岩手県立盛岡第一高等学校1960年卒在京同期会
在京白堊三五会・大内靖さんのページ

『一企業人の見た現状中国の断片』
SPECジャーナル『SPECTRUM』(VOL.20 NO.3 2002)掲載




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SPECジャーナル『SPECTRUM』(VOL.20 NO.3 2002)の表紙が現れます。
これは「中国は本当に脅威か」という特集号です。

画面左に「大内靖」の検索結果がいくつか示されているはずですが、
それをクリックすると

特別寄稿『一企業人から見た現状中国の断片』
(福建富士通軟件有限公司・総経理 大内 靖)
が現れます。

もし、うまく表示されないときはPDFファイルの6ページまで動かしてください。





















岩手県立盛岡第一高等学校1960年卒在京同期会
在京白堊三五会・紀行文(大内靖)

  『中国人と魯迅と仙台と』
  仙台出身の筆者が書いた紀行文と、それを記した経緯を「投稿」してくれました。

富士通関連・日中合弁会社
1)第1回駐在: 1993年4月~1996年4月役職:技術部長
2)第2回駐在: 1999年8月~2002年10月
        役職:総経理(社長)(副董事長(副会長)兼任)



  1. 『中国の人の魯迅への想いについて』
  2. 【中国紀行:その1(杭州①)】『杭州へ。特快・硬座18時間!! 火車の旅』
  3. 【中国紀行:その2(杭州②)】『杭州に魯迅の史跡を訪ねて』

    『中国の人の魯迅への想いについて』 2007.4.18

 皆さんは中国の作家・革命家の「魯迅」をご存知のことと思います。
 私も魯迅については、仙台の医学専門学校(東北大学医学部の前身)に留学し、その後
革命の道に進み、また作家・文筆家として活躍したというような一般的な知識を持ってい
るに過ぎませんでした。 その後私は中国に駐在することになり、その中で中国の人たち
が魯迅に対しどのような想いを抱いているのかを知る機会があり、それを10数年前に一文
に纏めてみました。
 最近の日本・中国の嫌中・嫌日が渦巻く中で、投稿するのに些か躊躇いがありましたが、
先日中国の温家宝首相が来日し交流再開の兆しが見えましたので敢えて投稿してみること
にしました。 ご参考までにご笑覧下さい。
 尚 投稿した一文は、海外に駐在する者の一つの務めとして現地から本社へ情報発信す
るのも大切なことと思って纏めたものであり、また 中国出張に際してのアドバイスを意
図した「教訓」等もありますが、煩わしい部分は読み飛ばして下さい。

 一文は私の中国駐在当初(1993年4月下旬)直後の中国国内出張で体験した感想を出張
から帰って一気に書き上げたものです。中国駐在に当たって、折角の機会にやって置きた
いと思った目標を幾つか立てましたが、その時の出張で得た経験から魯迅のことについて
調べることを目標の一つとしました。

 魯迅については次のような後日談があります。

  1. 魯迅博物館巡り:
     中国には魯迅が活躍した各地に5つの博物館があります。
     それらは淅江省紹興市(魯迅の生地)、北京、上海、広州、福建省厦門市(アモ
    イ)ですが、駐在中に一応全部の博物館を訪れました。(一応と書いたのは、広州
    の博物館に行きましたが改装休館中で中を見られませんでした。 建物だけは見た
    ので癪に障るから一応全部の博物館を見たことにしています。)
     各地の博物館は中学、高校等の課外授業等にも利用されており、沢山の見学者が
    訪れています。

  2. 江澤民主席の揮毫:
     厦門市の博物館は厦門大学の構内にあり、校舎の教室幾つかを展示室および収蔵
    品室に当てており、通常は管理する教授が鍵を掛けていて、見学の要請があると一
    般の人にも開放するものでした。
     私は1995年12月に訪問しましたが、昼前に教授に連絡を取ったときは昼食に行っ
    ているようで会えず、午後に再度トライして運良く連絡が取れ参観することが出来
    ました。
     その教授は親切な人で、我々だけ(私と通訳)のために丁寧に案内・説明をして
    くれ、また折角だからこんなものもあるよと収蔵室まで見せて呉れました。
     こじんまりした博物館なので(魯迅が厦門大学に在職したのは僅か5ヶ月の短か
    い期間)、小1時間程で見終わり お礼を述べて辞去しようとした所、参観記念に
    署名・感想を記帳してヨと教授が大学ノートと筆(毛筆)を持って来ました。日本
    では結婚式とか冠婚葬祭以外では記帳することも少なくなりましたが、中国では種
    々の式典・会合等で幅広く記帳する機会があります。それも殆ど毛筆での記帳です。
     名も無い一外国人に過ぎませんが、郷に入れば郷に従えで何を書こうかと思案し
    ながらページを捲っていると、教授がどれどれ私が適当な場所を探してあげようと
    ノートを取り上げ、パラパラとページを捲り「ここが空いている。この左ページに
    書きなさい。」と渡して呉れました。 「ハイ」と右ページを眺めると、何と!墨
    痕鮮やかにナンチャラノ感想と共に『江澤民』と揮毫してあるではないですか!
    「エー!これはあの江澤民主席ですか?」と交互に見ながら教授と通訳子に聞いた
    所、通訳子は悪戯っぽく「そう。そこに書くのも良いんじゃない。」とノタマウ。
     冗談じゃない! 無名の日本人の私が それも下手な字で書いたのでは後々まで
    物笑いの種になりかねないので慌てて別の空いているページを探して記帳しました。
    ただでさえ下手な字なのに手が強張り益々下手な字になってしまいました。
     何とも冷や汗ものの体験でした。

     さて、その後江澤民主席が1998年11月25日~に日本訪問し、仙台に立ち寄ったこ
    とを記憶されている方もいると思います。
     その際は歴史認識問題等を再三発言し物議を醸していたので、仙台訪問は余り報
    道されなかったように記憶しています。仙台は、政治的な発信地でもなく、また京
    都のような是非行かなければならない程の著名な観光地でもない所なのに、何故仙
    台なのかと疑問に思われる方もいるでしょう。私は自分の体験から魯迅の行跡を仙
    台に訪ねたのダナーと密かに独り納得しています。

                                     (終わり)


著者のコメント

≪ この紀行文を書いてから既に14年が経っています。従って、
 経済成長を続ける中国では 当時の情景と現在では多少異なって
 しまっている面があります。(我々の子供の頃の不如意な生活
 環境と高度成長を遂げた後の環境が違っているように。)
  10数年前の中国の一情景として、ここに書かれている断面が
 あったと 軽い読み物として読んで戴ければ幸いです。≫
                ―2007.05.27―


【中国紀行:
その1(杭州①)】1993.5.16~6.25

    『杭州へ。特快・硬座18時間!! 火車の旅』

  1. プロローグ

      我がFETEX-150(ディジタル電子交換システム)の輸出の好調さの一つを示す
    浙江省杭州市電信局の20万回線開通記念式典の招待状が届いたのは、日本では5
    月連休(中国は平日勤務)明けの6日だった。 良く見ると式典は5月10日とな
    っており、福州を出発するまでの準備にあと3日しかない。

     管理部が飛行機のフライトは取れると自信ありげに言うので手配はお任せし、自分
    は急な出張で仕事に穴をあけないように懸案事項の処理に没頭することにした。
    8日の土曜は日本側が休日と思い込んで出張準備に当てていたが、何と来信FAX
    が乱舞し 夕方にやっと処理が一段落した。 サテト明日の出発予定を管理部に確か
    めたら、フライトを取るのが難しく もしかしたら火車(汽車)になるかもしれない
    とのたまう。 ム? まてよ、出張にはパスポートも必要だが? 「ハァ―、到着し
    た航空便の駐在荷物の取り出しに税関に持って行っていますが。」 イヤハヤ、明日
    の日曜日に出発できるかしらンと思いつつ、同行する通訳の張静さんが「夜にはハッ
    キリした事を連絡します。」とのことで、火車の旅になっても中国の風景が見えてマ・
    イイカと半ば気楽に構えてホテルに帰った。

  2. いざ出発

      しかし! 夜にも、翌日の出発当日の午前になっても予定がはっきりしない。
      さすがの私もジリジリして連絡を待っていると、やっと11時頃に張さんから電話
    が来た。

     「結局、フライトは取れませんでした。」 マ、仕方ないか。 次の言葉は、「何と
    か火車の切符は手に入るが、硬座しか取れないけど 出張どうします?」 エッ、今
    まで中国に出張した人がよく言っている、一度は経験すべきだけど 二度目は遠慮し
    たいアノ硬座かと 一瞬考え込んだけど、今更硬座だから出張を取り止めるとも言え
    ないし、そこは着任して3週間の新任部長の哀しさ、他に選択肢も考え付く訳でもな
    し、努めて明るく「仕方ないでしょ。行きましょう。」「ハイッ。それでは火車の発
    車時間も迫っているので25分後には迎えに行きますから、すぐ乗って下さい。それか
    ら夜行列車ですからラフな格好で来て下さい。ソレデハ。」 ガチャン。

     ハァー。 ジリジリ待つことの長いこと! 出発までの何と短いこと! 気持ちの
    整理が付かないままに迎えの車で駅に行く。
     管理部の陳雪梅さん達と落ち合い火車の切符を受け取るが、またまた難題。
      「硬座しか取れなかったので日本人と思われないようにしてネ。」と軽くおっしゃる。
     エツ! 中国語を未だ満足に話せない私はこれから18時間余どうすればイイノダ?
    と思いつつ、マ 通訳の張さんと一緒だから何とかなるか とばかり火車に乗り込ん
    だのでした。
     でも 多少ホッとしたのは、硬座は硬座でも木の椅子席ではなく、硬臥(寝台車)
    なので横にもなれるし、マズマズと思いつつ先ずは席に座りました。
    [硬臥(硬座の寝台車)は日本の昔の三等寝台車を想像して貰えれば判り易く、三段
    ベッドが向い合い/通路側は開放してあり、昼間は相席の6人が下段のベッドに座る
    形式のものです。]
     サテ、でも発車直後に来る乗務員の検札が第一の関門ですし、また陳さんの言葉も
    あるし、これをクリアしなければと待ち構えた。 心なしか張さんも少し緊張をして
    いる様子だし、こちらも身構えていました。 しかし、検札は何事もなく通過し先ず
    はホッとして席に落ち着いたのでした。

     そして、火車は福州駅を12時15分に発車、もう後戻りは出来ない。
     しかし、ホッとしたのも束の間。 一見紳士風のご仁が、「モシモシ、ここは私の
    席なんですけど?」 エッ! そんなはずでは・・・、張さんと私の切符を良く見る
    と、何と 二枚は一車両違う同じ1番の中段と下段! 満席の火車で発車ギリギリの
    時間に買った切符に続き番号の切符が買える筈も無し。
     張さんは、一見紳士に別の車両の人と席を交換して貰いましょうと交渉し、一車両
    別の席に様子を見に行った。 だけれども別の車両の人とは話が付かず、また席に戻
    って来てしまった。イヨイヨ一人で座り、為るように為れと腹を括るしかない。しかし、
    この間に件の紳士以外の相席4人の風体をそれとなく観察した私の感じでは、何やら
    ガサツな商売人風の胡散臭げな人体の人たちばかりの様子ですし、先程張さんも余り
    雰囲気が良くないと洩らしていたし、私は18時間余 唖を通すにも無理があるし、
    ドナイスレバイインジャという心境でした。

     発車して14~5分経って座席のガヤガヤが一段落した頃、張さんがアチラの車両
    の相席の人の方が良さそうだと云うので、荷物を持って席を移る事にした。

    [張さんから後で教えて貰った所、先程の検札の時の緊張は、私の切符が外国人料金
    では無く中国人料金だった事、また張さん自身も切符購入時に手違いで自分の身分証
    明書が手元に戻っていなかったためでした。 それは何かトラブルが起こったとき説
    明のしようがなく、中国では身の証が立たないことは実に大変なことなのです。また、
    当時の切符は外国人用と中国人用は別建てになっていました。]

    ≪教訓その1: 中国では交通手段の確保または確認はなるべく自分で行うべし。
           または、3回以上クドクドと念を入れるべし。≫


        席を移ってみたら、コチラは若い軍人さんと3人の知識人風の人と商売人風の人
    の計5人で、既に多くの人が物静かに本を読んでおり、我々が入って来た時にチラリ
    と物珍しげに眺めただけでした。取り敢えずは余り詮索する様子ではなく、さっきの
    席よりも落着く雰囲気に少しは安堵しました。
     ヤッと車窓の風景を眺めるゆとりが出て、しばらくして私も今までの緊張からトイ
    レに立った。

    [これがまた代物で、いったん鍵を掛けると中からなかなか開かないし、水洗には違
    いないが 床は水でビショビショ。 隅の足場の真ん中に穴が開いているだけの垂れ
    流しという、日本では想像が付かないものでした・・・。]

     席に戻ってくると、相席の皆さんから、「日本人でしょう。」、「仕事はどんな関
    係のものですか?」等々と幾つもの質問が出た。 待てよ? 外国人と思われてはい
    けないのでは との注意が頭を過ったが、好意的な表情だし、何よりも今の私には皆
    さんを言いくるめる表現も無理なので、観念してスラスラ答えてしまった。 そうし
    たら、一番気になっていた軍人さんが「自分は福州の部隊で通信関係の設備を担当し
    ており、日本からの機器も入っており、また自分の関連部門にはアンタの会社の設備
    も設置してある。 また、自分の上司は日本に興味を持っていて、今 日本語を習っ
    ている。」と話し出した。 こちらも関連部門の設備は我々が納めて現地調整も担当
    したんですと 話し易くなり、またお互いの接点・立場が掴め、周りの人も含めて相
    席の人同士気持ちを楽にすることが出来るようになった。
     この後は張さんに通訳して貰いながら言葉を交わし、また車窓の風景を楽しむこと
    ができた。

    [後で聞いたところでは、常識ある彼等は本人がトイレへ立って 席に居ない時に、
    張さんに二、三質問して 私が日本人であることを確かめた上で、好奇心から好意的
    に私に色々聞いたようである。]

     しかし、まだまだ続くハプニング! 何処まで続く泥濘ゾ。

  3. 車窓にて

      ところで、福州市から杭州市まで鉄道の距離は972kmあり、福建省、江西省、浙
    江省の3省を通過する。 火車は、福建省内は省内第一の大河・閩江(ミン コウ)
    の河口近くから延々約350kmを遡って邵武市まで走り、そこから閩江に別れを告げ
    て省境の武夷山脈(最高峰は2157m。世界遺産に登録)を抜ける。その後は江西
    省の平野部へ降り、また浙江省の丘陵地帯を抜け 後は穀倉地帯の平野をひた走りに
    走り、杭州に到達する。

     火車に乗って先ず驚いたのは、さすが特快である。 福州を出て最初に停車したの
    は約180km離れた省境との中間部にある南平市で、記憶では午後3時頃であり発
    車してから2時間半経ってからの停車でした。 このように福建省内で停車したのは、
    結局 他に厦門(アモイ)との鉄道分岐点になる来舟と省境の邵武市の3ヶ所だけで
    した。 邵武市へは夕方6時過ぎ、そろそろ薄闇になった頃に停車です。
     次に閩江の河幅の広さ・流量の多さです。邵武の手前辺りの河口から約300km
    程度奥に入った所でも、多摩川の中原付近の2倍位の河幅の広さ/仙台の広瀬川の
    4~5倍位でしょうか、流量たっぷりに行けども行けども滔々と流れているのです。
    皆さんには聞いたことも無い名前の河かもしれませんが、先程 大河と書きましたが
    半日間もこのような河の光景を目の当りにした私の実感です。

     元来、私は汽車や飛行機の旅で窓から風景を眺めるのが好きで、出張の度に通過す
    る地方の地図を用意し、ホゥ- ここはこんな風な所か 等と一人合点顔で飽かずに
    眺めています(ついでに言えば、その土地の料理と酒を味わうのも楽しみですが)。
    仙台の会社に居たときは毎年のように東北6県を廻りましたので、例えば山形県庄内
    地方(鶴岡近辺)は土蔵付きの白壁・黒光りの瓦屋根を載せた立派な農家が立ち並び
    豊かなんだナァー と感心したり、岩手県北部の山間部は飾りの無い平らな壁に囲ま
    れたスレート葺きの簡素な農家が多く、やはり地味が瘠せているのだナァー と思っ
    たり、それぞれの印象を心に留めてきました。

     福建省は中国内では平均より少し上の豊かさ(一人当たりGNPが省の順位で上か
    ら約1/3位)の省です。 今回の火車の旅では、省内でも豊かな沿岸部から比較的
    貧しい山間部に登って行くので、どんな風景が展開するのか興味を持って眺めていま
    した。 確かに南平市を過ぎた辺りより先は見すぼらしい集落も散見されますが、場
    所によってはなかなかどうして立派な2、3階建ての煉瓦作り(?)の民家の集落も幾
    つか望見されました。 尤も、私が垣間見たのは山間部の中でも比較的肥沃な閩江沿い
    の河岸段丘の土地であり、沿岸部から200km離れていても田圃が拡がっていたり、
    近郊蔬菜的な作物が一面に実っていたりする場所もありましたので、正確な印象では
    ありませんが。
     ただ、今回とは別に 赴任直後の4月末に福州から厦門へ沿岸部を約300km自
    動車で片道8時間出張する機会がありましたが、その時に見た泉州近郊の石作りの集
    落は日本にあっても遜色の無い立派な民家と感じられ、経済的な活力があると思いま
    した(この地区は御影石等の産地で日本へ墓石・石灯篭等を輸出しています)。その
    一方、貧富のアンバランスが大きい光景もそこここに見られ、それがこれからの課題
    かナァーと思っている所です。

     さて、そんな思いを馳せながら火車の窓から風景を見やり、また時々相席の皆さん
    の会話に加わりながら火車の旅を続けました。 張さんに、さて昼飯をどうしようと
    言われるまですっかり喰べるのを忘れていました。 矢張り緊張していたせいか気が
    付かなかった(今 この稿を書いている ある日曜の午後2時過ぎ、そろそろ昼飯に
    しなくては・・・)。
     張さんに聞くと、駅弁は無く、食堂車は夕飯時にしか開かず、大体は自分で用意し
    て乗るのが常識とのこと。 成るほど 周りの相席の人達は、それぞれお弁当風、オ
    ニギリ風、パンに果物、それに飲み物を用意しているようだった。 我々は慌ただし
    く火車に乗ることになったので、張さんもそこまで準備する暇がなく、軽いビスケッ
    ト程度を鞄に詰めて来ただけだった。 後は車内販売の弁当があるだけだが、一寸覗
    いてみたが美味しくなさそう と張さんが言う。それ程腹も空いていないので、晩飯
    の食堂車に期待してビスケットとビールで済ますことにした。

       午睡などを小1時間挿みながら時は過ぎ、風景も河岸段丘がそれと判るように細い
    面の重なりが見え 山なみも真近に迫り出し、閩江も漸く狭まる頃、夕闇がそろそろと
    やって来た。
     いざ晩飯にありつかんと食堂車の開く時間を周りの人に確かめると、皆さん 6時
    と教えてくれたので、腹も減ったし またこんな時に気取ってユックリ行って満席で
    待たされてはタマランと思い、張さんを急き立てて少し早めに食堂車に入った。
     オッ 一番乗り。どの席がいいかなと物色して、先ずはビールを注文しなくっちゃ
    と周りを見回すと、ム? 一寸様子が違うナ。 服務員が三々五々 アチコチにのん
    びり屯していて場違いな感じだし、表情は「何だこのウスラトンカチがこんな時間に
    入って来て。」と言っている。 ア 何か間違ったナ と思い、食堂の開く時間を聞
    くと「7時からだよ。」。
     スゴスゴと足取り重く自席に戻る途中で見掛けた軟座(一等寝台)の座席は、ボッ
    クス毎に扉が付き ユッタリとしたスペース、乗っている人も何やら落ち着いた様子
    等々 こういう時はやたらと余所の人が羨ましいものです。
     席に戻ったらタイミング良く弁当の車内販売が来て、張さんが これでも喰べるか
    と言うので、もう何でもいいと飛びついた。 弁当は、ご飯の上に肉と野菜と油揚ら
    しき物が載っていて、5元(約75円)。 喰べて見ると、思いの外 味はしっかり
    していて、結構ボリュームもあったが全部を平らげた。 尤も、周りの人達は物珍し
    げに遠慮なくジロジロ見ているのに多少閉口もし、また日本男児たるもの喰えるもの
    は余さず平らげるのだとばかりに一気に喰べたのでした(チョッと力み過ぎか)。

    [余談ながら、食堂車が開く旨アナウンスがあったのは 結局7時40分頃でした。]

     ともあれ、腹もくちくなり窓の外は夜の帳が降り、ビールを片手に寛ぎながら相席
    の皆さんと談笑したり、食べ物を分けて貰うなど至福のときを過ごしながら、火車は
    夜の闇へと驀進して行くのでした。

  4. 夜汽車(窓外に星影を見る)

     皆さんと和やかに過ごしている間に、夜が更ければ 張さんも自分のベッドに引き
    揚げ私一人が残されるとの思いが フト過る。 その時、相席の人達とどう過ごそう
    かと考え、本を読むフリをするしかないと思い付き、談笑の合間に鞄から本を取り出
    した。
     これを目敏く見付けた かの軍人さんが、「日本の本か。一寸見せてくれ。」とた
    めつすがめつ10数分も眺めて、「日本語って随分漢字が多いんだネ。」と感心して
    返してくれた。 私も、車内の貼り紙に<座席で煙草を吸う勿れ>と書いてあるが、
    皆んな平気で吸っているので私も遠慮なく吸っている と話したら、漢字はお互いに
    大体判るんだと納得顔でした。 ついでに携帯用の灰皿(アルミ箔が貼ってある)で
    煙草を消したら、またまた好奇心旺盛な軍人さんが繁々と見て、日本には便利な物が
    あると感心していた。 それから少時皆でガヤガヤと話題に花が咲いた。

     そうこうしている内に、時計は夜8時半を回り、張さんもこの場の雰囲気に安心し
    たのか自分のベッドに引き揚げることにして、軍人さんに私に何かあったら隣の車両
    まで連絡して欲しい と念を押して行ってしまった。私も思惑通りに本を読み始めた。
    案の定、軍人さんはじめ他の人達も私に話し掛けたい素振りだったが、私が話せない
    し本を読んでいるので諦めて、それぞれに本を読んだり 雑談を交わしていた。
     所が、9時を過ぎた頃に 突然車内は消灯され、折角の私のアイデアもこれにて
    チョンになってしまった。 あとは寝る(フリをする)しかない。
     そのベッドメーキングだが、毛布、枕と今まで座っていたシーツの他に シーツ様
    の白布が2枚あり、どう使うのか考えていると、外国人に親切にしようと皆さんが口々
    に教えかけてくれた。しかし もどかしくなって、上尉の軍人さんがやおら私に「お前
    は邪魔だ。どいておれ。」とばかりに通路に追い出すので、好意に甘えてしまった。
    軍人さんは丁寧にベッドメーキングをしてくれ、満足気に「サァー 寝ろ」という感
    じだった。 一般の人達の親切はホントに有り難いものです。

     サテ、身を横たえると 疲れが出ていたのか直ぐに眠ってしまった。

     どれ程眠ったのか、周りのドタンバタンの大騒ぎで目を覚ました。 何事かと見回
    すと、向かい側の中段にいる商売人風の大男が、『唸るは、喚くは、手足をこちら側
    までバタバタと打ち付けるは』の大騒ぎの真っ最中だった。 すっかり目を覚まして
    しまい、様子を見ていると、その内に片足を踏み外して床に落っこちそうになるし、
    足をブラブラさせてテーブルの上にある水の瓶やらコップやらを蹴っ飛ばしはじめ
    一度は私の顔に飛んで来る始末だった。
     狭いベッドとベッドの間に手足がブンブン飛んで来るので、通路側に退避もできな
    いし、また下段の私はベッドにオチオチ身を横たえている事もできない。30分程
    経っても一向に状況は変わらず、頼みの軍人さんは背中を見せて寝ている。
     どうしようか? 一晩中こんなに物凄く寝癖の悪い人ならタマランな、と思い巡ら
    していると、そんな私の不安を察して 相席の親切な人が、「大丈夫ですよ。この人
    はビールを5本も飲んで酔っ払っているだけですよ。」と身振り手振りで教えて呉れ
    た。

     訳が分かったので私も安心し、収まるのを待つしかないと 横になったまま周りの
    様子や窓の外を見るともなく見ていた。 オヤ? 窓の外に何か光るものが見えるナ
    と目を凝らすと、星影でした。
     福州に着いてから20日程経ちますが、実に一度だけ眉のような三日月を見ただけな
    のです。
     私は小さい頃から天文が好きで、昔は色々天体観測などをしていました。 今回の
    福州駐在に当たって、私のささやかな密かな楽しみの一つに 仙台より約12度も南
    に位置し北回帰線近くの福州では日本で見るのが難しい星(例えば、老人星[カノー
    プス])を見ることが出来るのではないかと期待をしていたのです。 所が、福州に
    来てみて、梅雨の季節なこともありますが、朝晩は霧か靄 日中も殆ど曇っているし、
    それよりも何よりも開放経済下の大変な建設ラッシュで、夜も煌々とライトを付けて
    作業をしているし、宿泊しているホテルは幹線道路に面していて 明るい街灯が夜中
    じゅう照らす明かりで星を見ることが出来ず、些かガックリしていたのでした。
     そんな最中に見た星影は何故か懐かしく感動的ですらあったのです。 ヨシ、今晩
    はジックリ星空を眺めよう! それにしても、この大暴れの酔っ払いが鎮まるまでは
    身動きができないので我慢々々と 今の季節のこの時間はどの星座が見えるかあれ
    これ想いを凝らしていました。
     凡そ1時間も経った頃、漸くかの酔っ払い先生も温和しくなり、私も起き上がって
    早速窓に近寄り空を見上げました。

     しかし! 星は無くなっている。 何だコレハ、と首を伸ばしてアチコチを見ると
    アア何たることか、この間に下弦の月が昇り 皓々と辺りを照らして星はキレイに掻
    き消えてしまっていた。
     何と運の悪いことだ。
     でも、別な光景を目にすることができました。
     月影に淡く映る中国の山野のシルエットが、時には 木立が、農家が、野原が、丘
    が・・・流れるように見え隠れする。 人工的な灯りに目を奪われず、日本の光景と
     は些か異なった幻想的なシルエットを楽しむことができたのです。 少し見飽きた頃
     に建物や工場の灯が、また幹線道路の街灯や自動車のヘッドライトがポツン、ポツン
       と間を置いて見える。
      中国は広く、まだまだ自然と触れ合う機会が多いのです。

      光景に堪能し 心も少し豊かになり、周りも静かになったので 再び寝に就いたの
    でした。

  5. 杭州へ到着

      ぐっすり眠り、周りのざわめきで目を覚ましたのは 朝の5時頃だった。 皆も起
    きだし、ひとしきり話が弾んだのは夜中の酔っ払いの大暴れのことだった。 私にも
    大変だったでしょうと頻りに慰めてくれる。
     それぞれに喰べ物を食べ始め、何も持っていない私に 軍人さんはオレンジを呉れ、
    中国式の喰べ方を身振りで実演して教えてくれた。

    [蔕の部分をナイフで輪切りにし、絞りながら先ず中の汁を吸出し、後で皮を開いて残
    りの実を喰べる。]

     別な人は、時計を指差しながらそろそろ杭州到着ですよと 教えてくれているらしい
    (ただそれが、5時45分なのか6時45分なのかがはっきり判らず、焦らなきゃなら
    ないのか ゆっくりしていていいのか悩んだが)。
     市井の人達は実に親切であった。

     火車での約18時間余、相席の普通の市民の人達と一緒に過ごして感じたのは、日本の
    2~30年前の汽車旅行の時、向かいの席のオジちゃんオバちゃんが訛のある土地の言葉
    で話しかけてきて、ソレ蜜柑食えヤレ煎餅食べろ の肌の温もりのある交流を思い起こさ
    せるものでした。 今の新幹線では殆ど見られない光景(自分も含めて)、高度成長と共
    に日本が切り捨ててしまった 人と人との触れ合いがこの中国での火車の旅では残されて
    いるように思われた。

    ≪教訓その2: 仕事相手の中国人とだけでは無く、利害関係の無い市井の
          人と交流を持ちたい。 そのままの中国を知るために。≫


     火車に乗る時に9時頃杭州到着と聞かされたせいもあって、杭州到着時間に悩んでいた頃、
    張さんも我々の席にやって来た。
     皆は またまた張さんに、夜中はこの日本の人は大変だったんですよ とひとしきり報告
    して話が盛り上がった。 話が弾んでいる内に、いよいよ6時50分杭州到着の車内放送が
    あった。 相席の皆さんに親切にして貰ったお礼を述べ、特に軍人さんにはお礼に日本の書
    物を贈ることを約束し、福州に戻ったらまた会いましょうと別れの詞を交わした。
     軍人さんの何と律儀なことか! 私たちと一緒にプラットフォームまで降りて来て、最後
    の別れに見送ってくれるのでした。 非常に恐縮したことでした。

     さて 改札口を出ると、またまた親切なことに こんなに朝の早い時間なのに杭州電信局
    の馬主任が車で出迎えに来てくれている。それだけでも有り難いことなのに、朝食にと お
    握りまで用意して呉れていたのには恐れ入りました。

     このように皆さんの数々のご親切と共に 18時間余の特快・火車の旅は終わりを告げ、無
    事ホテルへ着くことができたのでした。

                                  【この稿終わり】


[名前]大内靖
[内容]文字化けの件

村野井さん  投稿文の中の文字化けの件、注釈を付けずすみませんでした。
 ご指摘の通り、固有名詞で中国の漢字で日本には無い文字です。私のパソコンには中国語
の辞書が搭載されているので中国漢字の読み書きが可能です。折角の表意文字をカナ書きの
表音文字で書くのが好きでないので、中国語で入力してあります。 失礼しました。

 文字化けの「?江」の?漢字は<門構えの中に虫>の字で『ミン』と発音します(ピンインはmin)。
 『ミン』は古代中国のこの地方の【ミン越】から由来しており、福建省の一文字の略称も
『ミン』と表記されます。 従って、?江は『ミン コウ』と読んで貰えればと思います。

[名前]管理人
[内容]Re:文字化けの件

 門構えも簡体字では略字のような形になるので控えたのですが、「門構えの中に虫」の本字
は見付かったものの“ユニコード”に入力するように、というようなメッセージを無視すると
やはり“ハテナマーク”。何やら分からないまま“ユニコード”でOKボタンを押したら、正
しく表示されました。
 これをアップしなおしましたが、皆さんのパソコンで正しく表示されるといいのですが・・・。
今の中国では使われていない文字なのでしょうね。

[名前] 大内靖
村野井さん
 お陰様で私の文の文字化け「?江」が正しい漢字で表現されるようになりました。ありがとう
ございます。
 ユニコードによる方法とはさすがです。但し、ユニコードと漢字の対応が判らなければ利用で
きないのでは?

 それから、村野井さんのコメントがありましたが『ミン』の字は中国で今も日常的に使用する
漢字です。

 中国と日本で使用される漢字の違いについて若干コメントします。
 以前、私は「中日大辞典(大修館)」に収録されている13,166字から通常の資料・文書をカバー
すると思われる4,845字を抽出し、発音表を作りました。その際、中国と日本の漢字の違いを調べて
みました。
 但し、現在調査が完結していない部分があるので概数を示しますので、大凡を感じ取って下さい。
 約4,800字の内訳:
 1)簡体字化されている字:約1,000字
  【14個の偏と旁が簡化され、その偏・旁を使用する漢字が簡体字になっている】
 2)日本の漢字と中国の漢字で字形(字体)が若干異なってしまっている字:約100字
 3)日本では通常使用されていないが、中国で現在使用されている字:約1,000字
  【「角川漢和中辞典」等日本の通常の漢和辞典に収録されていない漢字なので、日本で通用/定
   着しなかった漢字と思われる。】
 4)日本で作られた漢字(所謂 国字):未調査
  【当然、中国では使用されていない漢字。】

 上述の『ミン』の字は3)の範疇の漢字です。日中の漢字は同じようで、上の様な違いがあります。
尤も、簡体字の構造が判り・慣れれば、殆どの文章の漢字は我々の知っている漢字で用が足せます。
元々、出現頻度の高い漢字が簡体字化されている傾向であり、出現頻度の加重を加味すれば、3)の
範疇の漢字は殆ど出現しません。
(通常の日本の漢和辞典に収録されていないのですから)後は、同じ漢字でも日本と中国で異なる意
味があることを注意する必要があります。

[名前]管理人
 IMEパッドなるソフトが入っていて、手書き文字から探すことができます。その際にユニコード
云々のメッセージが出たのですが、どこか切り替えるところがあって「ユニコード」に切り替えて
OKボタンでOKでした。
 問題は、大内さんのパソコンでは元々表示されている文字だからいいけれど、ウィンドウズ98
などの場合どうなのでしょう。私のはウィンドウズXPです。
 なお、「閩」は日本語ではビンと読むようです。


【中国紀行:その2(杭州②)】  1993.6.27

    『杭州に魯迅の史跡を訪ねて』
  1. 観光ガイドブック
     杭州に出張が決まってから、何時もの例に洩れず 杭州にはどんな見るべき所、喰べ
    る物があるのかをホテルに帰ってから観光ガイドブックを開いて見た。

     ホ! あるある。 福州なんかに較べて格段の差だ。 「西湖十景」、「六和塔」、
    「霊隠寺」、「東坡肉」、「龍井茶」に「湖州の筆」・・・・・ 杭州で時間があれば
    どれを見ようか?

     オ! 「魯迅ゆかりの地」とも書いてある。 なるほど、魯迅は杭州に近い紹興市の
    出身だし、どれどれ杭州とはどんな縁なのかと本文を探したが、見出しだけでナアーン
    にも書いて無い。ガイドブックのクソッタレめ。

  2. 魯迅への関心
     私は仙台生まれですが、魯迅が仙台の医学専門学校(東北大学医学部の前身)に留学
    し、学業半ばで中国の革命に身を投じ、その後は主に文筆活動により革命に大きな影響
    を与えた、という 皆さんもご存知のような一般的な程度の知識しか持っていなかった。
    だから、例えば一昨年(1991年)に「魯迅生誕100周年」の記念行事が仙台でも盛大に開
    かれ、記念出版物が¥3,500円で店頭に置いてあった時にも一寸高いな と思って買わず
    じまいな程度だった。

     所で、昨年6月にFFCS(福建富士通通信軟件公司)の董事会(役員会)が日本で開催さ
    れる際に、中方の董事の方々が打合せおよび見学に仙台のTCS(富士通東北通信システム
    ㈱)に来たいという話が舞い込んできた。
     折角仙台に来るので、ディスカッションは勿論であるが見学も松島などの一般的なもの
    だけでなく、何か中国に関係したものをプラスした一味違う内容にしようと色々探してみ
    た。その時思い付いたのが魯迅だった。仙台市役所や東北大学、河北新報社などを訪ねて、
    宮城県立博物館に魯迅の立派なレリーフがあり、また先程の「魯迅生誕100周年記念出版」
    の本を手に入れることができた。
     この本を、TCS来訪の際に中方の董事の方に贈呈し、翌日 魯迅のレリーフに案内し中国
    の皆さんに大いに喜んで戴いた。所が、それが通常のような悦びではなく、何かもっと別
    の懐かしむような 慈しむような悦びに私には感じられ、そんな悦びの由来が解らなく、
    後々まで私の心に引っ掛かっていた。

     私の中国駐在赴任が決まり、中国語会話練習を東北大学に留学している李光華先生に習
    ったとき、合間に中国事情などを色々話し合った中で、先程の董事会の方々の悦びについ
    て話をしてみた。
     そうしたら李光華先生は、中国の人々は仙台の地名を恐らく東京、京都の次くらいに良
    く知っており、親しみを持っているでしょう。それは小学6年の教科書に「(魯迅の)在
    仙台」について習っており、人と人との交流に感銘を受けているという説明をして呉れ、
    後で態々その教科書のコピーを持ってきてくれた。 それで、心に引っ掛かっていたこと
    が大凡納得がいき、中国に赴任したら 少し魯迅のことを調べて見ようという気になった。
     それもあって、赴任準備の合間に 昨年の秋に東北大学の構内で除幕された魯迅の胸像
    や、医学専門学校の教室跡、下宿の跡地など、仙台の魯迅ゆかりの地を見たり、写真に撮
    っておいた。

  3. 杭州の魯迅像
     さて、火車(汽車)18時間余の旅で駐在地 福州から杭州に着き、ディジタル電子交換
    機20万回線開通記念式典等の行事が終わった後、翌日の帰りの飛行機のフライトが取れず、
    杭州で1日時間が空くことになった。 このチャンスに会社の通訳の張静さんに西湖の中の
    孤山にある「魯迅塑像」を見る時間を作って貰うことにした。

     西湖は一大観光地で、著名な観光ポイントは人・人・人であるが、一歩外れれば静かな
    所だ。私たちの行った孤山も、魯迅塑像に向かう方は閑散としていて、たまにアベックを
    見かけるだけだった。 ハイヒールの張さんには気の毒したが、案内板も無い山道を方角
    を頼りにしばらく辿って行くと、急に綺麗に芝生が刈り込まれた広場に出た。
     そこが、「魯迅塑像」の広場であり、椅子に腰掛けた大きくて立派な魯迅の全身像が顕
    われた。なかなか良い像のように感じられ、カメラを持って来なかったのが悔やまれる。
    それに結構整備された広場なのに誰一人見物に来ている人が居ないのには、もう魯迅は中
    国では忘れ去られた人物なのかと一瞬ガッカリしてしまった。

     記念にすることが何もできず(観光スポットに付きものの記念写真屋もここには居ない)、
    帰り道に就いてしばらく行くと、ベンチに若いアベックが座っていた。
     矢も盾もたまらず、張さんに記念に写真を撮って貰うように交渉を頼んだ。始め 青年
    の方は気安く立ち上がったが、女性の方は何だかんだと 自分たちに関係無いことだし、
    面倒臭いし などと色々言って男に止めさせてしまいそうだった。イヤハヤ日本も中国も
    世界のどこでも、最近の若い人達の行動の決定権は女性が握っているわいと写真も諦めよ
    うと思ったとき、最後に張さんが「この人は日本の仙台から来ている人で是非魯迅の写真
    が撮りたいんだ」と 言った途端に件の若い女性の態度がコロッと変わり、サアーどうぞ
    どうぞ アンタさっさと撮ってあげなさいよ となったのには有り難くもあり、また 可
    笑しくもあった。
     道を少し戻り、魯迅像が見える所に出ると 彼らは未だ見ていなかったらしく、青年は
    「おい、来てみろよ! 立派な像があるぞ!」と大声でベンチに残っていた彼女を呼び寄
    せた。そして、先に着いていた我々の写真を撮ってくれた。私も遠慮して1枚で「謝謝!」
    とお礼を述べると、追いついてきた彼女が もう1枚撮ってあげなさいよ、現像が出来たら
    チャント送ってあげますよ と、さっきとは打って変わった親切な態度で大変嬉しかった。
     また、もう一つ面白かったのは、彼の大声を聞きつけて 7~8人の観光客が集まって来
    たことでした。(尚、彼らは西安の病院の医師夫婦で後日写真も郵送して来ました。勿論、
    丁寧な感謝のお礼と福建省のお土産を送りました。)

     その日の夜、杭州でディジタル電子交換機の現地調整を行っていた若いTCS社員や工事関
    係者と会食を持ったとき、今日の話題が出て 試しに食堂の小姐(ウェイトレス)に魯迅の
    ことを聞いたら、小学6年で習ったから 魯迅のことも仙台のことも知っているとのことだ
    った。

  4. 後日談
     仙台の李光華先生の言ったことが裏付けられ、ますます今回の中国駐在中に魯迅のこと
    を調べようと、いい気分でフライトに乗り 福州へ戻ったのでした。
     戻った日の午後、風呂で疲れを癒して 寛いだ気分でテレビを点けたまたま中央電視台
    のCH1(チャンネル1)を何気なく見ていると、何と! 日本語会話講座で仙台の魯迅のレ
    リーフを題材にした会話をしているではないですか!
     そして、魯迅と仙台、最近の中国の若い人達の魯迅の知識などが話題になっていました。
     何という間の良さ! タイミングの良さ! 私はすっかり愉快になり、思わずテレビに
    向かって、「仙台にはレリーフだけでなく、東北大学に胸像もあるから紹介してよ。」と
    叫んでしまったのでした。

≪教訓その3: 中国に出張・駐在する人は魯迅に関心を持つべし。
       特に、TCSの諸君は自信を持って魯迅・仙台を話題にすべし。
       必ずや中国の人から親しみを得ること間違いなし。
                              【この稿終わり】


 上記紀行文(その2)について「掲示板」での交流がありました。掲示板の内容は、
いずれ消えていきますので、いつでもそうするとは限りませんが、消えてしまうのは勿
体ない内容と判断して、ここに再録しておきます。   ―管理人―

[名前] 福田浩尚
[内容] 大内君の寄稿
 面白く読ませてもらいました。魯迅は、仙台で多くの知遇、友人を得ました。
そして医者よりも作家になった方が多くの人のためになるだろうと考え、文学の
道をこころざしました。仙台時代のことを書いたものに「藤野先生」という文が
あります。この藤野先生は、我々の同期である藤野寛君の親戚かどうかは、生憎
分かりません。福田浩尚

[名前] 大内 靖
 福田さん。 コメントありがとう。
 「藤野先生」は承知しており、私も人と人の交流に感慨を覚えます。中国の
人も学校で習い、同じような感慨を持ち 藤野先生および仙台に親近感を持っ
ているように思います。
 少し長くなりますが、投稿した一文に書かなかった以下の事を補足します。
 私の一文を通訳子が中文に翻訳して呉れました。 その中で、私が「小学6年
の教科書に『在仙台』」と書いた部分が翻訳では「中学の教科書に『魯迅と藤野
先生』」になっていたので質した所 中学で習ったと言い、周りの5~6人に聞い
ても同様でした。
 李光華先生から貰ったコピーを調べた所『在仙台』は原文「藤野先生」の最初
の方2/5程度の藤野先生から添削指導を受けたところまでの部分的な掲載でしたの
で、藤野先生の表題を付けなかったのかも知れません。
 中学では分量も多いでしょうし、上記の表題で教科書になっているものと思わ
れます(中学の教科書を私は見ていない)。
 この違いは、李先生は文革の最後の紅衛兵の年回りですし、通訳子等は文革後
の世代ですので10年程差があり、或いはこの間に教科書改訂等があったのかも知
れません。
 このような事で、中国の人は魯迅と藤野先生の交流を良く承知しているようです。
 ついでに言えば、魯迅が仙台を離れる時に藤野先生が「惜別」の言葉を副えて
写真を贈っていますが、魯迅はその写真を終生書斎の机の壁に貼り、気持ちが萎
える時に写真を見て奮起したとの魯迅の言葉があります。 尚、その写真は北京
の魯迅博物館に展示されています。
 蛇足を言えば、「藤野先生」の作品はアモイ大学に在職中の1926年10月に執筆
されたそうです。
                          以上

[名前] 福田浩尚 [内容] 藤野先生
 大内さん、
 心温まる中国人と日本人の交流です。宮崎滔天にしても昔の日本人には
偉い人がいました。

[名前] 大内 靖
 福田さん。
 私もそのように思います。
 コメントありがとうございます。