岩手県立盛岡第一高等学校1960年卒在京同期会
在京白堊三五会・エッセイ(佐藤勇夫)

  ヨーロッパ駐在中のフランス・ドイツにおける

  日本サッカーのワールドカップ観戦記です。



『ワールドカップ観戦記』
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『ワールドカップ観戦記(1)』

             佐藤 勇夫
             (宇部興産社内報 1998年9月号より)


スタジアムの写真をクリックすると拡大します。

 ドーハの悲劇に涙を流し、苦節40年。日本サッカーファンにとって記念す

べきワールドカップ第一戦、対アルゼンチン戦を観戦する機会を得た。



 当社とビジネス関係を持つフランスのS社(本社所在地がツールーズ)から

アルゼンチン戦への招待状が届いた。VIP一名限定ということで、職権によ

り私が受けることに決め、試合前日にツールーズに乗り込んだ。



 翌朝S社の人間がホテルに来て、チケット受け取り場所に行くと言う。チケ

ットを入手するまでは半信半疑、不安な気持ち一杯で着いたところがツールー

ズ市の商工会議所。ツールーズ市に貢献した関連企業を招待するという主旨の

企画であり、銀色に輝くチケット(750フランと書いてあった)を手にした

時は、天にも昇る思いであった。



 席はセンターライン近く、試合の流れを良く把握できる特上の場所であり、

さすがは商工会議所、と感謝。スタジアムの6割以上が日本人。日の丸を振り、

君が代を大声で唄い、雰囲気は一気に高まった。



 試合内容はご存じの通り、0対1の惜敗であったが、スタジアムで見ている

と、点差以上の違いがあることは否めなかった。たまたま周りはアルゼンチン

応援団で、試合終了後、「日本は思いのほか良くやった」と慰めてくれたが、

日本を遥かに格下と見ていることから出た言葉で、悔しい思いをした。



 夜はディナーがあり、“Nanami”と書かれたテーブルに案内された(もしか

して本人が来るのか、と思った)。メインホストはフランスサッカー界の英雄、

フォンティーヌであった。フォンティーヌは知る人ぞ知る英雄で、1958年の大

会で13得点し、得点王となり、この記録は未だ破られていない。この英雄と握

手し、話しをし、サインを貰い、一緒に食事をし、思い出に残る記念すべき一

日が終わったのである。



 日本のワールドカップ第一戦の歴史的証人になれたことをうれしく思うとと

もに、フォンティーヌのサインとチケットの半券(30万円で売れたかもしれな

いプラチナペーパー)は、私の宝になるものと思っている。






『ワールドカップ観戦記(2)』

写真をクリックすると拡大します。

 2000年3月末に6年間のドイツでの勤務を終え帰国した後、なかなかド

イツを訪問するチャンスが無かった。そんな中、2005年6月末完全リタイ

アすることになった。毎日が日曜日になったので、今度こそドイツに行くこと

に決め、そのチャンスを2006年6月のサッカーワールドカップに定めた。

家内と息子も一緒に行くことも決めたのである。



 先ずはチケットの入手である。サッカー気違いである息子が手配出来そうで

あると連絡して来た。1998年のフランス大会でもチケット入手では社会問

題になったことは記憶に新しいところである。私自身もドイツに居て、自分自

身を含め、家内、息子、息子の友人のチケット手配を行い、チケット業者から

入手出来る、との連絡を受け、大喜びした覚えがある。結果的には大会10日

前になり、業者から入手出来ないとの連絡があり、日本に居る息子、息子の友

人に急遽旅行のキャンセルをさせたのである。私自身は招待を受け、観戦出来

たことは「ワールドカップ観戦記(T)」で報告の通りである。



 今回もチケットが届かず、ヤキモキしたが何とか出発の2週間前に手元に届

いた。試合は第2戦の対クロアチア戦にした。第3戦の対ブラジル戦にしたい

気持ちもあったが、予選リーグでの敗退が決まっていれば、消化試合となり盛

り上がりに欠けるので、第2戦にしたのである。



 試合は6月18日(日)ニュルンベルグで。家内がパリに寄りたいというこ

とで12日(月)に成田をパリに向けて出発。この日は第1戦の対オーストラ

リア戦。丁度前半が終わった頃に客室乗務員に結果を尋ねて見た。機内放送で

日本が1点リードで前半終了とアナウンスがあり、これは予定通りと思い、一

路ドゴール空港へ。到着直前には後半も終わり、結果のアナウンスがあると思

ったら、何の音沙汰も無く、単に入国審査のこととかどうでも良いことの説明

のみ。前半の結果のアナウンスがあったのだから、後半の結果のアナウンスが

あって然るべき。もしかしたら、と不安がよぎった。到着後急いで地上係員に

結果の確認。何と、残り8分で3点も取られて逆転負け、とのこと。気が抜け

てへたり込み、茫然自失。



 パリは猛烈な暑さ。気を取り直して、ネットで予約した凱旋門近くのホテル

へ。晩飯を食べに近くのレストランへ。メニューを見ただけで頼んだが、出て

きた物のボリュームにビックリ。ヨーロッパの食事のボリュームの凄さを忘れ

ていたのである。サラダだけでお腹が一杯。直ぐにホテルに戻ったが、暑さと

騒音で寝付かれない。スペインとか暑いところは別であるが、ヨーロッパは一

流ホテル以外原則クーラー無し。敗戦のショックと暑さと騒音で一睡も出来ず。



 翌日は暫く振りでオルセー美術館へ。私はこの美術館が特に気に入っていて、

今回も行くことにした。家内とは時間と集合場所を決めて別々に鑑賞。約束の

時間が近づき下へ降りてゆく途中で家内とバッタリ。何と財布を擦られたとい

うではないか。「何!またか!」。家内はどうも狙われ易いのか6年間のヨー

ロッパ滞在中に何度も被害に遭っている。私の出張中にも被害に遭い、クレジ

ットカードの停止手続きで私のカードも使えなくなり、出張先で難儀したこと

があったが、一方でセキュリティーの確かさも確認したことがあった。



 それからが大変。美術館に届出、警察へ届出、日本のクレジット会社に届出。

特に警察への届出はたらい回しにされて、セーヌ川を渡ったり、戻ったりで1

時間以上も歩き回ることになった。4月にギックリ腰になり、歩行困難なまま

出発したので、この警察探しの歩行は難儀なものであった。警察での対応はパ

リ美人。美人の顔を楽しみながら少しは不満が和らいだ。財布には大したお金

は入っていなかったが、子供達の誕生日プレゼントのブランド品。その金額を

聞いてパリ美人は驚いていた。被害は保険で幾分カバーされ、帰国後3ヶ月ほ

どしてボロボロになった財布がクレジットカードと共に我が家に届いた。勿論

現金は無し。美術館が届けてくれたのである。感謝。



 パリに2泊し、懐かしのドイツ・デュッセルドルフへ。空港には住んでいた

マンションで親しく付き合っていたドイツ人夫妻が迎えに来て呉れていた。6

年振りの再会で、お互い涙を流し抱き合って再会を喜んだ。懐かしのマンショ

ンに着き、緑豊な風景、教会の鐘の音、小鳥のさえずり、等々で6年のブラン

クが一気に吹っ飛んだ。翌日は懐かしの街を散策し、ライン川の遊覧船に乗り、

変わらぬ豊な緑、美しい街並みを楽しんだ。勤務していた事務所にも寄り、部

下であったローカルスタッフ達と再会した。日本に帰国し、英語を使うチャン

スが無く、英語が下手になった、と言ったが、昔と全く変わっていないよ、と

言われた。これって、昔から下手だった、ということかな、とも思った。



 息子とは試合の前日の6月17日(土)の夕刻にフランクフルト空港で落ち

合うことにしていた。日本を出発の際に、試合のチケットは各自が持ち、応援

用のユニフォームは息子が持って来ることに決めていた。私は勿論小笠原の8

番のユニフォームである。因みに家内は宮本の5番、息子は中田の7番。フラ

ンクフルト空港で、到着口から息子が出て来るのを待った。しかし、飛行機が

着いているのに息子はなかなか出て来ない。ニュルンベルグ行きの特急電車の

時間も迫り、乗り遅れたのではないか、と心配になったその時に、出口から息

子が顔を出した。何と、荷物が出て来ない、という。列車の運行状況を見ると、

遅れが出ている。遅れの時間を確認しながら、息子が出て来るのを待つ。1時

間ほど待ったが、荷物は出て来ない。直ぐに荷物紛失の届出をさせて、列車に

乗ることにした。



 ニュルンベルグに付いたのは深夜。ホテルには航空会社からの連絡無し。翌

朝、荷物は見付かったが、届くのは午後2時以降、と連絡が入る。それではユ

ニフォームが試合に間に合わない。試合は午後3時から。午前中はニュルンベ

ルグ観光し、ユニフォーム代わりに日の丸の旗を購入。一度ホテルに戻り、荷

物の到着を訊ねたが、届いていない。三人に日の丸の旗一本では如何にも寂し

い。ホテルの日本の旅行業者のツアーデスクにあった「SAMURAI BLUE 2006」の

旗二本を無断拝借。競技場に急いだ。この日も猛暑で、両軍の応援団の熱気も

凄まじい。



 席は高いところ。値段ではなく、上から2番目の何とも高いところ。遥か下

に選手が見える。周りは全てブルーのユニフォームの日本応援団。その中に三

人だけ普通のシャツ。何とも冴えない。航空会社が悪いのか、フランクフルト

空港が悪いのか、恨み節。試合はご存じの通り。余りの暑さに選手はフラフラ。

家内お気に入りの宮本のミスでペナルティーキック。これが決まれば敗戦が決

定的になる。川口のペナルティーキック阻止で興奮が頂点へ。余りの興奮に頭

がクラクラ。座り込んでしまった。触れば入るシュートをクリアーしてしまっ

た柳沢の凡プレーに怒り心頭。現地の新聞には、身障者でも入れられるボール

であった、と酷評されていた。小笠原は頑張ったが、実らず。これで日本のワ

ールドカップは事実上終わったのである。



 ホテルに戻ったら息子の荷物が届いていた。折角買ったユニフォームを着な

いまま日本に戻るのは何とも悔しい。ユニフォームに着替えて街中の有名ドイ

ツレストランで晩飯を食べることにした。そのレストラン特製の名物ソーセー

ジを頼んだが、売り切れとのこと。残念至極。そうこうしている内に、高貴な

雰囲気の方々が奥の部屋から出て来た。何と、高円宮久子妃殿下と川渕キャプ

テンご一行ではないか。ユニフォームを着ていたため、我々のテーブルで立ち

止まり、「ご苦労様」と妃殿下から声を掛けられた。川渕キャプテンとは握手

をし、「ブラジル戦もあるから応援宜しく」と声を掛けられた。ジーコを何時

までも監督にして置くから、こんなことになったじゃないか、と文句を言いた

かったが、そこは白亜35年会の一員、紳士として振舞った次第。ご一行が去

った後にウェイトレスがやって来て「プリンセスが名物ソーセージを全部食べ

てしまった」と言うではないか。一瞬「妃殿下はそんなに大食いか」と思った

けど、そんなことがある訳は無い。彼女なりの我々に対する言い訳と冗談であ

った。余談ではあるが、高円宮様と同妃殿下には1996年10月にミラノの

古い教会でお会いしたことがあった。偶然が2回もあったことになる。



 試合の翌日にミュンヘンに移動し、息子がどうしてもノイシュバンシュタイ

ン城を見てみたいということで、何回目かの訪問をした。このお城は何回見て

も美しく、後の吊り橋から見る姿は特に美しい。是非一度は見て貰いたいお城

である。ミュンヘンに2泊し、恨み重なるフランクフルト経由で22日(木)

成田に戻ったのである。その夜に対ブラジル戦があり、奇跡を願ったが、そう

簡単に奇跡が起こる訳も無く、予選敗退。



 こうして2回目のワールドカップ観戦は終わったのである。前回は負け試合

を、今回は引き分け試合を見たので、次回は是非勝試合を見たいものである。

                  (2007年9月22日:佐藤 勇夫)