岩手県立盛岡第一高等学校1960年卒在京同期会
在京白堊三五会・エッセイ by 望月紀子




『早春のイタリアで出会った若者たち』


 古い大学都市パードヴァの繁華街で、花ざかりの辛夷の木を見つけた。女子高生たちに

名前を訊くと、顔を見あわせて、「わかりません」 タクシーの運転手はマニョーリアと

答えた。マニョーリアはマグノリア、木蓮だったはずだが・・・          

 ジョットの壁画で有名な礼拝堂で、順番待ちらしい高校生の列の最後尾で床を見つめて

 いた男の子に「あなたが最後?」と訊くと、「わかりません」 「何なの?」と思いつつ、

 待つこと5分ほど、彼が意を決したように立ち上がり、真剣な顔で、フランス語で言った。

「受付に行ってください。ぼくらはもう見たのです」 それならさっさとそう言えばいい

のに。受付に走りながら、彼がずっと考え込んでいたことを思い出した。何か訊かれた、

イタリア語でやっと、わからないとだけ答えた でも、このままだとこの人は入れなくな

 ってしまう・・・と煩悶すること5分。そして思い切って立ち上がったのだ。見終わって、

広場のピッツェリーアにすわると、少し離れたテーブルから、話を聞いたらしい仲間が彼

を促し、いっせいに笑顔で手を振ってきた。ひと一番内気な子らしかった。     

 隣接する教会の中庭に、根元から枝葉をつけた巨大な泰山木があった。係りの人のいわ

く、マニョーリア。つまり、辛夷も木蓮も泰山木もマニョーリアなのだった。    

 旧ユーゴスラヴィアとの国境の町トリエステ。かつて夫は別の町の美術館、私はこの町

の詩人の古書店を訪れるために別行動となり、10歳の息子は私についてきた。ギリシア

 に一週間、船で南イタリアに渡り、北上して、パリから日本に帰った40日間の旅だった。

かつてオーストリア・ハンガリー帝国の海港だった裕福で開放的なこの商都のランチ・タ

イム。しゃれたバールのイタリア語の渦のなか、息子はうつむいて、ひたすらパニーノに

 かぶりついていた。彼もまた、あのフランス人の高校生のように、何とも内気な子だった。

 町はずれに、復元された、イタリアで唯一の焼却炉つき絶滅収容所がある。地元の高校

生たちと、生き残りの老人の説明を聞き、眼鏡、指輪などの遺品、コンクリートで固めた

焼却炉跡などを見て、足が震えた。老人は言った、「忘れてはいけない、収容所をつくっ

たのはナチスだけじゃない、地元も企業も加担したのだ」 外に出ると、その高校生の何

人かがタバコを吸っていた。おや、先生は? と見まわすと、中年の女教師も火を点けよ

うとしていた。そしてさっきまでみなに声をかけていたリーダーらしい男子生徒が、先生

に火をもらい、二人で深々と煙を吐いたのだ。うれしくなって、私もいっしょに煙を吐い

た。                                     

 翌日、煙とともに吐き出しきれなかったあまりに重いもののせいか、水上バスからの

「水の都」の景観はいつになく空疎に見えた。と、とある館のバルコニーに真紅の横断幕

 がはためき、若い女性たちがにぎやかに手を振っている。そこには、「チベットに自由を!

ヴェネツィア大学」と書いてあった。世界じゅうからの観光客も手を振って応える。岸辺

を埋める館たちがいつもの親しみにみちた美しさをとりもどした。         

 ヴェネツィアには16世紀からの強制的ユダヤ人居住区域ゲットーが現存する。すでに

何度か訪れているが、トリエステの収容所を見たあとだけに、1943年にここから最後

の封印列車に乗せられた人たちの名を刻んだモニュメントがひときわ鮮烈だった。広場の

ユダヤ博物館も若者の集団でにぎわっていた。ドイツ語も聞こえる。どこでも、このよう

な光景に向きあわなければならない若者たち。翌日、リド島のユダヤ人墓地にある「美し

きユダヤ女性」と呼ばれた17世紀の詩人のお墓を訪れた。数世紀の時間を眠りつづけて

 いる魂たちの吐息で湿ったような草を踏みながら、またドイツの若者たちのことを思った。

 その夜、ホテルに隣接する劇場で、若い音楽家コンクールの上位入賞者のお披露目コン

サートがあった。由緒ある劇場のバラ色の光のなか、東欧系やドイツ人の若者たちの生み

出す初々しい弦の音色は、一日歩きまわった疲れを癒してくれた。そしてその音色は、ゲ

ットーやユダヤ人墓地、そしてトリエステの収容所の死者たちの魂も慰めてくれるようだ

った。若者たちのやさしさと力は世界の宝ものだ。                

                           2008春・望月紀子