岩手県立盛岡第一高等学校1960年卒在京同期会
在京白堊三五会・エッセイ by 内藤俊彦




『イングランド見聞記』


(1) かなり古い噺になるが,1987年の初夏に,ロンドンから中部イングランドのシェフィ

ルドまで電車を利用したことがあった。その日は日曜日であり,しばしば経験したところ

によれば,英国の鉄道は,取り分け週末には,大幅に遅れるものと覚悟しなければならな

いもののようであった。そしてこの経験則に寸分も違わずに,我々の乗ったインターシテ

ィーは,シェフィルドの一つ手前のノッチンガム駅に止まったまま,一向に発車する気配

を見せない。その間,英国の鉄道の常として,遅延の理由も出発の予定についても,説明

の車内放送は何ひとつない。(もちろん,「お急ぎのところ,ご迷惑をお掛けしてまこと

に申し訳ございません,云々」といった,日本の鉄道会社の煩いばかりで不快な放送の繰

り返しがなかったのは救いであったが)。気の利いた連中は早々に列車を諦めて長距離バ

スに乗り換えたようであった。残った連中もいささかウンザリした気配で窓の外などを眺

めたりしている。列車は2時間以上遅れて漸く動き出した。終始なんの説明も弁明もなか

ったのは,お見事と言うより外ない。                      

 停車が長びく気配を見せだしたとき,少し離れた座席にいた20歳代前半くらいの男が,

前のテーブルをドンドン叩いて,大きな声でなにか喚きだした。はしばしに damn・・・・ な

どといういささかこうした公共の場には相応しくない言葉が聞き取れる。ややあって,通

路を隔てた座席にいた同じ年配の男性が,まことに冷静で丁寧な言葉遣いでその怒鳴って

いる男に声を掛けた。「Sir.どうかそのような不穏当な言葉遣いをしないで戴きたい。こ

こにはご婦人たちも居り,小さな子供たちもいるのです。云々」(とまあ,そんな意味だ

 ったのではないかと,聴き取りが不得手な私は,当てずっぽうに推測しますが)。すると,

その怒鳴っていた若い男は,口の中で,I 'm so sorry.とか何とかムニャムニャして静か

になった。声を掛けた方の男は Thank you. と言ったきり,後は何事もなかったように,

それまで読んでいた本に目を戻した。この男性の行為はもちろん見事であったが,一言も

なく理に服した男の態度も見事であったと思う。                 





(2) とは言え,後者についてはもちろん留保付きである。日本では,こんな場合に,駅員

や車掌に喰って掛かり怒鳴り散らす輩はいないではないだろうが,独りでテーブルを叩い

て喚いたり,あまつさえ「糞ったれ」などと大声で叫び出す男なぞはまづ見掛けることは

ないように思うのだ。しかしもし仮にそういう男がいて,その不作法をたしなめられたな

らば,却って憤懣の捌け口を見付け出したとばかりに,注意した相手に向かって,「手前

ェ何様の積もりだ,云々」などの罵詈雑言を浴びせ掛ける蓋然性がかなり高いようにも思

う。公共の場で騒ぎ廻る子供たちをたしなめることなく,見かねて注意した他人をジロリ

と睨み返す母親が少なくない社会であるから。そういう次第で,温和しく忠告に従った彼

の男の態度は見事であるというのである。                    

 話を戻して,同じような事態に処する周囲の対応の仕方としては,眉をしかめて不快に

堪え,目的地に着いて同じ列車に乗り合わせた不運から解放される時をひたすら待つか,

感情的に怒鳴りつけて,周囲を一層不快にする不毛の口論に発展するか,車掌や警察とい

った上なる権威に訴えて事態を処理するか,おおむねこの三つが,多分どこの社会でも見

られる光景だと思う。いずれも,専制的権威に忍従し,それを呼び込み,それに依頼する

精神的態度であると言えるだろう。                       

 上述した車中の事例は,その精神の在り方において,これらとは全く異なっている。私

はここに,イングランドにおける,市民社会の秩序を自律的に作りあげている,健全な公

共精神の発現を見たように思う。そしてこの精神が当事者双方に分け持たれていることが

見事なのである。市民社会の秩序は,ひとり一人が,身を挺して護り維持していくのだ,

という精神である。といったような,今は殆ど流行らなくなって廃れてしまった近代市民

社会論的観点から,私はこの出来事を興味深く眺めたのだし,その光景を今でもかなり鮮

明に想い出すことができる。                          





(3) もちろん,この一事のみを取り上げて直ちにイングランド社会には高い公徳心(公共

的精神)が広く着実に維持されていると即断するつもりはない。数人の若者の集団が,駅

員の制止を無視して,自動改札口を飛び越して走り去るのも見たし,飲み干したコーヒー

缶やペットボトルをところ構わず投げ捨てて顧みない若者たちも見た。ロンドン中心部の

市街にはこのようなゴミが散乱しているところも少なくない。数年後,雑談の折りに,イ

ングランド人の英語教師に先の車中の見聞を話して,イングランド紳士の典型の一つを実

見したように思うと,我にも非ず少しお世辞めいた感想を紹介したところ,クダンの青年

すかさず,その典型とは車中で怒鳴っていた青年のことか,と訊き返した。この切り返し

は,イギリス人に比較的よく見られる内気(shyness) ゆえのアイロニカルな,知的にひね

った反応だと思う。私は,なるほど,それもまたイングランド紳士のもう一つの典型かも

知れない,と応えておいた。                          

 イングランド人と結婚している日本婦人が,お姑との会話で「近頃イングランドは治安

が悪くなり,街が汚くなりましたね」と水を向けたところ,この老婦人,「ええ,外国人

が多くなりましたからね」と,ニコリともせずに答えたと,これはご本人から伺った話で

ある。こうした反応はイングランド人の矜恃の表れでもあるだろう。たしかに田舎町はお

おむね清潔で綺麗であったように思う。とは言え,シャロック・ホームズ時代のロンドン

がそんなに綺麗であったとも思われない。                    

 などと様々に思いを回らしながらも,やはり,冒頭で紹介した若者の些かの衒いもない

 毅然とした態度には,眼を見張らせるものがある,粛然と襟を正させるものがあると思う。

そしてさらに思うに,こうした凛とした鮮烈な心構えは,敢えて近代市民社会論などを持

ち出さずとも,われわれが遥か昔に持っていたものではなかったのかとも思うのである。