岩手県立盛岡第一高等学校1960年卒在京同期会
在京白堊三五会・エッセイ by 望月紀子




『ヴェネツィアで』


 一昨年、調べもののために十二月のヴェネツィアにいた。一年ぶりに水上バスに一歩足

を踏み入れたときの、ぐらりとした感覚がホテルに入ってもつづいていた。時差のせいで

眠れないまま、窓から海を眺めていた。正面が船着場で、その先の小島に建つサン・ジョ

ルジョ・マッジョーレ教会が、月明かりのなか、細長い鐘楼とともに島ごと海上を浮遊し

ているようだった。寒い寒いこの時期、乗る人もなく、青いシートをかけられて岸辺につ

ながれたゴンドラが、黒い影となって揺れていた。ホテル全体も揺れているようだった。

 船着場がざわめき、暗がりから降りてきた人影が散りだした。真夜中と思っていたが、

七時。夜明けはまだなのに、人びとの一日は始まっていたのだ。重たげなコートや毛の帽

子の男や女たちが、イタリア人の多くがそうであるように、背筋を伸ばし、大股で歩いて

ゆく。ゴム底なのか、石畳に響くあのかたい靴音はなかった。           

 なぜかうれしくなった。彼らのなかに遠い日の自分が見えたようだったからか。さらに

北のミラーノではたらいていたころ、暗いうちに家を出て、霧のなかに忽然と姿をあらわ

すバスを待っていた。霧とともに職場に入り、出るころはすでに太陽はねぐらにもどって

いるという日々だった。真冬でもまぶしいほどの銀座通りがなんと懐かしかったことだろ

う。だが黙々とバスに乗り込む彼らが、いざとなるとストライキをし、広場や通りで声を

張りあげて自分たちの権利と尊厳を守る人たちであることを、私は短い職場体験で教えら

れた。空耳ではなく、彼らが「チャオ」と声をかけてくれたようだった。      

 ほどなく、水平線が白みだし、太陽がのぼりだした。              

 外に出ると、そこは、劇場都市、迷宮都市ヴェネツィア。運河と曲がりくねった小路、

きらびやかなドレスと仮面、血を受けたような真紅のワイン・グラスなどが誘いかけてく

る。カーニヴァル、ヴィヴァルディ、カサノーヴァ、『ベニスに死す』の世界だ。ホテル

を出たときのまま、この浮島の町ごと、身体ごと揺れる感覚をこころよく確かめる。だが

その朝はいつもと何かがちがった。すれちがうのが外からの客ではなく、バスを降りてき

た労働者たちなのだ。彼らの日常のはじまりが私の一日とともにはじまり、私もひとりの

労働者になっていた。置いてきたばかりの自分の日常を思った。          

 私はほとんど家にこもり、なるべく外に出なくていいようにしている。数年まえ、ドア

を隔てて息子もこもっていた。三時になると私の部屋に来て、「コーヒー・タイム」と言

う。「コーヒー、どうぞ」はいちどもなかった。彼が保育園児だったころ、夫も家にいる

ことが多かった。ある日彼は、「ぼくも家にいる」と言った。中学生のころ、夫は夕方帰

る人となったが、私はほぼ家にいた。彼は「お母さんは家にいていいね」と言った。三年

になって一日も学校へ行かず、高校、音楽の専門学校を卒業したあと、家にこもった、よ

うやく義務を果たしたとばかりに。今は大学四年生になり、資格試験の勉強をしている。

そしてはたらきたいと言う。                          

 日常、仕事、家庭。それ自体がドラマであり、舞台であり、仮面あり、迷宮ありだ。そ

してコーヒー・タイムの彼の日常。彼の仮面、彼の迷宮。早朝の労働者との出会いに心を

動かされたのは、彼がはたらきたいと言い出したからかもしれない。旅先で私の日常がは

じまったからかもしれない。揺れは停止した。                  

 サン・マルコ広場の図書館に入った。本の森は深く暗い。つきない迷宮だ。古書は貸し

出さないので、パスポートを預け、監視員のいる部屋で読む。必要なものはマイクロ・フ

ィルムにしてもらう。ヨーロッパやアメリカからの研究者たちが静かに仕事をしている。

 足の下は海。魚が泳いでいるのだろうか。この大理石の壮麗な建物も海に浮いているのだ。

かすかに潮の香がする。だがもう揺れていない。床は冷たく、多くの人が私のようにコー

トをはおったままだ。向かいの席には大学生のカップル。彼女の卒論を彼が手伝っている

らしい。彼がカードを読み、彼女がパソコンに打ち込む。彼女は顔を紅潮させ、上着を脱

ぐ。何とタンクトップだ。彼はそのあらわな腕をさすりながら、何ごとか耳打ちする。古

典演劇について書くのだと、あとでバールでパニーノをほおばりながら言った。午後も同

じ。三日間、毎日ちがうパートナーをしたがえ、「ブオン・ナターレ」(よいクリスマス

を!)と言って去っていった、水の精のような金髪の女の子。           

 ルネサンス期、この町は東方交易で栄え、自由を謳歌していた。だがそれは男性の自由

であった。タンクトップの彼女のはるかな先祖の女たちは、世継ぎを産むために結婚させ

られ、家にしばられ、ゴンドラを漕げなければ、駆け落ちもままならなかった。私が調べ

ていた尼僧作家は、修道院の壁のなかから、わずかに足を引きずる幼い自分を閉じ込めた

父親、貴族の資産の分散を防ぐために修道院入会を推進した政府、腐敗した修道院上層部

をはげしく攻撃した。発禁となっていた彼女の著書がいま、女性研究者たちの手で世に出

はじめている。貴族の女性や娼婦、ゲットーで一生を送ったユダヤ女性なども、ペンを武

器として自分たちの権利と尊厳を訴えた。なかでも娼婦作家はまぎれもない労働者だ。岸

辺につながれた小舟の姿がこれらの女性たちと重なったが、彼女たちはみずから漕ぎ出し

たのだ。そんな女性たちを追いながら、コーヒー・タイムの彼もそろそろ舫いを解こうと

思いはじめたのだろうか、と思った。漕ぎだす先はおそらく、この厳寒の海のような荒海

だろうけれど。                                

 どこでも、人がいるかぎり、自分との関係が生じる。過去や現在の自分との関係も見え

隠れする。置いてきた日常を、ゴンドラを眺めながら、遠い時代を思いながら、そして青

い眼をのぞきながら、思う。そうすると、そこにある生活やそこにいる人間が、過去や現

在の、自分のなかにずっとありつづけている神話や物語などの人物となる。コーヒー・タ

イムの彼もそのひとりだ。                           

 はるかな昔から、少年や青年は家を出て、世界を見、女性に出会い、傷つき、ある者は

何年も何十年もたってから故郷にもどる。あるいはもどらない。わが家の元少年は、たぶ

んすでに深いところで傷ついた。いつの日か家を出て、タンクトップの女神に出会い、そ

のために傷ついたり、あるいは裏切りを知るのだろうか。      望月紀子