在京白堊三五会 海外見聞録(村野井徹夫)


岩手県立盛岡第一高等学校1960年卒在京同期会
在京白堊三五会・『海外見聞録』 by村野井徹夫

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『はじめに』

 この『海外見聞録』を書く前に、私はその“姉妹編”とでも言うべき『我が国際会議録』
と題した一文を書き上げた。それは、元々は海外見聞録として書き始めたものなのだが、私
の海外体験はわずか3回の、アメリカとドイツで開かれた国際会議で発表したことに関連し
て記すものであり、国際会議に参加する経緯(いきさつ)から述べようとすると、国内で開
催された国際会議についても記すことになり、私の意図する“見聞録”としては散漫になり
そうなために、まずは、『海外見聞録』とは切り離して、先の『我が国際会議録』として纏
めることにした。併せてお読みいただければ幸いである。              

 海外へ出かけるといえば、旅行代理店が組む“ツァー”を思い浮かべるところだが、私は
この種の外国旅行をしたことはなく、留学したこともない。私の海外体験といえば、大学に
勤めていたときのわずか3回の国際会議(1992年〜1994年)で論文を発表したこと
だけである。従って、ここで述べる“海外見聞録”は諸兄姉のような「新しい事業を海外で
立ち上げた」とか「販路を海外に広めた」というような景気のいい話とは全く違っている。
 上の一節は、先に述べた『我が国際会議録』の出だしの文章とほとんど同じである。その
3回の国際会議の開催場所だけ述べると、最初は、1992年のボストンのマサチューセッ
ツ工科大学(MIT)で、次いで1993年のロードアイランド州のニューポート、最後は
1994年のフライブルク(ドイツ)である。国際会議の内容については、“姉妹編”の方
をご覧戴くとして、これから記すことは、そのような国際会議出席に付随して発生したツー
リスト的な体験の記録である。                          
 私の海外体験というのは、アメリカとドイツに合計で4週間ほど滞在しただけなので、そ
のわずか4週間でもって“これがアメリカだ!”とか“これがドイツだ!”などというつも
りは毛頭ない。書く事柄も、必ずしも時系列ではない。               


『出発まで』

 旅行会社のツァーならば、個人で用意するものはパスポートと旅行費用だけで、あとは全
て旅行会社任せで済むのかもしれない。ところが、大学の場合、計画作りから航空券や宿泊
先の手配、その他なんでも自分でこなさなければならない。勿論、JTBや近畿日本ツーリ
ストに委ねることは可能ではあるが、国際会議の事務局が用意する宿泊先の利用とかを考慮
すると、自分で手続きをしたほうが手っ取り早い。航空券も研究室に季節ごとに送られてく
る旅行代理店のダイレクトメールの中で一番安いのを選んだ。どっち道、国際会議の日程は
数年前から決まっており、論文アブストラクトの採否は半年ほど前に通知されるので、採択
が決まってから計画を立てても十分に間に合うのだ。                
 手続きなど全てのことを自分でしたおかげで、いろいろなことが体験できた。国際会議の
会期中の宿泊のことは後で再び触れることにするが、その後の帰国するまでの予定に沿った
ホテル探しは現地に行って見つけられるかどうか自信がないので出来るだけ出発前に決めて
 おきたかった。最初のMITのときは、終わったらボストン美術館には是非行きたい。勿論、
旅行計画書にはボストン美術館に行くとは書けないけれど、交通事情も分からないので日程
は余裕をもってつくっておく必要があった。『地球の歩き方』というような旅行案内書に書
いてある日本なら素人下宿というか民宿のようなところ(Longwood Inn)に2泊したいと手
紙を書いたら、その予定で部屋を抑えておくから$100送れと返事が来た。これを信用し
 ないことには先に進めないとばかりに$100のトラベラーズチェックにサインして送った。
一泊$58.14(税込)だった。次のニューポートのときは資金に余裕があるのでできる
だけ多くの大学や研究機関を訪問することを計画した。結果的には、玉野市(岡山)で話し
たことのあるアリゾナ州立大学のドクター・スクロミーの訪問と従弟(中高後輩)がデトロ
イトにある日本企業の現地法人に勤めていたので、そこを“見学”することを計画した。デ
 トロイトのホテルは従弟に取ってもらった。アリゾナ州立大学に行った時も『地球の歩き方』
に書いてあるホテルに決めたのだが、どうやら東京にあるオフィスに電話をして予約したの
だと思う。TOLL FREE RESERVATIONSという明細書が残っていて、一泊$54.00と税金が
$4.89と記録されている。9%ほどの消費税だったらしい。           

 ボストンへの直行便が当時もあったのかどうか定かではないが、初めての渡航はノースウ
ェスト航空(NW)でシカゴで乗り換えるものであった。次のニューポート(RI)はニュ
ーヨークから行く人もいたけれど、前と同じNWを使うとボストンからバスでいくことにな
るので飛行機は同じくシカゴ・ボストンのコースであった。シカゴには大学のクラスメート
が在住しており、2度目のシカゴでは帰国前日に2泊したいので、“安くて安全なホテル”
を紹介してほしい。そして、暫くぶりで一献傾けたい旨、手紙を書いた。返事は、“安くて
安全なホテル”は郊外となってしまう。また、その日程では日本へ出張中で会えない。そこ
で空港内のヒルトンホテルなら安心だし、50%割引券を送る(贈る)から、シカゴ到着時
に会おうということになった。つまり、超一流ホテルに一泊分の料金で2泊できることにな
った。彼とは乗り換えの間の数時間を空港ロビーで会った。             

 フライブルク(ドイツ)へは、マイレージの関係でノースウェスト航空と提携しているK
LMオランダ航空を選んだ。ただし、フランクフルト直行ではなくアムステルダム・スキポ
ール空港で乗り換えるのだが一泊する必要がある。といっても、ホテル代は航空会社持ちで
ある。ルフトハンザなら同じ運賃でフランクフルト直行便となるのだが、アムステルダムに
一泊するのも一興、とばかりにそれに決めた。                   
 マイレージについては、初めて海外渡航するときまで知らなかったのだが、初めてボスト
ンに行った時、搭乗機内で入会手続きをとれば入会キャンペーンにより、そのときの旅行に
よるマイレージの他に5千マイルプレゼントするというのである。全部で何万マイルになれ
ば成田−アメリカ間の航空券がもらえるのか覚えていないけれど、確か、1回渡航しただけ
で、中国往復の航空券を貰うことができた。ただし、自分で使うことなく知人にあげた。3
度目のマイレージが付けば、今度こそ、成田−アメリカ間の航空券になったと思うけれど、
後で述べるように、帰りはルフトハンザに振り替えられたため、十分なマイレージとはなら
ず、貯めたマイレージは期限切れとなって失効してしまった。            


『往きと帰りの出来事』

 格安航空券の場合、名目上、何かのツァーに組み込まれているものらしい。初めての渡航
のときは送金したら書留便で送られてきたものは、航空券の引換券であった。出発当日、成
田の団体旅行カウンター付近に開設される“ツァーのデスク”で航空券を受け取るというの
は、ちょっとしたリスクであった。割引航空券―旅行代理店は格安航空券とは言わない―の
場合、払い戻しはできない、フライトの変更はできない、他の航空会社への振り替えはでき
ない、など多くの制約条件がついていた。                     
 空港使用料は、最近では航空券の代金と一緒に支払われるけれど、1992年当時は自動
券売機で購入する必要があった。大学では、帰国してから報告書と一緒にその空港使用料の
チケットを提出する必要があるので紛失しないようにという注意を受けた。実際に、失くし
 てしまって始末書を書かされたという話も聞いた。しかし、他所の大学の人に訊いて見ると、
どこの大学の人もそのようなもの求められたことなどない、ということだ。そのような証拠
 物件があろうと無かろうと、正規の空港使用料を払ったから出国・渡航ができたはずなのに、
証拠をもってこいだなんて変な仕組みになっていた。                

 私の乗った、成田発着の飛行機はアメリカとオランダ・ドイツの航空会社なのだが、日本
人の乗客が多いので、必ず一人は日本人客室乗務員(CA)がいた。しかも、シカゴでは搭
乗前の日本語のアナウンスもあった。                       
 初めての渡航は、成田発シカゴ乗換えボストン行きのノースウェスト航空だった。CAは
 14、5人いたのだろうか。全員同時に仕事をするのではなく、10何時間かの飛行なので、
すぐ休憩に入る人たちもいたようである。休憩と言っても、カーテンの内側で座っているだ
けみたいに見えた。アメリカ人CAは、みな若い人たちで、何か活き活きしていた。一方、
日本人CAはかなりの年配の人で落ち着いた感じである。CAの胸の名札をみるとLISA
だのMARYなどのファーストネームしか書いていない。日本人CAは苗字が書いてあった
ように思う。私は、その日本人客室乗務員を呼んで聞いてみた。名札のことではない。「あ
なた方客室乗務員は、往きと帰りでどちらが嬉しいですか?」 つまり、「他の客室乗務員
はこれから帰国することになるわけだけど、何かはしゃいでいるようにみえる。あなたにと
っては逆にアウェイなわけでちょっと緊張しているようにも見える。ホームとアウェイの違
いがあるのでしょうか?」というようなことを訊いた。彼女は、「客室乗務員としては往き
と帰りで勤務態度が変わるということはあってはならないことですけれど、気持ちの上では
そういうことがあるかもしれませんね。」と答えてくれた。何しろ、こちらは初の渡航で、
見るもの全てが珍しく何でも確かめたくなってしまう。               
 こうやって、まずはシカゴに向かった。出発のときに隣の乗客がアップグレードしてビジ
ネスクラスに移ったということで、元々空いていた席とあわせて三つ使えることになった。
横になっても良いというので、ラッキーとばかりに横になって眠ることが出来た。しかし、
結果的にはそれが災いしたと思う。眼が覚めたときに耳がおかしくなってしまった。ばっち
りと眠った間に、鼓膜がおかしくなってボワーンと妙な具合にしか聞こえない。座ったまま
でいれば、何度も眼が覚めて、そのときに自然と空気抜きができたのではないかと思った。
耳鳴りは一日以上治らなかった。                         

 このようなことで、初めて外国の地を踏んだのはシカゴということになる。飛行機を降り
て入国審査の建物までは、最初はバスに15分くらい乗っていったと思う。翌年の二度目の
ときは電車が通っていて電車に乗った。入国審査を通ると、ボストン行きに乗り換えるのだ
が、出発ロビーまでかなり歩くことになる。日本式に矢印の書いた案内板がないかと上(天
上)の方を見るが、そのようなものは見当たらない。通りがかりの女性職員に訊いたら、ど
 うやら足元に引かれている何本かの線のうち、赤い線を辿って行くようにということらしい。
なおも訝しげにしていると見えたのか、いきなり「コレですよ!」とばかりに靴のつま先で
床をたたいた。彼女、手に何も持っていなかったが、「しとやかな日本女性なら足なんかで
教えたりしませんよ」と言いたかった。                      
 ボストン行きに乗り換えるには、出発ロビーで5時間待った。出発ロビー内を見て周る元
気もないし、ただぼんやりと椅子にかけて待っていた。そのうちに、何かが動いていると思
った瞬間、車椅子に乗った青年が何かを差し出した。反射的に受け取ったものは、ビニール
袋に入ったチャチなドライバーセットであった。彼はそのまま離れて行き、他の人にも同じ
ように渡している。一緒に渡された紙に書いてあるのを読むと5ドルで売って生計を立てて
いる。次に周ってきたときに払ってほしい。不要なら、そのときに返してくれ、というよう
なことである。何か意表を突かれたというか5ドルの寄付と思えばいいか、というような気
分で5ドルを払った。最近の100円ショップでももっとマシなものがあるのだが、コレが
私にとって初めてのアメリカでの買い物であった。2度目のときは、乗り換え時間が短くな
っていたためか、そのような“事件”はなかった。                 

 初めてシカゴから成田へ帰るとき、搭乗機は満席で機内持ち込み手荷物はバッグ一つに制
限された。搭乗手続きが済み、出発ゲートを通って機内に進み、席が落ち着いたところで搭
乗機が動き出した。ところが、滑走路の端について離陸体勢にはいったところで、嵐のため
に風が治まるまで待機するとのアナウンスがあった。結局、その体勢で5時間待った。搭乗
 するときも雨が降っていたと思うのだが、記憶はあいまいである。やっと離陸した飛行機は、
今度は給油のためにアンカレッジに着陸するというアナウンス。満席と大量の荷物で機体が
重過ぎるということらしい。それと、離陸体勢にはいって5時間も無駄に発電は続けていた
ことになる。アンカレッジでは、清掃員が乗り込んできて機内清掃とともに空き缶などのゴ
ミを持ち出した。乗客は席を立つことは許されなかった。アンカレッジの遠くの山々を窓越
しに見ただけである。ここでは1時間くらい留まっていた。             
 成田では、妻と娘がカレの運転で迎えに来ることになっていた。6時間も遅れての到着と
なり、随分イライラしていたらしい。私はカレとは初対面であった。         

 フライブルク(ドイツ)へは、KLMオランダ航空を使ったため、最初アムステルダムの
スキポール空港に降り立った。入国審査はシカゴでは一人ひとり間隔を置いていたのだが、
アムステルダムでは電車やバスの定期券を改札口で“拝見”するのと同じように、行列した
ままパスポートと航空券をチラッと見られただけだった。私としては、“記念になる”から
入国の証にスタンプだけは押してほしかった。                   
 ホテルの名はチューリップホテル。空港に年配の日本人男性がいて、ホテルのマイクロバ
スの乗り場を教えてくれた。バスを待っているとき、これからロンドンへとかローマへとい
う日本の若い男女がいっぱいいて、みな手軽に外国旅行してるのだなぁと関心した。  
 ホテルへ着いたときは何時だったのか。とにかく暑い日差しが照りつけている頃だった。
古い予定表を見ると、成田を11時50分に発って、アムステルダム到着は16時45分と
なっている。夏時間とすると実際は午後の3時45分で、日本時間では夜の11時45分の
はずであった。                                 
 フロントでチェックイン・シートに書き入れて、パスポートを預けて部屋のキーを受け取
った。同じくチェックインしようとしている中年の日本人女性から、「フロントの人、何と
言っているんですか?」と訊かれたけれど、「とにかく、この紙に住所と名前を書けば良い
ですよ」と振り切るように言って、部屋に入った。一刻も早く、シャワーを浴びて眠りたか
った。何時間眠ったのか、眼が覚めたときは何時だったのか。腕時計を見ても、時計は日本
時間のまま調整していない。午前なのか午後なのかも分からなかった。あの時はちょっと困
ったけれど、その対処方法は省略して、とにかく無事フランクフルト・フライブルクへと到
着した。                                    

 予定では、帰りもフランクフルトからスキポール空港にやって来て、成田行きの便に乗り
換えるはずであった。フランクフルト空港へはアムステルダム行きの便の出発予定時刻の8
時間も前に行って搭乗手続きをとった。出発まではかなりの時間があるので、空港ロビーを
歩き回っていた。そのうちに、どこからか歌声が聞こえてきた。声の方向へ歩いていくと、
ルフトハンザ航空のチェックインカウンターのところでオペラのアリアを歌っている女性が
いた。ロビー内に響き渡るソプラノである。思わず歌が終わったときは拍手をした。イタリ
アの有名な歌手らしかったのだが、私は知らない。それも“大物歌手”があんなところでア
カペラで歌うのかな? ルフトハンザ航空の職員が所望したのだろうか。搭乗まで時間のあ
る私にとっては良い時間つぶしではあった。ところが、折り返し便となるはずの飛行機が待
てど暮らせどやって来ない。そのとき、成田行きに乗り換える乗客は私のほかに3組いた。
その中の一人、商用で世界一周をしているというビジネスクラスの宝石商の男性が、「こう
いうときはちゃんとクレームをつけて自己主張しないと解決しませんよ」と言って、早々と
ルフトハンザに振り替えさせてレストランに移って行った。成田で更にマニラ行きに乗り換
えるという赤ちゃん連れのフィリピン女性はただ泣くばかり。もう一組は、日本人女性と片
言の日本語を話すドイツ人男性とのカップル。それでも、出発時刻を1時間も過ぎてから、
まもなく折り返し便が来るからと言って出発ゲートをくぐることが出来た。結局、小一時間
過ぎても来ないので、私の航空券は他の航空会社に振り替えできない割引航空券ということ
は承知の上で、女性職員に“Give me a Lufthansa tichket!”と“主張”した。これは、日
本語なら「ルフトハンザのチケットを寄越せ」ぐらいの表現なんだろうなと反省はしたが、
女性職員はムッとした表情で “We have no tichket.”と言い返された。それでも暫くする
と、私ともう一組の日本人・ドイツ人は名前がアナウンスされた。空港内で有効の食事券と
ルフトハンザの窓口で成田便のチケットの引換券を渡された。チケットを引き換えてレスト
ランに行くと、先の宝石商の男性が「やぁ、出てこられましたか!」と笑った。フィリピン
女性はどうなったか分からない。他にアムステルダムに行く乗客がいたのかどうかは不明で
あるが、あれは、たった6−7人しかいない乗客のためにKLMオランダ航空は迎えの飛行
機を飛ばさなかったのではないだろうか。                     
 かくて、アムステルダムでは4時間ほどの乗り換え時間があるので、アンネ・フランクの
家に行ってこようかな、と目論んでいたのに見事はずれてしまった。こんなことなら、フラ
ンクフルトから列車でアムステルダムに来る手もあったのではないか、と思った。結局は、
フランクフルトからルフトハンザの直行便で成田に帰ってくることになった。     


空港ロビーでオペラのアリアを歌う歌姫


                                    ――続く――

                                書き始め:2009/07/15頃