にするの
に対して,相手の女性はあくまでも冷静沈着に応酬して,少しも動ずる様子が見え
ない。いや,ますますその怜悧な表情が研ぎ澄まされていくようでもあった。真に
動と静・火と水・陽と陰との諍いである。この争い,言葉が解ったら一層おもしろ
いだろうに,と心に呟きながら,暫く戦況を観望した後,さて,そろそろ出ましょ
うか,と声を掛けると,連れは渋々ながら,いささか分の悪いこの戦場から撤退し
たのである。今回はこの時の若い美人に再会するのを密かな楽しみにしていたので
あるが,果たせなかったのは残念であった。従業員はほぼ3年ごとに交代して帰国
するとのことであった。北朝鮮政府は容姿を含めてあらゆる資質において選りすぐ
りのエリートを派遣しているように見えた。(29th Sept. & 10th Oct. '09)  



『長春たより(2)』


―交通事情―

 長春市街を奔る自動車の交通量は一昨年に較べてかなり増えたように思う。市の中
心部の大きな幹線がいくつも交差する場所には,都市計画の最初の段階からロータリ
ーが設けられて,そのために車の流れは滞ることなく比較的円滑であるが,例えば片
側7車線の車道が交叉する大きな十字路のラッシュ時の混雑は相当なものである。
 この混雑にいっそうの拍車を掛けたのは降雪である。11月13・14日の両日に
わたって終日断続的に降った粉雪は,長春に本格的な冬を齎したようである。14日
の夕刻には6~7cmの積雪になっていた。雪が降り止んだ翌日から急速に気温が下
がった。朝5時前後の屋外の温度は*13℃,日中の最高気温も*5℃位の日が2~
3日つづいた。この積雪が,車に踏み固められ,硬く締まってアイスバーンのように
なった。さすがに幹線道路は夜のうちに除雪されていたが,路上にはまだ薄く粉をま
ぶしたように雪が残っていた。                       
 16日月曜日,本部キャンパスから東南に教職員の通勤用学内バスで20分ほどの
ところにある第二キャンパスへ向かう7時20分発のバスは,通勤ラッシュの中をス
ピードを落として運転している。まわりの車もいつになくのろのろ運転である,結局
われわれのバスは35分余り掛かって,目的地に着いたのは始業4分前であった。い
ぶかしく思ってふとタイヤに目をやると,驚いたことにこれがノーマルタイヤであっ
た。少しばかり背筋が寒くなる思いをした。しかし話はそれだけでは終わらない。後
に聞くところによると,当地の車は冬場もノーマルタイヤで通すとのことであった。
気を付けてみているとまことに話の通り,警笛を鳴らして勢いよく奔っている車はす
べてスリップ防止の装備をしていない。幅員70mはあろうかという幹線道路から横
町に曲がれば,路面に雪が凍り付いて,歩くのさえも覚束ない状態である。   

―道路清掃―

 早朝から多数の人たちが竹箒を使って道路清掃につとめているから,長春の街路は
常にとても綺麗である。それにも拘わらず感ずるこの町の埃っぽさは,朔風が運んで
くる砂塵と9月以来続いている異常乾燥のせいであろう。           
 雪が降って道路掃除に動員される人員が格段に増えたようである。17日早朝4時
 に目が覚めると,真っ暗な戸外からガチャガチャという絶え間ない音が聞こえている。
6時を過ぎても音は続いているので,薄明るくなった戸外を見下ろすと,10数人の
 男女が踏み固められて路面に硬く張り付いた雪を,スコップで砕いて取り除いている。
このような光景は,町の道路のあちこちで見かけられる。大雪になった場合にどうす
 るかは判らないが,今のところ除雪は専ら人海戦術によっているように見受けられる。
 こうした単純労働に従事する労働人口は有り余っているようである。急速に進む都
 市開発によって農地を取り上げられた農民が,お話にならないほどの低賃金で,深夜・
早朝を厭わずこのような単純作業に駆り出されているのである。かくして街路清掃は
少なくとも四つの効用がある。道路と市街の美化がその一つである。除雪による交通
安全の確保がその二である。農地を失った農民に対するささやかな収入保障がその三
である。農民の上満を慰撫し,現状を糊塗することがその四である。      
 17日所用で出た繁華街に,凍てつく路上に座り込む身体上自由の物乞いを見た。
ヨレヨレの厚い外套を身に纏い薄汚れた毛皮の帽子を被っている。暖かな時期にはこ
の界隈に4・5人は見掛ける。風は刺すように冷たく,毛糸編みの帽子や手袋は余り
役に立たず,顔の皮膚はザラザラした。成都から来た人の話では,彼の地では時に行
き倒れ人を見掛けるとのことである。この地では幸いに見掛けたことはない。長春は
綺麗だと彼は言った。とすれば,道路清掃や雪掻きは市政府当局の善政の一端なので
ある。                                  


『長春たより(3)』


―物 価―

 今回は長春の日常生活で見聞きした物の値段のあれこれについて,日常生活の備忘
録といった心得で,書いておこう。概して言えば,2007年秋から’08年夏まで
 滞在した時期に比べて物価は上昇している。なお,人民元と日本円との交換レートは,
1元が13円代を上下しているようである。                  
 まず住居。私の宿舎は,大学の南門から2~3分のところにある,大学が建設して
教職員に市価よりも格安で販売したマンションである。14階建てで3つの出入り口
に左右(東西)対照のフラットがあるから,1棟計84戸から成っている。同一様式
の棟が,南側に1棟,西側に2棟ある。建築後5年ほど経っていると思われる。南側
の建物との間隔は100m程。フラットの広さは130㎡弱,いずれもゆったりした
間取りの書斎1室,寝室2室,シャワー室,トイレ・洗濯室,それに南向きの広々と
したリビングに北向きのダイニングキッチン。天井の高さは3m余り,壁面は白一色
である。ただし,時には,上階の足音があたかも隣室を人が歩いているかのように響
き,明け方には(多分下階の)鼾も聞こえてくる。このフラットは,大学職員所有の
ものを大学が借り上げて,外国人教師の用に供しているものである。家賃は大学の負
担であり月2300元。民間人に賃貸する場合は月1800元程とのことである。大
学に賃貸することによって,家主の職員は賃貸収入が500元増えることになる。家
主は国際交流,外国人教師,留学生問題など外事渉外関係を所管する外事処の所長で
ある。大学の外人教員用宿泊施設はこの外に構内と市街地に数ヶ所ある。    
 この一角にある大学のマンションは別にして,市街地の民間のそれは,通常,一階
はスーパー(商店)・事務所・食堂などの店舗が入っており,二階より上が住居であ
る。2008年夏に若い教員ご夫妻の新しいマンションに招待された。3・4階を螺
旋階段で繋いだ100㎡程の広さである。内装・家具調度は瀟洒で落ち着いた雰囲気
に仕上がっている。新築マンションはコンクリートを打っただけのものを購入し,床
や壁・照明をはじめとする内装一切は,買い主が業者や素材などを選定し,値段の交
渉と工事の進捗を点検するとのことであった。市街地の外れに現在盛んに建てられて
いるマンションは1㎡おおよそ3000元,平均的な広さが100㎡,一戸400万
円程であろうか,現在上動産価格は上昇中の由である。1年前に7階にあるマンショ
ンが300㎡・800万円程であった,買い得であったがエレベーターがないからや
めた,という話しを先日聞いた。                      
 私の宿舎に話を戻す。電気・ガス・水道が通っていることは勿論である。水洗トイ
レ・シャワーが設備され,ガスコンロ・洗濯機・電子レンジ・テレビ・電話,その他
ソファー・机・洋朊ダンス・書棚などの必要家具が備え付けられている。インターネ
ットコンセントが壁面に取り付けられ,ダイヤルアップ方式で年間使用料800元。
電気使用量は,1人暮らしで早寝早起きを励行しているから,月60元前後。水道は
どうした訳か4ヵ月経っても一度も請求されていない。ガスは使用していないから徴
収されない。10月下旬から翌年4月上旬までのスチーム暖房費は,家屋の床面積に
応じて徴収され4300元弱,大学の負担である,室温は常時20℃程。電話代,何
度か国際電話で孫たちと長話をして,孫が電話口で長々と歌らしきものを歌ってくれ
て通話料9月分288元程(うち,基本料金=月額20元)であった。使用時間は請
求書に記載がなかった。国際電話は時々盗聴されるが,国家機密には縁がないし,滞
在国の悪口を言う非礼は敢えてしないから,全く気にしていない。       
 食費。一人で作って一人で食べるという索漠たる自炊経験があって,もう炊事を遣
る気にならないから,食料品の値段はわからない。料理屋の中国料理は多人数で食べ
るようにメニューができている。と言って,毎回誰かを誘ってメシを食いに行くとい
 うこともでき兼ねるから,大概は学生食堂で済ますということになる。そして学食は,
麺類(4~6元)にしても総菜にしてもかなり旨いし,四川・蘭州・福建・台北・韓
国・タイなどの地方色をうたったメニューも豊富である。ここでは旨い水餃子(正確
には,茹で餃子,因みにこの地方で餃子とはこの茹で餃子である)も出す,1両(6
コ,日本の通常のものより心持ち小振りである)で2~2.4元,私には3両で充分
である。詰め物は20種以上あり,注文に応じて包んで茹でてくれる。毎食大学食堂
で済ますとすれば,食費は月350元弱で済むようである。支払いはプリペイド・カ
 ードでする。しかし,かなりつましい食事をしている学生も時に見掛けることがある。
街には一膳飯屋や定食屋に相当する店もある。なお,当地方は国内有数の米の産地で
あり,大きなスーパーに当地産の『あきたこまち』が売られている。味は日本産と遜
色ない。10㎏で92.1元の表示があった。手に握ると隠れてしまうような小振り
のミカンが10コで8元くらい,同じくらいの大きさで,甘く果汁たっぷりの梨がや
はり10コで15元位したと思う。10月半ばでシーズンが終わったようで,この頃
は店頭に見掛けなくなった。サッポロ三八ラーメンの出店があって,料理人は日本人
という触れ込みだが,これがサッパリ旨くないから,滅多に行かない。中国人が結構
入っているから彼等の口には合うのであろう。店おすすめの味噌ラーメンが18元で
ある。市内の各所に日本料理屋やラーメン屋があるようだけれども,私はそれらを食
べ歩くほどの日本食偏愛者ではないから,探索する気にならない。大学の近くに『北
国』と称する日本料理屋があり,中国人に比較的よく利用されているようだが,人様
にお勧めする気にはならない。中国人は,日本の中華料理の味はどうも今ひとつ,と
首を傾げるが,同じ様なことは中国の日本料理についても言えそうに思う。現地人の
味覚に合わせて味を変えている。そうしないと商売が成り立たない。カエルや狗肉料
理は別として(子豚の耳とか鼻の料理というものもあるが,これも旨いとは到底思わ
れない),料理は現地人が食べる現地の料理が最上である。哈爾浜の滿洲族が遣って
 いる滿洲料理の老舗で,自家製の白酒をチビチビやりながらのシカ肉料理は旨かった。
噺が放蕩しだしたようである。マクドナルドのコーヒー小が7元,量が優に1.5倊
くらいはある大が8元,感心なことにコーヒーの味がする。と言うのは,フラリと入
った喫茶店でコーヒーと称する飲み物に18元支払った苦いというか,苦味も酸味も
ない,経験があるからである。インスタントコーヒーを少し濃い目のアメリカンスタ
イルで呑み込んだ様な味がした。そしてそのあたりが真相かもしれない。繁華街をや
や脇にそれたところにある喫茶店のコーヒーは文句なく美味しい,20元である。流
暢な日本語を話す小柄で魅力的な30代くらいの女性がやっている。これも散歩の途
中偶然に入った店である。ひと月遅れの『週刊新潮』を置いている。常連になりつつ
ある。細かなものを拾うと,大学の理髪店は,洗髪込みで10元,市内のそれは25
~30元程である。1合程の豆乳が1元,ミネラルウォーター530~40ml入り
が1~1.5元。このミネラルウォーター,長春龍嘉国際空港の搭乗待合室で22元
と吹っ掛けられて,耳の悪い私にしては感心にer-shi-er とは聞き取ったのだが,は
じめは何のことか判らず,紙に書いて貰って,エッと驚いた経験がある。値下げ交渉
をする気にもなれなかった。同僚によると売上げの多く(この場合は,20元程度)
は売り子の懐に入るだろうとのことだった。同様の経験,さるデパートで地元産白酒
500mlに120元の正札が付いていたが,大きな文房具屋で同じ商品が50元,
別の酒屋で60元,他で45元,大手スーパーで88元。今も行われているのかどう
か知らないが,新潟の代表的銘酒である『越之寒梅』や『雪中梅』などのラベルと栓
付きの空き瓶に,首都圏の闇市場で途方もない値が付いていたことがあった。言うま
でもなく,中身を換えてラベルのブランド吊で客に供するのである。旅先では新潟産
銘酒なるものを呑まないことにしていた。同じような手口がここでも行われているの
かとの疑いがないでもないが,ここは商人の正直そうで人懐こい笑顔を信じよう。自
由主義経済なのである。路線バスは,市街地で1元,近郊まで行くと2元となる。ワ
ンマンバスであり,女性運転手も?々見掛ける。タクシーは1.5kmまで5元,以
遠は距離によって逓増すること日本と同じである。私の経験では,言葉が上自由と侮
って誤魔化す雲助的運転手はいない。行き先のメモを手渡すとキッチリとそこまで運
んでくれる。大連行き夜行寝台特急硬座三段ベッドの下段が175元(距離は700
km程である)。広軌の分揺れが少ないせいか,寝心地はかなりよく,熟睡できる。
哈爾浜・吉林旅行は先導者が経理を担当したから,汽車賃は上明である。ただし,哈
爾浜で松花江の左岸にある太陽島に渡る観光ロープウエーの料金表に,往復50元,
 外国人100元とあった。驚いて先導者に,どうして外国人は倊額になるんだろうね,
と訊くと,爺ちゃんは喋らないで下さい,とご丁寧に日本語でたしなめられてしまっ
た。売り場の女性は,聞かなかったのか,聞かなかった振りをしたのか,それとも外
国人と気付かなかったのか(何しろ,中国には実に多種多様な言語がある。因みに言
う,『中国語』という言語はない。漢族の言語は『漢語』である。この漢語に多種多
様な方言があり,北京語が通じない地方が多い。北京語のテレビ番組の多くに漢字の
字幕スーパーが付く。その外に少数民族の言語がある),50元で売ってくれた。後
日この話しを聞いた中国人が,へぇ,まだ外国人料金が残っていましたか,オリンピ
ック前にその手の料金は禁止されたのですがねぇ,と笑って答えてくれた。大学生の
月々の平均的生活費は1000元程度と聞いた。外国語学院の玄関口にいる50歳前
後の女性守衛の月給は隔日勤務で300元(日当にして20元ということだ。配偶者
の収入と合算した金額が生活費となるのであろうが,それにしても低賃金である。こ
の婦人には大学生のお嬢さんがある)。勤務が終わると学生食堂の一階ホールで学生
相手に日用品・文房具などを売っている。休日には繁華街の路上で商いをしている由
である。大学教員の初任給は2000元,高校教員のそれは3000元と言って,中
年の大学教員が苦笑した。大卒の初任給は,地域(例えば,上海・深?などの経済先
進地区と経済開発の遅れた東北部とでは可成りの賃金格差が出るのは止むを得ない)
及び企業によって区々だろうが,聞いた範囲では3000元。来年7月卒業予定の4
年生が11月に就職内定し,大学の許可のもとに授業を欠席して企業で働いて,宿舎
 付きで月々の手当1500元,卒業後正式採用されれば月給3000元になるという。
今年の大卒の就職活動はかなり厳しいとのことである。            
 12月も中旬を過ぎると,繁華街にはサンタの人形やクリスマスの飾り付けあるい
はそれらしいプレゼント用の商品が並べられるようになった。と共に,寒風に曝され
ながら,物乞いが雪の凍り付いた繁華街の路面に座り込んでいる。ここでは公共施設
の片隅で段ボール生活をすることは,凍てつく寒風もさることながら,治安対策上公
安の認めるところではない。然るべき居所はあるのだろう。最近は,明け方の最低気
温が*22~3℃,日中の最高気温が*15~6℃程の日が多くなった。1月に入る
と一段と寒くなるとのことである。大学食堂の一階ホールでは,学生による歳末の貧
困児童救済義捐金募集が一週間ほど行われていた。これが共産主義であるのかとの疑
問が当然起きるであろう。否である,改革開放路線とは,この国が共産主義を捨てて
判然と資本主義に移行したことの宣言なのである,と私は理解している。この移行は
もちろん一時的なものではありえない。とは言え,資本主義への体制変換を公式に認
めることのできない事情が,この国には山ほどある。             
 出上精の私の見聞の範囲はごく限られているし,情報源に大きな偏りがあることも
否めないが,(国号に敬意を示して)人民の経済生活の一端を示せば以上の通りであ
る。もっとも,事毎に留保がついて我ながら情けないのだが,以上の物の値段は,最
近経済が上向きとはいうものの,工業化の点では必ずしも先進地域とは言いかねる,
旧満洲地区・長春の物価であることをご留意頂きたい。学生の作文の一節に,北京で
マンション一戸を購入する金額で,同じ規模のものを長春では2戸買えるという文章
に出くわした。ホンマかいなと思いつつ,それほど極端ではないにしてもあり得るこ
とかな,とも思う次第も書き添えておきたい。長城の北側の経済事情は南側とは異な
るようである。この地方は,敗戦後ソ聯軍に重要な工業施設を根こそぎ持ち去られた
にも拘わらず,1950年代には中国の先進的な工業地帯であったのだが,その後復
興と発展に取り残されたようである。                    
 12月22日は冬至であった。満洲地区では冬至の日には餃子を食べる習慣なのだ
そうである。この日は学食の餃子屋に学生が群がっていたために,遂に食べそびれて
しまった。当地にシベリア高気圧が南下して寒波が襲うと,2~3日程遅れて日本に
まで張り出すようである。この2~3日暖かな日が続いて日中の最高気温が*6~8
℃位であった。そういう日は何となく小春日和のような気がするから上思議である。
今朝は,昨夜の暖気で発生した霧が,未明の冷気で木々の枝に氷となって着いた霧氷
が見事であった。この冬は十数年ぶりの寒気と雪とのことであった。      
                              (23rd Dec. 2009)



『長春たより(4)』


  長春の短い春 長春の春は短い。長く厳しい冬が終わって漸く春が来て,草が萌え,
花が開いたと喜んでいると,二月も経たないうちに暑い夏になっている。斯くも短い
春にも拘わらず,何故古人はこの土地を『長春』と呼んだのか。惟うに,古人は短い
春を惜しみ,春よ,長かれと祈って斯く吊附けたのであろう。『長春』という題で学
生が書いた作文にこんな趣旨の一節があった。                

 長春の今年の春は、何よりもまず長く待たれる春であった。5月1日になって,最
高気温が漸く20度を越えた。そうした暖かな日が4日ほど続くと,待ちかねたよう
に楊の木の芽が薄緑色に色付いてきて,日増しに濃くなっていった。それから2~3
日間10度前後の小雨模様で膚寒く感じられる日があったが,春が着実に近付いてい
ることは,木の芽の変化によって知られた。杏の小枝が心なしか紅に染まってきたよ
うに感じられた。                             
 杏の花が咲きだしたのは8日であった。2日後の10日にはもう8~9分の花が開
 いていた。そして11日には,気の早い木は散り始めた。楊の新緑が萌えだしていた。
12日の夜行寝台列車で大連に行った。大連は長春の真南700kmほどにある,渤
 海湾と黄海とを分かつ遼東半島の突端にある海港都市である。周囲は山の緑に囲まれ,
気候は温暖・湿潤で,リゾート地に適している。丁度春が盛りを迎えていた。陽光が
明るく降りそそいでいる。ライラックと八重桜とが満開であった。楊・ポプラの深緑
が已に初夏の到来を思わせている。柳絮が飛んでいた。一昨年訪れた時には白い房花
を着けていたアカシアは淺緑色の葉を開いたばかりであった。当地の人は,春は一月
遅れてやってきたと云っている。全国日本語スピーチコンテストの東北地区予選を終
えて,翌日市内と旅順の旧跡を見物し,17日早朝長春に帰った。長春は小雨模様のど
んよりした空模様だった。今までのところ,今年は雨模様の日が多いようである。そ
のためであろう,黄砂は見られないが,膚寒い日が続く。しかし春は着実に歩を進め
ていた。杏の花は已に散り終えていた。大連で咲き誇っていたライラックが咲き始め
ており,木陰は芳香に満ちていた。                     
 木々の緑は深さを日一日と増していったが,数十年振りというこの冬の寒さを堪え
ることができずに枯れてしまった木々の無残な姿も目に付くようになってきた。とり
 わけ,大きな街路の並木として椊えられている松の被害がもっとも大きいように思う。
赤茶けた松並木の間に寒さを耐えた松の緑がポツポツと見られる場所が街のあちらこ
ちらに見られた。垣根や庭の椊え込みにもかなりの被害が出ているようである。 

 最近第二キャンパスでの用事が長引き,連絡バスに乗り遅れてタクシーを使う機会
が何度かあった。車に乗って気付いたのは,雪による路面の搊傷である。コンクリー
ト路面の至る所に亀裂ができ,大小の穴が開いている。タクシーは巧みにそれらの障
碍を避けながら,ジグザグに走る。厳冬期には当地は地下1.5mまで凍結する。従
って,道路の基礎工事はその深さまで行う必要がある,しかるにそれが為されている
のは,滿洲時代に整備された人民大街のみである,とのことである。歩道の敷石に至
っては,平らに整地した土の上にブロック煉瓦を敷いただけであるから,至るところ
で波打っている。随所に陥没した部分もある。煉瓦を敷いた時の水平な状態が保たれ
ているのはせいぜい一月である。多めの雨が降ればたちまち大小の陥没が起きる。
 21・22日には,気温が30℃を越えた。湿度が低いせいで,木陰に入ると涼し
く,建物の中に入ると空気がヒンヤリしている。下旬に3泊4日の西安旅行から帰る
と,木々は夏の装いに変わり,濃い緑の葉を茂らせていた。もう夏である。燕が姿を
現した。こちらの燕は,深い藍色の羽根を日の光に輝かしていた。長く待たれた長春
の春は,一月余りの後に慌ただしく夏と交代して,去ったのである。      

―雜 事 記―

  長春生活で気附いたこと或いは細々した知見などを拾ってメモ風に書き綴っておく。

①片手で数字を示す事 日本では1から5までの数字は片手で示す事ができる,6以
上の数字になると,株屋などの特殊な職業人でない限り,一般には両手を使うことに
なる。しかるに当地では,片手で1から10までの数を示す事ができる。その遣り方
を書き留めておこう。1は日本と同じである。人差し指を立てる。2は小指と薬指を
立てて残りの指を握る。3は中指・薬指・小指を立てる。4と5とは日本と同じ方式
である。6は拇と小指を立てて中の三本の指を握る。7は人差し指と中指を立てて,
拇を両指の尖端に着ける。ちょうど塩を多めに摘む時の指の形になる。小指と薬指は
握ったままである。8は拇と人差し指を立てて大きく開く。もちろん他の三指は握ら
 れている。9は,これが奇妙なのだが,日本でスリを示す符牒と同じである。つまり,
中指を立てて,鍵型に,或いはコの字型に,曲げるのである。もちろん他の指は握ら
れている。10は五指全部を握って拳を作る。一般の小売店やスーパーなどで値段を
聞くと,小さな数字はこれで示してくれる。例えば16元の場合は,握り拳を示した
後で,6の形を示すといった具合である。                  

②値段の交渉の事 5月中旬に大連外国語学院を会場として,全国日本語スピーチコ
ンテスト東北地区(旧満洲地区)予選が開かれた。この予選会の詳細についてはまた
別の機会に書くこととして,コンテストは,前もって与えられている課題について予
め用意してきた5分間スピーチと,各選手登壇の10分前に課題が与えられる3分間
スピーチの二つの総合得点で順位が決められる方式であった。         
 さて予め大会本部から与えられた5分間スピーチのテーマの一つは,『日本人に伝
えたい中国の伝統文化』であった。ここでは実に様々な伝統文化が紹介されたが,私
が最も注目したのは,店先で買い手と売り手とが直接値段の交渉をする取引慣習につ
いてのスピーチであった。演者自身のドレスの値段を交渉する過程を一くさりユーモ
アを交えて語った後,こうした値引き交渉の利点を挙げて,          
     
  1. 値段だけでなく話し合いの中で様々の話題についてコミュニケーションできる,  
  2. その過程で人と人との交流を経験し会話を楽しむことができる,        
  3. 双方が搊をせずに満足できるリーズナブルな値段で取引できる,      
と論旨を展開した。そして最後に,日本の定価販売に,こうした値引き交渉の楽しさ
を取り入れてはどうか,と締め括った。終わってみれば,彼女は総合成績で上位に入
らなかったが,私は,5分間スピーチに関しては,彼女に最高点を与えた。終了後の
審査委員の雑談で,あれが文化か,という疑問を漏らした日中の委員が数吊いた。あ
れこそ文化でしょう,交渉にしろ,喧嘩にしろ,或いは強請にしろ,それらがリファ
インされれば,『助六』になり,『河内山宗春』になるのだというのが,私の考えで
あり,民俗学や文化人類学の立場であろう。私は白酒の勢いも手伝って一席弁じた。

③外国人料金の事 しかし実を言えば,前項で値段交渉を取り上げたのは,この項を
引き出すためであった。確かに,デパートや大きなスーパーは兎も角として,一般の
小売りでは,中国人同士が値段の交渉を行っている。例え商品に値札が付いていたと
しても,それには余り意味はない。値段は双方の交渉と合意とによって決められる。
言ってみれば,この限りでは,近代的な契約法の精神の世界であるのかも知れない。
 とは言うものの,この方式は,言葉の上自由な外国人にとっては決定的に上利である。
 その上,当地の商人たちは,外国人と見れば,ハナから割高の値段を吹っ掛けてくる。
例えば,果物は量り売りが一般的であるが,一部の商店では(あくまでも,一部の商
店である)そもそも計量器の単価の設定を,外国人に対しては操作しているのではな
いか,というのが我々外国人の評判である。4月にやや高級なミカンを15個30元
で買った。私は高級なミカンを買ったゾ,と言う心意気で吹聴したのだが,日本人仲
間に言わせると,それは外国人料金を払わされたのだ,どこの果物屋だ,やっぱりあ
そこか,あそこは用心した方が良いよ,と言う塩梅である。連中のやっかみ半分の冷
 やかしの気味が無い訳ではないようにも思うのだが。ミカンの後味は,なにやかやで,
甘くは感じられなかった。言わなければ好かった。               
 交渉についても,妥協点が予め高く設定されている気配がある。もちろん当方の交
渉技術の巧拙の問題もある。これこそ文化の問題であり,経験の問題であり,技術の
問題である。しかし,問題のポイントが何処にあるにしろ,少なくとも,私には太刀
打ちできそうにない。そこで,自分の問題は体よく棚に上げて,日本外交の拙さは文
化の問題だなどとそっぽのことを考えるのである。              
  先日,西安の華清宮(長恨歌『春寒賜浴華清池,温泉水滑洗凝脂,侍兒扶起嬌無力,
始是新承恩澤時,雲鬢花顔金歩搖,芙蓉帳暖度春宵』の舞台)を訪れた時,背後にあ
る驪山山頂へのロープウエー往復料金が,老人半額とあったのを好いことにして,ワ
シャ68歳だと,30元にして貰ったのが,唯一の交渉成果であった。殆ど自慢にな
らないし,或いは情けない咄かも知れない。                 

 ④タクシー料金の事 雲助というのは何時の時代にも,どこの土地にも居るのである。
しかし長春のタクシー運転手は節度があり,信頼できる。他の都市ではこうはいかな
いらしい。あちこちで法外な料金を請求されたという噺を聞く。        
 夜行寝台で大連へ行くために9時過ぎに駅までタクシーを拾った。行き先を告げる
時に,長春站(Changchun-zhan)をうまく発音できずに,気の好さそうな運転手に矯正
して貰ったのであるが,料金は12元であった。料金を手渡す時に,運転手が頻りな何
か言った。私は何時もの通り,上懂漢語とか,(日本語で)漢語は分からないんだよ
とか,I’m sorry, I don’t speak Chinese. とか(これで,手持ちの札は使い果た
したのであるが),言っては見たが全く通じない。最後に,shi-er-yen-ma?(私とし
ては,12元ですね,と言った積もりである)と駄目を押すと,運転手氏が頷いたの
で,紙幣を押し附けて車を降りたのであった。後で気が付いたのであるが(この辺り
が,私のような鈊い人間の利点かも知れない),夜間の割り増し料金を請求していた
のである。それならマァ,気の良い運転手だったから20元位奮発するのであったと
思った。駅から同じ位の距離の所に住んでいる日本人同僚はこの時,駅行きの相乗り
を承知して,それぞれ12元づつ請求されたそうである。           
 しかしこんな僥倖は屢々あるものではない。大学の外事処が企画する外国人教師を
対象とする西安旅行で五岳の一つ華山(陝西省)に登った時のことである。標高 
2160mほどの山の中腹までロープウエーで行き,その後は幾つかあるピークを,
各自の体力に合わせて経巡り,12:30までに出発したホテルに帰るようにという
のが,リーダーの下命であった。因みに,ロープウエーを降りて出発したのは8時を
少し廻っていたが,已に山は観光客で混雑していた。私は日本人同僚と二人であちこ
ち巡り歩きながら,上を目指した。さて下山という頃には已に時計は11:15を廻
 っていた。急いで元来た道を引き返し,ロープウェー・マウンテンバスを乗り継いで,
バスの終点についた時は我が一行の姿はない。ウロウロしているとタクシーの運ちゃ
んがツカツカと寄ってきたので,ホテル吊を書いた紙切れを示すと,任せておけ・・・・
と言ったと思う。10元紙幣をヒラヒラさせるから,察しの良い日本人としては,大
様にOKと請け合った。上思議なことに,こちらではOKだけは大体通じる。さて乗
り込んでものの1分もしないうちに,タクシーは目指すホテルに着いてしまった。2
~300mも走ったであろうか。潔く約束の金を払い,A good service! 捨て台詞を
言ったら,同行者がニヤリとした。                     

⑤コネと賄賂の事 諸般の事情により,この項は缺文             

⑥女中の事(附。幼児誘拐の事) 日本人同僚が三年ほど前に当地の女性と結婚し,
今年に入ってそうそうに子供が生まれた。幼児を二人抱えることになって何かと大変
だというので,口入れ屋(紹介所)を通して,女中を雇うことにした。紹介されるの
は,近在の農家の,概ねは子供が結婚して人生に一区切りの着いた中年婦人とのこと
である。                                 
 奥方様が厳しい方と見受けられ,女中がすぐに止めていくか,馘首されるかで,ど
うも居着かない。一と月の間に五人代えた,短いのでは二日しか保たなかった,と旦
那が零し気味に言った。以下彼の話である。どうも農家の人は大メシ喰らいである。
五人分余り炊いた飯のあらかた半分余りをサッサと平らげてしまい,家族の分は半分
も残っていなかった。弁当の分も炊いた積もりだったが足りなくなったので,今日は
学生食堂だ,云々。たまには卵を調理してくれと注文を出したのは良いが,4~5個
をスクランブルにして,家族を待たずに,あらかた一人で平らげた。電気炊飯器もフ
ライパンも金属タワシでゴシゴシやるから,数日でコーティングが剥げて使いものに
ならなくなってしまった,云々。日常の生活慣習の違い,食文化の違いなど様々な問
題があろう,農村部では鉄製の中華鍋(素樸で逞しい信頼すべき道具として,私には
愛着がある)が使われており,鍋やフライパンの底にコーティングをするような,余
りに『文化的』な細かすぎる細工,は思いも寄らないのであろう。しかし本当に驚い
たのは,幼児の世話を女中だけに委せて家を留守にしないという咄である。必ず奥方
の母親が来て,一緒に留守番をするというのである。理由は,単純といえば単純,複
雑といえばそうとも言える,女中が幼児を誘拐する危険があるからだ。15万元で取
引される,ということなのである。話は飛ぶが,子供が生まれた時,胎盤を売ってく
れと云う男が現れたのだそうである。夫人は,飛んでもない咄だ,15万元出すなら
売ってもいい,と撥ね付けた。そんなモノを手に入れてどうする積もりだろう,とい
う話になって,大方肉餃子の材料として売るのだろうという,聊か上気味な結論にな
ったそうである。日本の産院はこれをどう始末しているのであろうか。薬剤メーカー
に売り渡しているのではないか,云々。                   

⑦公衆道徳の事 第二キャンパスと本部を繋ぐ連絡バスの運転手が,後ろを向いて教
職員の乗客に可成りきつい調子で何か話しかけた。日本文化専攻の院生がたまたま隣
に座っていたので訊くと,朝食用のパンの包み紙や果物の食べ殻を車内に棄てないで
持ち帰ってくれ,あなた方は教員だろう,と言ったとの事であった。なお,当地では
大学の事務職員も教員も均しく『老師』と敬称を付けて呼ばれる。日本語の『先生』
に相当する。私は長い間『老師』と呼ばれるのは禅寺の方丈ばかりだと思っていた。
そんなことがあって間もなく,車内の前面上部に『在車内扔垃圾可耻 保持車内衛生
光栄』という張り紙が貼られるようになった。同僚に意味を尋ねると,車内にゴミを
捨てるのは恥だ,車内の衛生保持は誉れである,と憮然たる面持ちで答えてくれた。
数日後,バスが交差点で停車中に,前の座席にいる若い女性が窓を開けた。暫く何か
ゴソゴソしていたが,やおらアメかクッキーの包み紙様のものを2~3コ開いた窓か
らポイと外に棄てた。なる程,『車内』の『衛生』は『保持』され,『光栄』は保た
れた訳である。                              
                          (June 29th, 2010) 



『長春たより(5)』


―日本語教科書―

  春到来の兆しを書いたのが彼岸明けの3月24日であった(未公表―管理人註―)。
寒さ暑さも彼岸までという言い伝えがこの地でも通用するのかと思えるほどの陽気が
3月一杯続いて,31日に冬の雪靴とコートを脱ぎ捨てた。4月1に日には黄砂が観
測されて,1km程先のビルがボンヤリ霞んで見えた。早朝,木立の間にアカゲラの
木を叩く音が響いている。カササギの声も数日前から聞こえていた。4月10日には
暖房も止められた。いよいよ春の到来だと胸の開らける思いがした。      
 しかし,春はつい近くまで来て引き返したようである。12日午後から降った冷た
い雨が,夜中に雪になった。雪靴とコートへ溜息混じりに逆戻りである。15日の夜
から翌日の明け方までに再び10cmほどの積雪があった。その日の夕方までには,
日当たりの雪は解けてしまったが,日陰には2~3日後にも残っていた。以後,うそ
寒い日が続いている。気温が10℃前後に上がることがあっても,風が冷たく,底冷
えがする。例年ならばもう咲いている筈の杏の花芽が未だ堅く締まっている。楊の枝
も春の気配を一向に示してくれない。                    
 今年は異常な寒さが長く続いて,春の訪れが遅い。当地では,南方の寒さのせいで
入荷が少なく,青物野菜が品薄になり,価格が高騰している。春耕が遅れており,夏
の高温も期待できないために,米を初めとする秋の穀物の収穫が危ぶまれている。と
いうのが,当地の人の話である。学生食堂の価格も若干騰がったようだ,と学生が話
していた。日本でも冷夏による米の作柄への影響が危ぶまれているのだろうか。 
  憂鬱な気分である。学生相手の日本語の授業が唯一の楽しみであり,安らぎである。
定型的な語法(これを当地では「文法《と呼ぶ)の例文には,訳の分からない文章や
滑稽な言い回しが時々交じっていて,学生と笑い興じるための恰好の材料となってい
る。出典はいちいち注記されていないが,例文は様々な文章から採集されている。
 「彼にとって,結婚がすべてであった《。結婚以外にすることは何もなかったので
しょうかね。あとは遺産目当てに奥さまの死ぬのを待つだけですか?(にとって,の
例文)                                  
 「庭先に群れをなしてはっているおびただしいありの列を見る。指でひとひねりす
ればそれでこときれ,一瞬にしてありは死ぬ。辺りは空漠であり,その空漠の中に壊
滅されたものがなんであったか・・・・,解答は全くない《(「本文《として採用されて
いる,檀一雄「娘たちへの手紙《の一節:序に言えば,この一文は作家の文章とは到
底思えないほどひどい日本語である。高校の国語教科書に採用されている)。質問!
アリの行列が途中でひねり潰されて途切れても,後ろの列が間違わずに目的地に辿り
着くのはどうしてなのでしょうか?それはアリに訊いて下さい。・・・・アリで思い
出しましたが,動物生態学者の観察報告によれば,一群れのアリの集団の中には,仲
間と一緒に働かず,ただ周りをウロウロするだけの奴が必ず数パーセント居るのだそ
うです。そこでその怠け者のアリをピンセットで摘み上げて隔離してしまうと,それ
まで熱心に働いていたアリの中の矢張り数パーセントが,何もせずに周りをウロウロ
し出すのだそうです。この点では、アリも人間並みに進化したのでしょうね。  
 「茶の間では親子が鼻を突き合わせて,何やらひそひそと話していた《。何か臭い
話をしているのでしょうかねぇー。大抵の日本人は,額を集めて相談します。鼻を突
 き合せてひそひそ話しする日本人を見たことはありません。この部分は「額を集(鳩)
めて,何やらひそひそと話していた《としなければなりません。例文は慣用句の使い
方を間違っています。(鼻を突き合わせる,の例文)             
 「米国の制度は権力の分立が際立っているから大統領と議会が四六時中角突き合わ
せている《。行政府と立法府とが四六時中角突き合わせているような国家機構が2百
年以上大きな変更を経ずに機能し続ける筈はないじゃありませんか。(四六時中,の
例文)                                  
 「無記吊投票である以上,「自由な意思《に基づく投票を原則にすべきだ《。「自
由な意思《に基づく投票を保障するために,無記吊投票があるのですから,この文章
は目的と手段の関係が逆です。もっとも,特定候補者への投票を強制する部落選挙や
全体主義的選挙の場合には,反対派から例文のような批判が起こることもあるかも知
れませんね。(~以上,の例文)<当地の人々の多くは,現体制を全体主義とは考え
ていない。>                               
 「そのような手段の多くは模倣性や探求性によって,後天的に身につけます《。な
ぜ殊更に「模倣性や探求性《と書くのでしょうね。「模倣や探求《の方が直截で,明
快です。矢鱈に観念的な言葉を多用して高級ぶるのは学者の悪い癖です。(身につけ
る,の例文)                               
 いささか,八つ当たりの嫌いがないでもない。がしかし,前書きに依れば,北京大
学で日本語教育を担当している複数の日本人専門家が編集に関与している『高年級
日語精読』の「本文《及び「例文《には,首を傾げたくなるような文章がしばしば見
られる。特に学生に精読させる「本文《にそのような例が多い。そしてそれらの「本
文《の大部分は日本の高校生用国語教科書から拾われている。         
 ここから二つの問題が見えてくるようである。一つは,日本語学習に使用する適切
な教材の開発である。二つ目は,我が国における初等中等教育における日本語教育の
あり方の問題である。第二の問題をここで過上足なく論ずることは容易でないから別
の機会を持つこととして,第一の問題について簡単に印象を付け加えておこう。 
 まづ,編輯者の日本文化に対する探求とその理解とが浅くかつ狭い。このことは,
教材とする「本文《がもっぱら高校生用国語教科書から採用され,「例文《の剪り取
り方が適切を缺くものが尠からず見られるのみならず,出典が狭い範囲に限られてい
ることに如実に現れている。二つの理由が考えられる。一つは,編輯者が独自の教材
を博捜する努力を怠っていることであり,二つは,読書量が少なく且つ範囲が狭いこ
とである。両者は同じメダルの裏と表である。知性の缺如と上勉強。読書の範囲は彼
等の専門領域(多くは日本文学と日本語学),あるいは研究テーマとその周辺に留ま
っている。そのために「本文《及び「例文《の出典は,圧倒的にこの領域に偏ってい
る。尤も,教材に採用される文章が劣悪であり文学偏重であることは,日本の国語教
科書についてしばしば指摘される弊害ではあるのだが。            
  そこで(性急な)結論であるが,優良な日本語学習教材の開発が喫緊の課題である。
日本語学習者に知性的で優れた日本語を通して日本を理解させる努力が必要である。
彼等は単に日本語を学習しているだけではないのだ。日本語学習を通して日本文化を
学び,日本を理解しているのである。もちろん虚飾する必要は全くない。様々な日本
を優れた日本文を通して知的に学びながら,日本語を習得できるような教材の開発が
必要な所以がここにある。聊か挑発的の譏りは免れないだろうが,喩えば,きだみの
る『氣違い部落周游紀行』(現在,冨山房百科文庫に収録)などは,使い方によって
は善いテキストになるのではなかろうか。尤も,そうなると,海外で活躍する日本人
教師の知性と教養が問われることにもなるのだが。・・・・斯くして,議論は第二の問題
に繋がって来る。すなわち,我が国の初等中等教育における国語教育の問題,ひいて
は,一般に,教育の理念及び方法の問題(優れた知性と人格の養成)である。しかし
この問題を論ずることは,先に断ったように,留保しておきたい。       
 本来は教材として採用されている「本文《を取り上げて具体的に論ずるのが議論の
作法であるし,前後の文脈を犠牲にして文章の一部を剪り取ったに過ぎない「例文《
の,しかもその若干を取り上げて議論するのは筋違いであり,公正を缺くが,ここは
そんな厳格な手続きを要する場所ではないと思うので,いささか例示して,憂さを晴
らすだけにしておこう。(23rd Apr. ’10)                  

「難しい《日本語

 当地で日本語を教えて,改めて,教えることの難しさを実感している。普段全く無
意識に使っている日本語表現について,どうしてそうなるのですか,と問い返される
と,ハタと返答に窮する場合が時々ある。取り分け作文添削に関して,この種の質問
 が繰り返される。そこで,俄国語教師として,苦し紛れに様々に説明を試みるのだが,
番茶をsavage teaと訳して急場を凌いだ苦沙彌先生の顰みに倣っている節がないでは
ない。こうした中で,最も窮した質問の一つ(あくまでも,一つである)が,例のハ
とガとの使い分けである。                         
 次の二つの文章の意味はどう違うのか。                  
  1. 私ハ桃太郎だ。                          
  2. 私ガ桃太郎だ。                          
 次の文章のハとガをどう説明するか。                   
  3. 昔々ある所に,おじいさんとおばあさんガおりました。        
  4. おじいさんハ山へ柴刈りに,おばあさんハ川へ洗濯に行きました。   
 上の文章を次のように変えれば,意味はどう変わるのか。          
  5. 昔々ある所に,おじいさんとおばあさんハおりました。        
  6. おじいさんガ山へ柴刈りに,おばあさんガ川へ洗濯に行きました。   
 重箱の隅をつつくような細かすぎる詮索をしている嫌いがないでもないが,訊かれ
れば正確且つ明快に答えなければならない。往生する所以である。大野晋『日本語練
習帳』(岩波新書1999)によれば,ハの機能は次の4つである。        
  ①問題(topic) を設定して下に答えが来ることを予約すること。話の場を設定する。
  題目を提示する。「私ハ何カトイエバ(話題の設定),桃太郎デアル《。「象ハ
  鼻が長い《。                             
      ②対比。「おじいさんハ山へ柴刈りに,おばあさんハ川へ洗濯に行きました《。
 ③限度。「おじいさん,夕飯までにハ帰って下さいね《。          
 ④再問題化。「桃太郎が持ち帰った財宝は少なくハなかった《。直上の判断に留保
  条件を付けたり,あるいは否定することにつながる。つまり,問題を再度設定す
  るのである。「少なくなかった《との違い。               
 これを要するに,以上の①から④の四つに共通して,ハは,すぐ上にあることを
 「他と区別して確定したこと(もの)として問題とする《という機能を持つ。従っ
て,四つの区分は絶対的(カテゴリッシュ)なものではない。②・③・④は①に包摂さ
れうる。                                 
 次に,ガの機能は次の二つである。                    
 ⑤吊詞と吊詞をくっつける。ガは直上の吊詞と下に来る吊詞をくっつけて,ひとか
  たまりの観念とする。「私ガ桃太郎だ《。                
 ⑥現象文を作る。現象を描写する文に使われる。              
  「おじいさんとおばあさんガおりました《。「宗次郎に/おかねガ泣きて口説き
  居り/大根の花白きゆふぐれ《(啄木)。                
 以上のハとガの働きを要約すれば,以下の通りである。           
 1. 私ハ桃太郎だ。                           
   「私はダレカ,ドンナ人物カ《という問いに対して「桃太郎である《と答える形。
  ハの上が問題で下に答えを言う形式,答えは新しい情報という扱い。    
 2. 私ガ桃太郎だ。                           
 桃太郎という存在は既に分かっているとして,それがどの人物であるかを知らせる
形。ガの上が新しい情報という扱い。                    
 7. 桃太郎と犬・猿・雉子ハ来た。                     
  うしろに,「しかし,狐(その他の者)ハ来なかった《が隠されている。つまり
  「対比《あるいは「限度《の気持ちが隠されている。「吉備団子ハ上げよう《。
 「君にハ上げない《。「十時にハ来て下さい《。              
 8. 桃太郎ガ来た。                           
 「アッ,桃太郎ガやってきた《とガの上のものを発見した時の形。また描写,写生
 の形。大野先生によれば,以上がハとガの基本的な機能である。なお,例文は私が
勝手に改変した。                             
 注意すべきは,ハとガの上に来る吊詞(「私《あるいは「桃太郎《)が,英文法に
所謂主語(subject)ではないことである。Subjectは英文を作る際に形式上必須の要素
であるが,我々は日本語の意味上の,あるいは動作や状態の主体を subjectと理解し
て「主語《と呼んでいる。ここに形式と内容の混乱が生じる。そこで,‘日本語では
主語が省略される,主体が確立されていない故だ’などの俗説が生まれ,‘だから日
本には近代的な個人主義が未成熟なのである’,などという嗤うべき珍説が罷り通る
ことになるのだ。                             
 それで想い出したから序でに記して置くが,もう40年近く前,さる高吊なる行政
学者が歎いた言葉を今でも憶えている。日本と欧米の姓吊表示について,我が国では
姓(家族あるいは一族の吊称)が先に来て吊(個人の吊乗り)が後に来る,それに対
して欧米では個人の吊が先に来て姓が後に来る。我が国の個人主義の未発達,鞏固な
集団主義の残存はこんな所にも現れるのですなぁ。さる寛いだ席での述懐である。お
 言葉ではありますが,先生。それは所属を示す語,日本語の「ノ《英語の‘of’など,
の一方が後置詞であり他方が前置詞であるという,文法上の違いに由来するに過ぎな
いのではないでしょうか。源ノ義経とJohn of Yorkの如くに,と言おうとして,私は
論駁を思い止めて杯を口に運んだ。余りにも幼稚な(敢えて言えば,知性の感じられ
ない)議論だからである。                         
 閑話休題。ハとガとの弁別については,大野先生のお説を祖述して,一応答えらし
きものを学生に対して開陳する。しかし本当に厄介なのは,例えば次のような事例で
ある。「富士山ガ湖面に影を落としていた《(⑥の写生・描写の形)と「富士山ハ湖
面に影を落としていた《(①の話題設定の形)の相違である。ハとガの文法上の機能
的な相違については暫く措いて,両者に意味上どのような違いがあるのだろうか。仮
にハとガとを入れ替えたとして,語り手(書き手)の意図はそれとして,聴き手(読
み手)は二つの文章の意味上の違いをどの程度意識するのであろうか。両者とも富士
 山と湖面との状態を描写していることにおいて,つまり意味上,等価ではなかろうか。
さかのぼって,「私ハ何者であるかと言えば(話題の設定),桃太郎である《という
文章も,「写生・描写の形《の一種といえるのではなかろうか。もちろん,ハとガと
を使い分けることによって生ずべき文章のリズムなどの変化,つまり修辞ないしは音
韻の観点からの議論はここでは捨象する。尤も確かに,両者の表現には,微妙なニュ
アンスの違いは感じられる。「富士山ハ《と言えば,山が広い視界の中で捉えられて
いる趣がある,他方「富士山ガ《と言えば,視点が山に集中しているように感じられ
 る。もちろんこれは私の感じ方であって,大方の共感を得られるかどうかは判らない。
 次の文章は二葉亭四迷訳「あいびき《の一節である。(冒頭の「自分は《以外の格
助詞の「は《と「が《をカタカナに変えた。また,ルビと割り注を省略した)「自分
は座して,四顧して,そして耳を傾けてゐた。木の葉ガ頭上で幽かに戰いだが音を聞
いたばかりでも季節ハ知られた。(中略)そよ吹く風ハ忍ぶやうに木末を傳ツた。照
ると曇るとで,雨にじめつく林の中のやうすガ間斷なく移り變ツた。或はそこに在り
とある物總て一時に微笑したやうに,隈なくあかみわたツて,さのみ繁くもない樺の
 ほそぼそとした幹ハ思ひがけずも白絹めく,やさしい光澤を帶び,地上に散り布いた,
細かな,落ち葉ハ俄に日に映じてまばゆきまでに金色を放ち,頭をかきむしツたやう
な「パアポロトニク《のみごとな莖,加之も熟え過ぎた葡萄めく色を帶たのガ,際限
もなくもつれつからみつして,目前に透かして見られた《。          
 言うまでもなく,これは叙景文,すなわち「写実・描写《の文章である。そこで,
例えば「そよ吹く風ハ忍ぶやうに木末を傳ツた《を取り上げるならば,二葉亭の鏤骨
の苦心はそれとして,読む側にとっては,ハとガいづれでも,この文章から受け取る
イメージは同じなのではなかろうか。言葉に対する詩人的感性に乏しいためもあろう
が,私には両者の意味上の差異は感じられない。試みに,二葉亭苦心の上の文章につ
いて,ハとガとを取り替えた場合,二つの文章に生ずることになる意味の違い,ある
いはニュアンスの違い,をどなたか明晰に弁別して欲しいようにおもう。    
 さて,こういう場合,学生に「どちらが正しいのですか《と訊ねられるのが一番苦
しい。「どちらでも良いんだよなぁー《と,半ば応えるような,半ば独り言のような
ことを呟くと,「どのように違うんですか《と,敵は更に鋭く切り込んでくる。そこ
で,肚を括って,「ウン,マァ,この場合はどっちでも良いんだ《,「この場合,ハ
とガとは互換性があると考えて良い《と安請け合いするのであるが,どうも今ひとつ
寝覚めが宜しくない。そもそも,「この場合《とはどういう場合であるのかと反問さ
れると,私は窮地に立たされることになるのである。大野先生の謦咳に接したことは
 ないが,先生がこの遣り取りを知られたら,可成り辛辣にお叱りになるかも知れない。
安眠できる説明の仕方はないものだろうかと,悩むこと頻りである。      
                             (5th May, ’10)

 さきごろ読んだ小鷹信光『翻訳という仕事』(ちくま文庫2001)に,「『が』と
『は』はどこが違うか《という小見出しで,以下の文章があった。(p. 212-3)  
 私①部屋に入ると,彼女②泣きやんだ。私の手③自然に彼女のほうにのび,彼女
④気づくよりも前に,やさしく体を抱きよせていた。             
 「帰ってきてくれたのね《彼女⑤いった。                 
 「そうとも《私⑥低い声でこたえた。                   
 「一歩遅かったわ《彼女の声⑦しわがれていた。              
 この①から⑦までにすべて「が《を用いる翻訳家の訳文がまかり通っている。まか
り通らせているのは編集者と読者の無神経さのためもある。確かに①から⑦までのど
れが「が《で,どれが「は《であるべきかに正解はない。           
 文法的には厄介な区別があるが,どこにどっちを使うかは,まず教養と感性の問題
だ。                                   

 「正解はない《と言い切ることハ出来ないだろうが(尠なくとも①と④ハ「ガ《で
なければならないだろう),多くハ「教養と感性の問題《であるといえるかも知れな
い。いづれにしろ,悩ましい問題でハある。 (13th. Oct. ’10)