在京白堊三五会 海外見聞録(村野井徹夫)


岩手県立盛岡第一高等学校1960年卒在京同期会
在京白堊三五会・『海外見聞録』 by村野井徹夫

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『はじめに』

 この『海外見聞録』を書く前に、私はその“姉妹編”とでも言うべき『我が国際会議録』
と題した一文を書き上げた。それは、元々は海外見聞録として書き始めたものなのだが、私
の海外体験はわずか3回の、アメリカとドイツで開かれた国際会議で発表したことに関連し
て記すものであり、国際会議に参加する経緯(いきさつ)から述べようとすると、国内で開
催された国際会議についても記すことになり、私の意図する“見聞録”としては散漫になり
そうなために、まずは、『海外見聞録』とは切り離して、先の『我が国際会議録』として纏
めることにした。併せてお読みいただければ幸いである。              

 海外へ出かけるといえば、旅行代理店が組む“ツァー”を思い浮かべるところだが、私は
この種の外国旅行をしたことはなく、留学したこともない。私の海外体験といえば、大学に
勤めていたときのわずか3回の国際会議(1992年〜1994年)で論文を発表したこと
だけである。従って、ここで述べる“海外見聞録”は諸兄姉のような「新しい事業を海外で
立ち上げた」とか「販路を海外に広めた」というような景気のいい話とは全く違っている。
 上の一節は、先に述べた『我が国際会議録』の出だしの文章とほとんど同じである。その
3回の国際会議の開催場所だけ述べると、最初は、1992年のボストンのマサチューセッ
ツ工科大学(MIT)で、次いで1993年のロードアイランド州のニューポート、最後は
1994年のフライブルク(ドイツ)である。国際会議の内容については、“姉妹編”の方
をご覧戴くとして、これから記すことは、そのような国際会議出席に付随して発生したツー
リスト的な体験の記録である。                          
 私の海外体験というのは、アメリカとドイツに合計で4週間ほど滞在しただけなので、そ
のわずか4週間でもって“これがアメリカだ!”とか“これがドイツだ!”などというつも
りは毛頭ない。書く事柄も、必ずしも時系列ではない。               


『出発まで』

 旅行会社のツァーならば、個人で用意するものはパスポートと旅行費用だけで、あとは全
て旅行会社任せで済むのかもしれない。ところが、大学の場合、計画作りから航空券や宿泊
先の手配、その他なんでも自分でこなさなければならない。勿論、JTBや近畿日本ツーリ
ストに委ねることは可能ではあるが、国際会議の事務局が用意する宿泊先の利用とかを考慮
すると、自分で手続きをしたほうが手っ取り早い。航空券も研究室に季節ごとに送られてく
る旅行代理店のダイレクトメールの中で一番安いのを選んだ。どっち道、国際会議の日程は
数年前から決まっており、論文アブストラクトの採否は半年ほど前に通知されるので、採択
が決まってから計画を立てても十分に間に合うのだ。                
 手続きなど全てのことを自分でしたおかげで、いろいろなことが体験できた。国際会議の
会期中の宿泊のことは後で再び触れることにするが、その後の帰国するまでの予定に沿った
ホテル探しは現地に行って見つけられるかどうか自信がないので出来るだけ出発前に決めて
 おきたかった。最初のMITのときは、終わったらボストン美術館には是非行きたい。勿論、
旅行計画書にはボストン美術館に行くとは書けないけれど、交通事情も分からないので日程
は余裕をもってつくっておく必要があった。『地球の歩き方』というような旅行案内書に書
いてある日本なら素人下宿というか民宿のようなところ(Longwood Inn)に2泊したいと手
紙を書いたら、その予定で部屋を抑えておくから$100送れと返事が来た。これを信用し
 ないことには先に進めないとばかりに$100のトラベラーズチェックにサインして送った。
一泊$58.14(税込)だった。次のニューポートのときは資金に余裕があるのでできる
だけ多くの大学や研究機関を訪問することを計画した。結果的には、玉野市(岡山)で話し
たことのあるアリゾナ州立大学のドクター・スクロミーの訪問と従弟(中高後輩)がデトロ
イトにある日本企業の現地法人に勤めていたので、そこを“見学”することを計画した。デ
 トロイトのホテルは従弟に取ってもらった。アリゾナ州立大学に行った時も『地球の歩き方』
に書いてあるホテルに決めたのだが、どうやら東京にあるオフィスに電話をして予約したの
だと思う。TOLL FREE RESERVATIONSという明細書が残っていて、一泊$54.00と税金が
$4.89と記録されている。9%ほどの消費税だったらしい。           

 ボストンへの直行便が当時もあったのかどうか定かではないが、初めての渡航はノースウ
ェスト航空(NW)でシカゴで乗り換えるものであった。次のニューポート(RI)はニュ
ーヨークから行く人もいたけれど、前と同じNWを使うとボストンからバスでいくことにな
るので飛行機は同じくシカゴ・ボストンのコースであった。シカゴには大学のクラスメート
が在住しており、2度目のシカゴでは帰国前日に2泊したいので、“安くて安全なホテル”
を紹介してほしい。そして、暫くぶりで一献傾けたい旨、手紙を書いた。返事は、“安くて
安全なホテル”は郊外となってしまう。また、その日程では日本へ出張中で会えない。そこ
で空港内のヒルトンホテルなら安心だし、50%割引券を送る(贈る)から、シカゴ到着時
に会おうということになった。つまり、超一流ホテルに一泊分の料金で2泊できることにな
った。彼とは乗り換えの間の数時間を空港ロビーで会った。             

 フライブルク(ドイツ)へは、マイレージの関係でノースウェスト航空と提携しているK
LMオランダ航空を選んだ。ただし、フランクフルト直行ではなくアムステルダム・スキポ
ール空港で乗り換えるのだが一泊する必要がある。といっても、ホテル代は航空会社持ちで
ある。ルフトハンザなら同じ運賃でフランクフルト直行便となるのだが、アムステルダムに
一泊するのも一興、とばかりにそれに決めた。                   
 マイレージについては、初めて海外渡航するときまで知らなかったのだが、初めてボスト
ンに行った時、搭乗機内で入会手続きをとれば入会キャンペーンにより、そのときの旅行に
よるマイレージの他に5千マイルプレゼントするというのである。全部で何万マイルになれ
ば成田−アメリカ間の航空券がもらえるのか覚えていないけれど、確か、1回渡航しただけ
で、中国往復の航空券を貰うことができた。ただし、自分で使うことなく知人にあげた。3
度目のマイレージが付けば、今度こそ、成田−アメリカ間の航空券になったと思うけれど、
後で述べるように、帰りはルフトハンザに振り替えられたため、十分なマイレージとはなら
ず、貯めたマイレージは期限切れとなって失効してしまった。            


『往きと帰りの出来事』

 格安航空券の場合、名目上、何かのツァーに組み込まれているものらしい。初めての渡航
のときは送金したら書留便で送られてきたものは、航空券の引換券であった。出発当日、成
田の団体旅行カウンター付近に開設される“ツァーのデスク”で航空券を受け取るというの
は、ちょっとしたリスクであった。割引航空券―旅行代理店は格安航空券とは言わない―の
場合、払い戻しはできない、フライトの変更はできない、他の航空会社への振り替えはでき
ない、など多くの制約条件がついていた。                     
 空港使用料は、最近では航空券の代金と一緒に支払われるけれど、1992年当時は自動
券売機で購入する必要があった。大学では、帰国してから報告書と一緒にその空港使用料の
チケットを提出する必要があるので紛失しないようにという注意を受けた。実際に、失くし
 てしまって始末書を書かされたという話も聞いた。しかし、他所の大学の人に訊いて見ると、
どこの大学の人もそのようなもの求められたことなどない、ということだ。そのような証拠
 物件があろうと無かろうと、正規の空港使用料を払ったから出国・渡航ができたはずなのに、
証拠をもってこいだなんて変な仕組みになっていた。                

 私の乗った、成田発着の飛行機はアメリカとオランダ・ドイツの航空会社なのだが、日本
人の乗客が多いので、必ず一人は日本人客室乗務員(CA)がいた。しかも、シカゴでは搭
乗前の日本語のアナウンスもあった。                       
 初めての渡航は、成田発シカゴ乗換えボストン行きのノースウェスト航空だった。CAは
 14、5人いたのだろうか。全員同時に仕事をするのではなく、10何時間かの飛行なので、
すぐ休憩に入る人たちもいたようである。休憩と言っても、カーテンの内側で座っているだ
けみたいに見えた。アメリカ人CAは、みな若い人たちで、何か活き活きしていた。一方、
日本人CAはかなりの年配の人で落ち着いた感じである。CAの胸の名札をみるとLISA
だのMARYなどのファーストネームしか書いていない。日本人CAは苗字が書いてあった
ように思う。私は、その日本人客室乗務員を呼んで聞いてみた。名札のことではない。「あ
なた方客室乗務員は、往きと帰りでどちらが嬉しいですか?」 つまり、「他の客室乗務員
はこれから帰国することになるわけだけど、何かはしゃいでいるようにみえる。あなたにと
っては逆にアウェイなわけでちょっと緊張しているようにも見える。ホームとアウェイの違
いがあるのでしょうか?」というようなことを訊いた。彼女は、「客室乗務員としては往き
と帰りで勤務態度が変わるということはあってはならないことですけれど、気持ちの上では
そういうことがあるかもしれませんね。」と答えてくれた。何しろ、こちらは初の渡航で、
見るもの全てが珍しく何でも確かめたくなってしまう。               
 こうやって、まずはシカゴに向かった。出発のときに隣の乗客がアップグレードしてビジ
ネスクラスに移ったということで、元々空いていた席とあわせて三つ使えることになった。
横になっても良いというので、ラッキーとばかりに横になって眠ることが出来た。しかし、
結果的にはそれが災いしたと思う。眼が覚めたときに耳がおかしくなってしまった。ばっち
りと眠った間に、鼓膜がおかしくなってボワーンと妙な具合にしか聞こえない。座ったまま
でいれば、何度も眼が覚めて、そのときに自然と空気抜きができたのではないかと思った。
耳鳴りは一日以上治らなかった。                         

 このようなことで、初めて外国の地を踏んだのはシカゴということになる。飛行機を降り
て入国審査の建物までは、最初はバスに15分くらい乗っていったと思う。翌年の二度目の
ときは電車が通っていて電車に乗った。入国審査を通ると、ボストン行きに乗り換えるのだ
が、出発ロビーまでかなり歩くことになる。日本式に矢印の書いた案内板がないかと上(天
井)の方を見るが、そのようなものは見当たらない。通りがかりの女性職員に訊いたら、ど
 うやら足元に引かれている何本かの線のうち、赤い線を辿って行くようにということらしい。
なおも訝しげにしていると見えたのか、いきなり「コレですよ!」とばかりに靴のつま先で
床をたたいた。彼女、手に何も持っていなかったが、「しとやかな日本女性なら足なんかで
教えたりしませんよ」と言いたかった。                      
 ボストン行きに乗り換えるには、出発ロビーで5時間待った。出発ロビー内を見て周る元
気もないし、ただぼんやりと椅子にかけて待っていた。そのうちに、何かが動いていると思
った瞬間、車椅子に乗った青年が何かを差し出した。反射的に受け取ったものは、ビニール
袋に入ったチャチなドライバーセットであった。彼はそのまま離れて行き、他の人にも同じ
ように渡している。一緒に渡された紙に書いてあるのを読むと5ドルで売って生計を立てて
いる。次に周ってきたときに払ってほしい。不要なら、そのときに返してくれ、というよう
なことである。何か意表を突かれたというか5ドルの寄付と思えばいいか、というような気
分で5ドルを払った。最近の100円ショップでももっとマシなものがあるのだが、コレが
私にとって初めてのアメリカでの買い物であった。2度目のときは、乗り換え時間が短くな
っていたためか、そのような“事件”はなかった。                 

 初めてシカゴから成田へ帰るとき、搭乗機は満席で機内持ち込み手荷物はバッグ一つに制
限された。搭乗手続きが済み、出発ゲートを通って機内に進み、席が落ち着いたところで搭
乗機が動き出した。ところが、滑走路の端について離陸体勢にはいったところで、嵐のため
に風が治まるまで待機するとのアナウンスがあった。結局、その体勢で5時間待った。搭乗
 するときも雨が降っていたと思うのだが、記憶はあいまいである。やっと離陸した飛行機は、
今度は給油のためにアンカレッジに着陸するというアナウンス。満席と大量の荷物で機体が
重過ぎるということらしい。それと、離陸体勢にはいって5時間も無駄に発電は続けていた
ことになる。アンカレッジでは、清掃員が乗り込んできて機内清掃とともに空き缶などのゴ
ミを持ち出した。乗客は席を立つことは許されなかった。アンカレッジの遠くの山々を窓越
しに見ただけである。ここでは1時間くらい留まっていた。             
 成田では、妻と娘がカレの運転で迎えに来ることになっていた。6時間も遅れての到着と
なり、随分イライラしていたらしい。私はカレとは初対面であった。         

 フライブルク(ドイツ)へは、KLMオランダ航空を使ったため、最初アムステルダムの
スキポール空港に降り立った。入国審査はシカゴでは一人ひとり間隔を置いていたのだが、
アムステルダムでは電車やバスの定期券を改札口で“拝見”するのと同じように、行列した
ままパスポートと航空券をチラッと見られただけだった。私としては、“記念になる”から
入国の証にスタンプだけは押してほしかった。                   
 ホテルの名はチューリップホテル。空港に年配の日本人男性がいて、ホテルのマイクロバ
スの乗り場を教えてくれた。バスを待っているとき、これからロンドンへとかローマへとい
う日本の若い男女がいっぱいいて、みな手軽に外国旅行してるのだなぁと関心した。  
 ホテルへ着いたときは何時だったのか。とにかく暑い日差しが照りつけている頃だった。
古い予定表を見ると、成田を11時50分に発って、アムステルダム到着は16時45分と
なっている。夏時間とすると実際は午後の3時45分で、日本時間では夜の11時45分の
はずであった。                                 
 フロントでチェックイン・シートに書き入れて、パスポートを預けて部屋のキーを受け取
った。同じくチェックインしようとしている中年の日本人女性から、「フロントの人、何と
言っているんですか?」と訊かれたけれど、「とにかく、この紙に住所と名前を書けば良い
ですよ」と振り切るように言って、部屋に入った。一刻も早く、シャワーを浴びて眠りたか
った。何時間眠ったのか、眼が覚めたときは何時だったのか。腕時計を見ても、時計は日本
時間のまま調整していない。午前なのか午後なのかも分からなかった。あの時はちょっと困
ったけれど、その対処方法は省略して、とにかく無事フランクフルト・フライブルクへと到
着した。                                    

 予定では、帰りもフランクフルトからスキポール空港にやって来て、成田行きの便に乗り
換えるはずであった。フランクフルト空港へはアムステルダム行きの便の出発予定時刻の8
時間も前に行って搭乗手続きをとった。出発まではかなりの時間があるので、空港ロビーを
歩き回っていた。そのうちに、どこからか歌声が聞こえてきた。声の方向へ歩いていくと、
ルフトハンザ航空のチェックインカウンターのところでオペラのアリアを歌っている女性が
いた。ロビー内に響き渡るソプラノである。思わず歌が終わったときは拍手をした。イタリ
アの有名な歌手らしかったのだが、私は知らない。それも“大物歌手”があんなところでア
カペラで歌うのかな? ルフトハンザ航空の職員が所望したのだろうか。搭乗まで時間のあ
る私にとっては良い時間つぶしではあった。ところが、折り返し便となるはずの飛行機が待
てど暮らせどやって来ない。そのとき、成田行きに乗り換える乗客は私のほかに3組いた。
その中の一人、商用で世界一周をしているというビジネスクラスの宝石商の男性が、「こう
いうときはちゃんとクレームをつけて自己主張しないと解決しませんよ」と言って、早々と
ルフトハンザに振り替えさせてレストランに移って行った。成田で更にマニラ行きに乗り換
えるという赤ちゃん連れのフィリピン女性はただ泣くばかり。もう一組は、日本人女性と片
言の日本語を話すドイツ人男性とのカップル。それでも、出発時刻を1時間も過ぎてから、
まもなく折り返し便が来るからと言って出発ゲートをくぐることが出来た。結局、小一時間
過ぎても来ないので、私の航空券は他の航空会社に振り替えできない割引航空券ということ
は承知の上で、女性職員に“Give me a Lufthansa tichket!”と“主張”した。これは、日
本語なら「ルフトハンザのチケットを寄越せ」ぐらいの表現なんだろうなと反省はしたが、
女性職員はムッとした表情で “We have no tichket.”と言い返された。それでも暫くする
と、私ともう一組の日本人・ドイツ人は名前がアナウンスされた。空港内で有効の食事券と
ルフトハンザの窓口で成田便のチケットの引換券を渡された。チケットを引き換えてレスト
ランに行くと、先の宝石商の男性が「やぁ、出てこられましたか!」と笑った。フィリピン
女性はどうなったか分からない。他にアムステルダムに行く乗客がいたのかどうかは不明で
あるが、あれは、たった6−7人しかいない乗客のためにKLMオランダ航空は迎えの飛行
機を飛ばさなかったのではないだろうか。                     
 かくて、アムステルダムでは4時間ほどの乗り換え時間があるので、アンネ・フランクの
家に行ってこようかな、と目論んでいたのに見事はずれてしまった。こんなことなら、フラ
ンクフルトから列車でアムステルダムに来る手もあったのではないか、と思った。結局は、
フランクフルトからルフトハンザの直行便で成田に帰ってくることになった。     


空港ロビーでオペラのアリアを歌う歌姫


『宿泊のこと』

 私の渡航目的は国際会議で発表することである。その会期中の宿泊は事務局で斡旋してく
れるホテルに泊まるのが安心なのでそこに決めた。最初は、MITの寄宿舎、次は国際会議
会場のホテル、そしてフライブルク(ドイツ)ではドイツの旅行代理店に申し込む形で一般
のホテルに宿泊した。                              

 MITは、私などはボストンにあるとばっかり思っていたが、隣りのケンブリッジが正し
い所在地である。よそ者からみれば、ボストンとケンブリッジは路面電車の線路も繋がって
おり、私の行動範囲から考えると一つの街にしか見えない。それに、Call for Papers (論
文の募集案内)自体の記述がボストンであった。MITの寄宿舎は、広いキャンパスの中に
いくつかあるらしい。                              
 MITは空港から5マイルの距離にあるが、タクシーで$15ほどということで、空港を
降りてすぐタクシーに乗って寄宿舎をめざした。5マイルというと8キロ、かれこれ20年
近く前ということになるが、その距離を1500円ほどの料金とは、日本のタクシー料金に
比べてかなり安い感じを受けた。運転手に寄宿舎の名前を書いたメモを見せたけれど、キャ
ンパス内の場所までは分からないらしかった。運転手は、車を降りて通りがかりの人に聞い
てやっと目指す寄宿舎に着いた。私は、案内図をバッグの中に入れておいたのだが、バッグ
はあいにくとタクシーのトランクの中であった。ちなみに、話はそれるけれどアメリカでタ
クシーに乗るとき、運転手は降りてきてトランクを開けて荷物を入れてくれる。目的地に到
着したときも、必ずトランクを開けて荷物を降ろしてくれた。その上、必ず客の降りるドア
が、目的地の玄関側になるように着けてくれた。片側1車線の狭い道を反対側から通ってき
てもハンドルを何回か切って玄関側に着けてくれた。                
 目的の寄宿舎(の傍)に着いて、いざ入ろうとしたものの、入り口が分からない。素通し
ガラスのドアらしいものはあるのだがドアノブが付いていない。中に人がいるのは見えるの
だが誰も振り向かない・・・ここはドアじゃないのか? どこか入れるところはないかとバ
ッグを引き摺りながら、その建物の周りを何回かめぐった。30分位してだったのか、その
ドアらしいと思ったところが開いて何人かの人が出てきたので、やっと中に入ることが出来
た。後からよく見たら、目立たないところに電話機があった。黒電話に慣れた身には壁掛け
式電話機なんて目に入らなかった。電話機はフロントに繋がっていて、中から開けてもらう
ようになっていた。寄宿舎といっても寮の管理人などではなくホテルのフロントと同じとし
か言えない。ただ、ホテルのような客扱いとは違って、アルバイト学生かと思うような何か
横柄な東南アジア系のオネエチャンがひとり座っていて、チェックイン用紙に住所氏名を書
かされた。手続きが終わると、鍵を二つ渡された。一つは、建物の玄関の鍵、もう一つは部
屋の鍵だが、ブロックの鍵でもあった。つまり、一つの寄宿舎の建物の中はいくつかのブロ
ックに分かれていて、他のブロックには行けないようになっていた。10畳以上はある部屋
にベッドと空っぽのタンス、机が一つ、内線電話が載っていた。ロングディスタンスにかけ
るにはどうのこうのという説明書きもあったけれど、家への電話はどこか公衆電話を使うこ
とにしよう。複数のトイレとシャワーは部屋のすぐ外、共同使用だった。シャワーブースに
は脱衣所があるわけでもなく、誰も入っている気配のない折をねらって、部屋でバスタオル
を巻いて行った。これで、朝昼の2食がついて1泊$55であった。ただし、食事は生協で
摂ったはずだが、記憶がない。一方、ハイアットホテルは一泊$122、こちらは朝食だけ
だったに違いない。                               

 MITの国際会議の後で、先に述べたロングウッド・インに2泊したのだが、ここもドア
ノブがなく、中にいる人に合図をして中に入れてもらった。次の、ニューポートのときも、
このロングウッド・インに一泊してからニューポートに向かい、ニューポートからの帰りに
今度は3泊した。2度目のときは、ボストンからアリゾナス州立大学のあるフェニックスに
行くことにしていた。そのフライトは午前5時頃出発なので、前日にタクシー会社に電話し
て午前3時半に迎えに来てくれるように予約した。そこの電話は、外線からかかってきた電
話は気が付いた人が受けて、部屋に転送してもらうようになっていた。だから、部屋番号と
名前を書いた紙を貼っておく必要があった。外へ掛けるには電話室の公衆電話である。雇わ
れ支配人は5時には帰宅してオフィスは空っぽになってしまった。          
 宿のアーリーチェックアウトは、指定の場所にキーを置いて出るか、外へ出てからドアの
郵便受けにスリップさせるのである。ぎりぎりまで中で待機することにしていたのだが、や
はりタクシー待ちと思しきご婦人が外に立っているので、忘れ物がないことを確認して外へ
出てからキーをスリップさせた。もう中へは入れない。               
 外にいたご婦人は、やはり空港へ行くためにタクシーを呼んでいた。こんな早朝に、見ず
知らずの“外国人”に危機感を抱かれてはたまらないので、声をかけたという次第である。
ご一緒できれば安上がりだが、あちらさんも予約。私の頼んだほうが先に来た。    
 タクシーに乗って、運転手に「これからアリゾナ州立大学のあるフェニックス行の飛行機
に乗るんです」というようなことを行ったら、「オー、フィーニクス」と言われた。日本で
は旅行案内書にも地図にも、片仮名でフェニックスと書かれているけれど Phoenixはフィー
ニックスと発音するのか。他にも、泊まるホテルのあるTempeはテンピーだった。 
 タクシー料金は、深夜料金(早朝料金?)になるのかどうか、17ドルほどだったと思う
けれど、20ドルのトラベラーズチェックにサインして進呈した。Take it eighteen! と言
えば2ドルのお釣りをくれるということを知っていたが、“釣りはいらないよ”とはどう言
えばいいのか分からなかった。咄嗟にTeke it all!と言ったら、Oh, thank you!ということ
だった。                                    
 早朝の空港ロビーは、照明が少し暗くて華やかな感じがしなかった。カウンタの職員は、
かなり年配の女性で、制服の着こなしも悪く、その辺にいるオバチャンみたいに見えた。

 ニューポートのホテルは、国際会議の会場である。ツインの部屋を山梨大学の先生と相部
屋で申し込んだのだが、申し込んでから一ヵ月たっても予約できたかどうかの連絡が来なく
て困ってしまった。ファックスも送ったがなしのつぶてだった。国際電話など、特別の場合
でもないと大学ではかけられない時代で、3分で何千円かする電話を自宅からする気もなか
った。そこで、従弟に確認してくれるようにファックスを送った。その結果は、ちゃんとリ
ザーブされているというファックスが返ってきた。ルームチャージはひとり$62.50だ
った。日本円で5000円ちょっとというところ。そのとき初めて、期限後は無効になると
 いうカードキーを使った。カードキーは相部屋でも一枚ずつもつことができて便利であった。

 フライブルク(ドイツ)では、事務局から送られてきた旅行代理店宛ての申込書でホテル
 と鉄道のチケットを手配した。国際会議の後は、フランクフルトに2泊する予定にしており、
 『地球の歩き方』には空港の観光案内所で手配するのが安心、などと書いてあった。そこで、
空港を降りてまずは観光案内所に行ってみた。1週間後に2泊と言ったら、その日に来て申
し込めばいい。それで“No problem!” と断られてしまった。確かに、国際会議が終わって
再び訪れたときに、手ごろなホテルをすぐ紹介してもらえた。            
 フライブルクはドイツの南部、すぐスイスとの国境を越えてしまいそうなところにあり、
緯度で言えば北海道の稚内よりも北に位置している。行った時期は7月の末。北海道でも札
幌あたりは真夏日になる日がないわけではないが、北の方になると夏でもストーブを焚くこ
とがあるときいたことがある。それが、ドイツはあの年だけがそうだったのか、暑かった。
フライブルクのホテルでは窓を開けっ放しにして寝床に就いた。冷蔵庫もなかったかもしれ
ない。ビールを冷やすのに、洗面台に水を貯め、水道の栓を緩めて水がちょろちょろ流れる
ようにしておいた覚えがある。その水道の水は口に含んでみると渋みの感じられる硬水?だ
た。                                      
 海外へ何度も行き、海外留学もした、親しくしている先生から教えてもらったことに、海
外へ出かけるときの携行品として、次のものを入れるのがよい。つまり、小さい袋に入った
洗剤、折りたたみ式の衣文掛け、それと吸盤つきの洗濯紐、である。こうすれば、下着は2
組も余分に持てば、毎日洗濯してバスルームに吊るしておけば、乾いてしまうというわけで
ある。日本でも最近はコインランドリーが珍しくはないが、見知らぬ土地それも海外で、コ
インランドリーがすぐ見つかるわけでもないというわけで、知人の教えを実践してきた。と
ころが、フランクフルトのホテルのバスルームでは、洗濯紐の吸盤が効く壁ではなくて、吸
引力が弱くて洗濯物が何度も落下した。                      


『食事のこと』

 アメリカでもドイツでも普通のホテルならば、簡単な朝食だけは摂れるところが多いよう
だ。大抵、パンとミルク・コーヒーという程度でセルフサービスである。ところが、フライ
ブルクのホテルではセルフサービスではなく、パンを籠に盛ってウェイターが持ってきてく
れた。一人分でも持て余すのに、壁際のテーブルにはもっと山と積んでいるのである。残す
とどう始末するのか分からないので、昼のためにポケットに入れてきた。昼は、学生食堂の
食券を買っておいて、学生の行列に並んだ。A定食・B定食というようにメニューは多くな
いので困ることはなかった。天気がよければ外の芝生に座って食べたりした。近くの学生た
ちに“シュプレッヘン・ズィー・エングリッシュ?”とドイツ語で語りかけた。後は英語で
何とか話が出来た。MITでは、前に書いたように朝昼2食付の寄宿舎だった。    
 このように、国際会議中の朝と昼は何とかなるし、夜もカンファレンスディナーなどの時
はバイキング方式で出ているものから選んで食べるので、何も困ることはなかった。ところ
が、それ以外のレストランでの食事は困ることが多かった。日本のレストランなら、外に見
本があるのだが、アメリカやドイツではそういうものがなかった。メニューを見てもどうい
う料理なのか見当が付かない。説明を聞いてもさっぱり分からなかった。どうしたか? パ
ンとバターだけは自由に食べられるようなので、あとは当てずっぽうだったと思う。  
 MITの生協だったか、食堂でこれも当てずっぽうで食券を買ってカウンターに持って行
った。出来上がるとアナウンスして呼んでくれるらしかった。周りの様子を見ると何か数字
のアナウンスで受け取っていることに気がついた。隣に座った年配の女性が私が手にしてい
るものを指差していた。あれはレシートだったのだろうか、それとも食券と引き換えに渡さ
 れたものだったのだろうか。その手にしたものの4桁?の数字がアナウンスされるのである。
そこで、私は番号を聞き逃すまいと聞き耳を立てた。                

 ボストンで泊まったロングウッド・インは、ホテルと違ってベッドとバスだけである。私
は、調理する必要のない食料品を近くのスーパーマーケットで買い込んできて、部屋で食べ
た。1階には共同で使える大きな冷蔵庫があって、日付と名前を書いて保管できるようにな
っていた。コイン式の洗濯機もあったが、それは使ったことはない。食料品と一緒にビール
を買ったのだが、酒類の売り場は店の奥まったところ目立たないところにあった。その売り
場もドアこそないが、入り口が狭い。ビールは日本のような大壜はなく、必ず300ml位
の小壜で1ドルだった。                             
 このロングウッド・インでは毎日掃除とベッドメーキングをしてくれるのだが、ある時ビ
ールの空き瓶をサイドテーブルの上に放置したら、部屋はきれいになっていたが空き瓶はそ
のまま残っていた。次の日は屑入れに入れたら、帰ってきたときは無くなっていた。ビール
の空き瓶も金目のものなのである。どこかに持っていけば“売れるもの”なので、勝手に処
分はしなかったのだ。ペットボトルにしても、洗浄して再利用するのだそうで、ホームレス
らしい男が空のペットボトルを漁っているのを何度か見かけた。           
 フランクフルトに滞在したときもホテルの食事は朝だけで、スーパーマーケットでパンや
果物を買ってきて食べた。ソーセージも買ったけれど、やはり調理しないとダメかなと思っ
て一口でやめてしまった。アメリカもドイツも果物が豊富で安かったように思う。どこの町
だったのかサクランボを1ドルで買ったら、二度に分けて食べるほど量が多かった。どこに
行っても、日本ではトンと廃れてしまった量り売りだった。果物でも何でも口に入れていれ
ば、飢え死にすることはあるまいと思いながら旅行した。              

 唯一、これを食べようと思って食べたものはロブスターである。ボストンでも評判のレス
トランを目指していった。一つだけ心配なのはどのサイズを注文すればよいのかが問題であ
った。入り口に四通りか五通りの重さと値段が書いてあったのだ。多分、一番大きいやつで
も大丈夫とは思ったが、中くらいの重さのものを注文したと思う。何ポンドであったかは覚
えていない。そのほかに無難なところでピラフを注文した。             
 茹でたてのロブスターにバターをつけて食べるのが普通らしい。醤油も良く合う。別にソ
イソースを頼んだわけではなく、成田を飛び立つときに食べた寿司についてきた醤油をウェ
ストポーチに入れておいた。後で知ったことだが、このロブスターは活きたままお土産にで
きるものらしい。生き物の輸出なんて税関を通すのが難しいのではと思っていたが、指定の
レストランとか店で頼めば簡単らしい。                      
 レストランのウェイターやウェイトレスという人たちは、客がくれるチップが大きな収入
源ということだ。こういうレストランでチップを払うというのは慣れないものには苦手であ
る。それが慣れているはずのアチラの人たちも必ずしも受け入れていないのかもしれない。
隣りのテーブルの老婦人が釣銭とチップのことでウェイターと揉めているように見えた。釣
銭は釣銭として端数まで受け取って、チップは別に払うものなのかもしれない。ウェイター
が何か言いながら“釣銭?”をテーブルの上に叩きつけるようにしてしているのを見た。


  Longwood Inn     観光バス:15分毎に来るので乗り降り自由。運転手が振り向いたり
                   しながら説明。降りるときはチップを。       



『公衆電話のできごと』

 2009年の世の中では、国によっては今使っている携帯電話がそのまま使えるけれど、
1990年代の初めにはアメリカやドイツから日本に電話するのは、一苦労だった。空港に
ある公衆電話なら、クレジットカードを使えるものもあったが、大抵はコインを入れる方式
である。ドイツでは6DMだったか12DMのプリペイドカードを郵便局で買った。日本に
電話したらすぐになくなった。                          
 どこでも、街中(まちなか)で公衆電話を見かけることはあまりなかったのだが、ある日
ボストンのどこかの通りで公衆電話がいくつか並んでいるのを見つけ、盛岡に電話をかける
 ことにした。実は、電話のことで兄とある実験をすることを約束していたのだ。それは、5、
4、3・・とカウントダウンするから、聞こえる声に合わせてカウントダウンしてみるよう
にというものであった。MITのキャンパスではダイアル即時通話で入れたコインの秒数だ
け通話できたのだが、その時の公衆電話はコイン式ではあるけれど、交換手が繋ぐ方式のも
のだった。番号を告げ料金も入れて通話した。実験は、思っていた通り兄の声は0点何秒か
遅れるのである。兄がカウントダウンする声に合わせて私もカウントダウンして聞かせた。
電磁波の速度は1秒間に30万kmなのだから、往復では3万kmの距離の通信の遅れなら
0.1秒なわけで、それを十分認識することができた。というわけで実験は大成功だった。
 ところが、通話が終わって受話器を置いた途端にベルが鳴った。受話器を上げるとクォー
ターを1枚入れるようにというオペレーターの声が聞こえた。1通話3分の電話だったと思
うのだが、不足分があるとは思わなかった。言われるままに25セントのコインを入れた。
後で、あのときは持っていたからいいが、もし"I've no coin." と言ったらどうなったのだ
ろう、と考えてしまった。受話器もとらずに“逃げて”しまったらどうなったのか誰に聞い
ても分からなかった。未だに謎である。                      


『お金の問題』

 ここの話題は通貨とか流通の話ではない。現金の扱い方、あるいは現金をやりとりする場
所での話である。私が国際会議に行ったときは、参加費や各種イベントの費用、宿泊費など
は予め銀行送金していたから、ほとんど問題はないのだが、参加受付の場所で現金を扱って
いる場面もあった。日本の学会の講演会などでも、参加登録や予稿集の販売など公衆の面前
 で現金を扱うことは多い。初日など何百人もの人と平気で現金のやり取りをしているけれど、
警備員など配置していることはない。MITに行ったとき、受付のまわりに拳銃を腰に下げ
たキャンパスポリースが二人いて、“さすがアメリカ!”と妙な感心をした。ポリースとい
 うけれど、警察権がある人なのか単なるガードマンなのかは分からない。男性が多かったが、
女性の場合もあった。                              
 ニューポートのときは、クロークルームの中で女性が一人で受付をしており、参加者はカ
ウンターに行列をつくっていた。その受付の女性がコーヒーを啜りながら、ひとりひとりの
書類を中に持ち込んでは確認し、いろいろな費用の精算をするのである。もし、クロークル
 ームに押し入ろうとしたら、高いカウンターを乗り越えなければならないようになっていた。
 何も、国際会議の受付だけではなく、現金を扱う場所は“襲撃しにくい”構造になってい
た。生協やスーパーマーケットのレジは一段高いところにあり、カウンタも私の胸の高さ位
あって、つり銭はカウンタ上に投げつけるようにして寄越した。銀行にしても、日本の銀行
は広々としたオフィスで、客と行員を遮るものはあまり高くもないカウンタだけである。ド
イツで銀行とは違うかもしれないが、両替所というようなところに行ったら、駅の出札窓口
のような手元しか開いていない小さな窓口で、周りは鉄格子であった。相手の顔も見えなか
った。MITの建物の中には、両替できる銀行があった。そこは厚いガラス張りの5、6平
方メートルの部屋で時間になるまで人はいないし、窓口は厳重に閉まっていた。日本なら、
よく潜り戸があったりするのだが、どこから係員は入るのだろうと考えてしまった。刻限に
近くなった頃、気がつくと中に人がいた。どうやら地下に通じるドアが机の下あたりにあっ
たらしい。窓口の仕切りが取り除かれたので、電話を掛けるために10ドルのトラベラーズ
チェックをクォーターに換えてほしいということを言ったら、MITの何なんだというよう
なことを訊いているみたいなので、国際会議に参加していると答えた。そこはMITの関係
者しか利用できない施設だったのかもしれない。最後は、パスポートを見せろといわれて見
せたら何とか両替してくれた。                          
 こうやって見ると、日本は無防備ではあるけれど、平穏に暮らせる安全な国なんだなぁと
思ったものだ。                                 


『レストルームの話』

 人間、誰でも“自然の呼び声”に応じて、“出す”ことになる。そのときに必要な場所が
トイレということになる。時には個室に用事があるわけで、MITのトイレの個室にはいっ
て驚いた。便座の高さが高いのはこちらの脚が短い所為と諦めることにするが、隣りの個室
との壁が“意図的に不完全”なのである。つまり個室の四隅は縦に幅5センチ位の隙間が開
いているのだ。更に、ドアも壁の下も30センチ位は空いており、上部も背の高い人なら頭
が出てしまうほどの高さなのだ。つまり、隣りに入っている人の様子が分かるのだ。受験時
代、岩田一男の参考書に、個室に“入ってます!”は"Someone, in!"と言うのだと書いてあ
ったが、ノックするまでもなく誰か入っているのかどうか一目瞭然なのだ。兎に角落ち着い
て用が足せない構造になっていた。                        
 ケンブリッジには、MITのほかにハーヴァード大学がある。こんな有力大学が二つもあ
って、折角近くに来たのだからと思って、どういうところか雰囲気だけでも味わってみよう
という気になった。樹々の間に創立者の銅像があったりする中に、何かのイベントがあった
のか、あちこちでゴム風船が風に吹かれていた。そのうちに“用事を思い出して”建物の中
に入ってその場所を探した。やっと見つけた“その場所”はMITよりも更に驚いた。個室
のドアがないのである。用事も果たさずに飛び出してきた。             
 今もそのような状態であるかどうかは知らないけれど、覗こうと思えば覗ける“個室”と
いうのは、“安全上”必要なことなんだろうな、と思っている。それにしても発展途上国な
らいざしらず、ハーヴァードの全面開扉は一体何なんだろう。同時多発テロの7、8年前の
ことであった。                                 

 フライブルクの公衆トイレには、“ゴム製品”の自動販売機が備えられていて驚いた。エ
イズ予防に効果があるこの製品を薬局で店員に気を使いながら買うよりも、自動販売機の方
がいいか! それにしても、公衆トイレとはなぁ。尤も、ドイツの薬局でコレが売られてい
るのかどうかは知らない。                            

 安全の話のついでに、ボストンの空港の国内便の搭乗ゲートについて記しておきたい。日
本なら羽田空港にしても出発ゲートを通ったら、まずは後戻りはできないし、見送りの人は
出発ゲートを通ることができない。ところがボストンでは、搭乗待合室と一般のロビーとの
境は簡単にロープで仕切ってあっただけだったのか、見送りの人でも金属探知機を通って搭
乗待合室まで行けるようになっていた。乗客でも一般のロビーの方に戻ったりすると、もう
一度金属探知機のゲートを通れば良いだけのことだった。同時多発テロが起きてからは、そ
のようなゆるい規制ではなくなっているのかもしれない。              


『鉄道の話』

 フライブルクに行くには、フランクフルト空港からドイツ国鉄でフランクフルト中央駅に
に行き、そこから南へマンハイムへ向かい、マンハイムでベルン(スイス)行きに乗り換え
て行った。鉄道の駅には改札口などなく、見送りなど誰でも列車の傍に行くことが出来る。
 車が傍まで行けるかどうかは知らないが、自転車のまま乗り込む人はいた。『地球の歩き方』
には、乗車すると車掌が周ってきたときにチケットを持っていないと驚くほどの罰金を取ら
れるということが書いてあった。だが、往きも帰りも一度も“車掌”は来なかった。  
 中央駅までは10分の距離なのだが、私は中央駅行きのホームを確かめてから、物珍しく
て空港駅構内をあちこち歩いていた。壁の張り紙を見ていたら、チケットの買い方が分から
なくて困っている人と思われたらしく、一人の男性が声を掛けてきた。チケットは持ってい
ることを示したら、“なーんだ”という表情で「それならこっちへ」とばかりに先ほど確か
めたばかりの中央駅行のホームへ連れて行ってくれた。               
 フランクフルト中央駅は大きなターミナル駅である。ここでも構内を歩き回った。「切符
売り場(出札口)の窓口は中が見えないなぁ。実際に買うとしたら(相手の)表情が見えな
くて困るなぁ」とか「オヤ? 行き先別なのかな?」などと思った。ホームへ入ってきた列
車は全部ここが行き止まり。出発するときは、折り返す形で出てゆくことになる。そのよう
 なホームがいくつもあって、壮観である。ミュンヘン行き、アムステルダム行きなどを見た。
パリ行きもあったかな。「へー! これに乗ればすぐ隣の国か。」          

 マンハイムへは指定席、乗り換え列車は特急コンパートメントを取っていた。指定席と言
っても空いているときは誰でも座れるのだそうだ。本当の空席なのか予約されているのかは
網棚のところに名札が付いていて分かることになっていた。始発駅で名札を付けるらしいの
だが、かなりの手間がかかる作業に違いない。今でも手作業で名札付けをしているのだろう
か。座席にディスプレイを付ける様な改良がされていれば、簡単な話だけどサテ。   


ドイツ国鉄フランクフルト中央駅
   駅舎の内側           ホームの手前(商店がある)   ホーム(誰でも列車の傍に行ける)





『アリゾナ州立大学訪問』

 U−Y−93での発表の後ボストンに立ち寄り、ボストンからフェニックスに飛びアリゾ
ナ州立大学(ASU)を訪問した。かねて手紙でコンタクトをとっていたドクター・スクロ
ミーの研究室を見学するためである。国際会議の行われたニューポートはロードアイランド
洲にあって、合衆国の北東のはずれにあるのに対し、アリゾナ州は南西部に位置している。
ニューポートでは上着を着てちょうど良かったのに対し、9月のフェニックスは最高気温が
華氏100度(37.8℃)を超える真夏であった。                
 ホテルは『地球の歩き方』で見つけたラ・キンタ・モーター・インというところに予約し
ていた。しかし、シャトルバスがあると本には書いてあるのだが、どこに行けばいいのかさ
っぱり分からない上に案内所も見当たらなかった。他の客は他のホテルの名のついた車に乗
って次々といなくなった。タクシーやバスの公共交通機関も見当たらない。地図で見ると―
といっても簡単な案内図なのだが―ホテルは空港から近いところにあるらしいのだが、人が
通れるような道路は見当たらなかった。結局は、ホテルに電話を掛けて迎えに来てもらうこ
とにした。今、改めて地図検索してみると空港のはずれから2−3km離れたところにホテ
ルがある。                                   
 チェックインして最初にしたことは、翌日の訪問のための交通機関の下見を兼ねて周辺の
探索である。ホテルのすぐ近くの広い道に出ればASUまで一本道、バス停もある。だが、
路線もわからないので歩いてみることにした。他に歩いている人もいないので、ホテルのフ
ロントでもっと詳しく聞いてくればよかった。その道路は片側2車線、両側の歩道も十分に
広くとってあった。道路沿いの建物はといえば、歩道から更に駐車場やらを挟んで奥まった
ところにあって、人の気配もしなかった。かなり歩いたところにマーケットがあった。「帰
りはここで買い物をしよう!」。                         
 多少の起伏はあったかもしれないが、とにかくまっすぐ伸びている道路であった。今でこ
そこの辺の地図もインタネットで簡単に調べられるけれど、その時はドクター・スクロミー
がファックスしてくれた案内図だけが頼りであった。今、グーグルで見るとフェニックス周
辺の道路は正確に東西南北に走っており、空港の滑走路は東西に伸びているのがわかる。私
が歩いている間、何度もすぐ近くを旅客機が離着陸するのに遭遇した。飛行場の滑走路と平
行な道路だったので、ASUに向かって真東に歩いたことになる。結局、1時間ほどまっす
すぐ歩いて行き、大きな交差点に到達した。そのあたりに来ると人通りも出てきた。その交
差点の手前あたりで、後ろから来たオープンカーが私のところで止まった。運転席から若者
二人が“乗れよ!”か“乗せてやるぜ!”の仕草をしていた。どうみても、“どちらに?”
という雰囲気ではない。目的地の近くにいることは明らかなので何といったか覚えてはいな
いが、断った。更に歩いて行くと、何か小さなビラを広げて立っている人がいるので近づい
てみた。その日の夜のASUのフットボールのチケットを求めている人だった。    
 ASUのキャンパスはフェンスがあるわけでもない。いつの間にやらキャンパス内に入っ
ていたらしい。今歩いてきた道をバスが来て、その交差点で曲がって止まった。そうか、バ
スで来ればあそこで降りればいいのか!                      

 翌日、ホテルの外で何かブォーン、ブォーンという音がしていて眼が覚めた。窓から覗い
てみると駐車場か何かを清掃している音だった。背中に何か器械を背負って手に持ったホー
スでゴミを吹き寄せている。要するに大きなブロアーである。ゴミは箒で掃くか掃除機で吸
い取るかするしかしたことがないので、反対に風を送って吹き寄せるという発想はなかなか
浮かばないので、“ヘェー!”てなものであった。                 
 今度はバスの時刻をみて、昨日のバス停までバスで行った。1ドルだった。運転手が月日
に鋏を入れる“切符”だった。バスの前面には自転車が1台取り付けてあったが、途中で乗
客がひとり降りて、その自転車をはずして乗っていった。簡単に着脱できるようになってい
るらしかった。別に料金を払うのかどうかはわからないが、日本では許可されないと思った
ことである。                                  
 今日は“公式訪問”というつもりでネクタイを締め、上着を着ていった。工学研究センタ
ーという建物内の部屋であった。一度通りがかりの人に聞いたものの広いキャンパスの中で
も割と簡単に目的の建物に行き着くことができた。日本の大学の学部・学科のような事務室
 らしいものは見当たらないが、ガラス張りの中のひとりの年配女性に案内を請うことにした。
 来意を告げると、ドクター・スクロミーの部屋まで連れて行ってくれたのだが、廊下の幅
の狭いこと! 二人並んで歩くのがやっとの幅では、女性の後ろをついていくだけである。
日本の大学ならば、廊下の幅も規制されているはずである。その日も、100Fを超える暑
さなので、その女性は後ろを振り向いて「暑くはないですか」というように言ってくれた。
 「ヴェリー ホット!」とは言ったけれど、汗が気になるほどではなかったような気がする。
 ドクター・スクロミーとはどんな話をしたか覚えてはいない。これまでに発表した論文の
別刷りをもっていったと思う。今回発表したものをここでもプレゼンテーションするという
ことも少しは期待したけれど、そういう機会もなかった。予め、申し込んでおけばよかった
のだけど・・・。研究室の実験装置などは中国系の研究者が案内してくれた。クリーンルー
ムではないけれど、各部屋はナンバーキーで管理されており、実験装置も私の研究室のよう
な“手造り”のものではなく、“本物”の実験装置・測定装置が揃っていた。廊下の狭さと
は反対に、研究室・実験室の中は広々としていた。                 
 中国系の研究者の名前は忘れたが、“漢字”ではどう書くのかと聞いたところ、正確には
書けなかった。“劉”さんだったかもしれない。帰り際にドクター・スクロミーに挨拶に行
くと、廊下に20人くらいの学生が列をつくって並んでいた。ひとりひとり部屋に入れて面
談して“指導”しているらしかった。あれは“研究室の学生”だったのだろうか。私なら、
研究室の学生はみな関連したことを研究しているので、個別の指導であっても全員揃ってい
るところで話をすることにしていた。                       
 ホテルのチェックアウトタイムは正午までだったのだが、空港で買い物をするために飛行
機の出発時刻よりもかなり早くチェックアウトすることにした。それが、シャトルバスの予
定時刻には早すぎたのでフロントでタクシーを呼んでくれるように頼んだ。そうしたら、ホ
テル側の責任で呼んでくれるということだった。つまり、料金は払わなくていいということ
だ。5分もするとタクシーが来て、空港に着いて荷物を降ろしてもらったときに運転手にチ
ップを2ドル渡した。1ドルにしようか思い迷ったのだが、どうもチップを渡すというのは
苦手である。                                  




『デトロイト訪問』

 1993年に渡米するときデトロイト大学の研究者に手紙を書いたけれど、休暇をとって
いて返事が来たのは帰国してからである。それでも既にデトロイトに行くことは計画に入れ
てあって、当時、アルプス電気の関連会社のアルプス・オートモティヴという会社に従弟が
務めていた関係で従弟の勤務先を訪問することにした。               
 デトロイトは車の町として知られている。だが、1993年当時は自動車産業の衰退によ
り、かなりの空きビルが並んでいた。全く人の気配がしない大きなビルがいくつも並んでい
た。従弟はアメリカに来て何年経っていたのか、家族三人で住んでいた。デトロイトといっ
ても、日系企業の人たちは郊外の方が安全だということで、車で1時間ほどの住宅街に住む
のが普通ということだった。                           
 どこに行くにも車で案内してもらったのだが、街中(まちなか)で道を間違えたからとい
っても、Uターンして元の道に戻ることはしなかった。何かと難癖をつけられるということ
だった。とにかく、間違えたら間違えたで通り抜け、メーンの道路以外のところに行かない
のが無難ということらしかった。確かに、人種差別の意識はなくとも昼日中、筋肉隆々の黒
人男性がすることもなく街の角々にたむろしているのを見るのは気持ちよいものではなかっ
た。                                      
 ある通りを通ったとき、「そこのトンネルを抜けると5分でカナダだよ。行ってみる?」
と言われたが断った。何年か前にある教授がナイアガラに行ったとき、景色のいいカナダ側
に渡ったら、パスポートにスタンプを押されてしまい、帰国してから予定にはないカナダに
行ったことが咎められ始末書を書かされたという話を聞いていたからだ。       
 ドライブ中に鉄道の踏切があって、一時停止もせずに横切った。「大丈夫か?」と訊いた
ら、一週間に一回くらい列車が通るだけで、そのときは30分以上も前から大きな音の警報
が鳴るから大丈夫なのだということだった。それにしても、かつては全盛を極めたかもしれ
ない輸送機関だろうが廃止もされずに残っているのは妙な気分だった。        

 従弟へのお土産は、盛岡の南部せんべいや日本茶・海苔などを予め送っておいた。お茶や
海苔は、我々従兄弟の叔母さんが柳新道でお茶の小売をやっていて、そこから取り寄せたと
いうものである。デトロイトのホテルはその従弟の家の近くにとってもらったのだが、朝食
を従弟の家に食べに行った。盛岡から取り寄せなくても日本食は何でも揃っていて、ご飯と
豆腐の味噌汁、ほうれん草のおひたしの朝食をご馳走になった。庭でバーベキューをした記
憶もあるし、その時の写真も残っているので夕食もご馳走になったと思う。      
 この従弟の住まいは広い芝生の庭に囲まれた住宅街にあったのだが、どこの家にも表札な
どはなかった。これも、安全のためなのだということだった。周りに子供もみえない。4歳
になる一人息子のケン君も外遊びなどさせられなかったらしい。同じ年頃の隣の子と互いの
家の中で遊ばせるだけだということだった。両親とは日本語で話すけれど、隣の子とは英語
でちゃんと意思疎通しているようだ、と言っていた。                

 デトロイトの美術館は自動車で大富豪となったフォードらのコレクションが収められてい
 る美術館ということで、是非行きたい場所であったのだが、従弟は「あの辺はちょっと・・」
と断られてしまった。替わりにというわけではないが、ヘンリー・フォード博物館とグリー
ンフィールド・ビレッジに車で送ってもらった。ここはすぐ繋がっている施設で、二日間有
効の切符を買って二日通ったところである。                    
 フォードが開発した自動車の1号車(実物)とアポロ○号かが月にもっていった月面探査
車と同じものが並べてあった。これは100年間の車の進歩を示すためのものであった。他
にバード少将が南極探検に使った飛行機や高さ6m、長さ40mもの大陸横断鉄道の蒸気機
関車があった。そして、歴代大統領が乗った自動車が5−6台あった。ケネディ大統領が撃
たれた時に乗っていたリンカーンもあった。現在は大統領の乗った車はシークレットサービ
スが各種試験をして壊してしまうため、絶対に手に入らないのだそうだ。       
 私も電気を学んだ“電気屋”の端くれとしては、エジソンの電力会社の建物とそこで使っ
た発電機は興味を引くものであった。だけどあれは直流発電機だっただろうか。それとも交
流発電機だっただろうか。エジソンは直流派だったはずである。           


フォード開発の1号車&月面探査車   大陸横断鉄道の蒸気機関車   ケネディ大統領が撃たれたときの車


『美術館と音楽会』

 高校のとき、教科としての“芸術”は「音楽」を選んだほどなので、若い頃はN響のコン
サートに行こうという気にはなっても、美術館には積極的に行ってみようという気はなかっ
た。それが1984年から6年間科学研究費補助金を受けて研究することになって、全国あ
ちこちに出かけることがきっかけとなって“出張ついでに”美術館に行くようになった。そ
れと、1987年には小学校の同級生が銀座の画廊で個展を開くという報せをうけて出かけ
たことなども影響している。                           
 初めての海外の国際会議はMITに出かけた。MITは実際にはボストンの隣りのケンブ
リッジにあるのだが、ボストンならボストン交響楽団とボストン美術館に行きたいと単純に
考えた。ボストン交響楽団のシンフォニーホールでの演奏はシーズンがあって、初渡航の6
月はシーズンオフであった。替わりにボストンポップスのシーズンであった。そこで、その
場所に行けば何とかなると思って美術館とボストンポップスは計画に入れた。2度目の海外
渡航のニューポートもニューヨークからではなくボストンを拠点としたために、往きと帰り
にボストン美術館に行き、ボストン交響楽団の演奏はシーズンインの直前で聴くことができ
なかった。そのときは、日程と資金に余裕があってASU訪問もしたわけだが、更に出入国
の拠点のシカゴに出国前夜2泊して、シカゴ美術館とシカゴ交響楽団のコンサートに出かけ
た。シカゴ美術館とコンサートホールは道路を挟んでほとんど向かい合わせの場所にある。
デトロイトにも大きな美術館があるのだが、従弟に二の足を踏まれてしまったことは前述の
通りである。フライブルクの国際会議のときは、フランクフルトにあるシュテーデル美術館
に行った。                                   

 ボストン美術館・シカゴ美術館・シュテーデル美術館、この三つの美術館に共通して言え
ることは、日本の美術館とは違って“明るい”ということである。日本の美術館は―特に企
画展などはそうなのだが―“作品の保護のため”に照明を暗くしている。ところが、私が行
った外国の三つの美術館は、全て自然光か人工光かにかかわらず普通の生活空間と同じ明る
さで、展示物は更に明るく照らされていた。日本なら、上野の国立西洋美術館にしても天井
を強化ガラスにして自然光を取り入れているところは2階のほんの一部であって、他のとこ
ろは全体的に暗い。                               
 初めてボストン美術館に行ったとき、入り口でモギリの女性に「このバッジを襟に着けて
ください」と1円玉ほどの円いブリキのピンみたいなものを渡された。それは“本日の”入
 場者を示すためのものらしい。ここで日本語を聞くとは思わなかったので一瞬驚いた。私は、
どこから見ても日本人と一目で分かるヒトなのだ。尤も、彼女を一目見たときにこんなとこ
ろで日本人が働いているんだ、と思ったのだから、お互い様ということになる。あのバッジ
の色は根拠はないけれど日替わりで変えているのに違いない。            
 ボストン美術館には特別にこれを見ようというお目当ての作品があった訳ではないが、岡
倉天心が東洋部長をしていたこともあって、日本の浮世絵などの蒐集が充実しているという
ことなので、それは見たいと思っていた。浮世絵というと喜多川歌麿とか葛飾北斎などの名
前くらいしか思い浮かばないのだが、歌川豊國の絵の英文の説明書きを読んでいて“他の”
絵師の名前と生年・没年が書かれているのに気がついた。そこで、モギリの日本人女性を呼
んで来て、それを指摘したら「そうですねぇ。おかしいですね。コーディネーターに会って
みますか?」とのことだったがやめておいた。帰国してから手紙を書いた。返事は“豊國”
は2代目、3代目がいて、落款は“豊國”だけれど説明書きは間違いではなかったらしい。
それでも誤解を招かないような表示にしたいというようなことが書かれていた。2代目や3
代目がいたなんて私は知らなかった。                       
 これといってお目当ての作品があったわけではないとはいっても、ボストン美術館と言え
ば、ルノワールの『ブージヴァルのダンス』とモネの『日本娘』は有名である。この二つの
 作品は同じ展示室の中に飾られていて、『日本娘』の方が目立つ場所にあった。だが、私は、
『ブージヴァルのダンス』の前で30分ほど立ち尽くしてしまった。ルノワールの描くふっ
くらした女性に魅せられてしまった。ここに描かれた女性は、後のユトリロの母となった女
性なのだということだ。私の美術館行脚は、“出張ついで”が最初だが、このボストン美術
館のルノワールの絵が更に拍車をかけた。この美術館では、それぞれの画家の作品は画家ご
とに纏まって展示されているわけではない。だから、ルノワールの絵もあちこちにいくつも
点在していた。                                 

 シカゴ美術館ではどういう絵を見たというような印象は薄い。ただ、思い浮かぶ有名画家
の作品は一通り揃っていた、という印象である。ここで思い出されることは、入館料がタダ
ということである。ただし、寄付は拒まないようで“標準的な額”がどこかに書いてあった
ように思う。私は、標準どおりに6ドル払った。ボストン美術館では日本語のパンフレット
がもらえたが、シカゴ美術館では“貸し出し”てくれた。              

 フランクフルトのシュテーデル美術館もどんなところだったのか、よく覚えていないのだ
が所蔵リストの中にゴヤを見つけたので、美術館の職員にゴヤの絵はどこにあるのか訊いて
みた。知り合いに「スペインに行ってプラド美術館でゴヤを見たい!」という人がいたため
咄嗟に訊いてみた。ちょっと気がつきにくいところに連れて行ってくれた。兵士が農家の女
を蹂躙しているというような暗い絵だった。スペイン戦争の頃を題材にしたものらしい。

 ボストンでは、ボストンポップス交響楽団の演奏を聴いた。チケットは電話を掛けてみる
手があるらしいのだが、確実なのはシンフォニーホールの窓口だということである。ハーヴ
ァード大学へ出かけたときのことである。大学の正門前に小さな観光案内所を見つけた。日
本なら一坪(ひとつぼ)というほどの小さなボックスに老人がひとりいた。窓越しにシンフ
ォニーホールへの道順を尋ねたら、丁寧に教えてくれたのだが正確なところは理解できた訳
 ではない。"Thank you very much!"と言って離れようとしたら「オワカリニナリマシタカ?」
と言われ、思わず私は"You speak Japanese!" と言っていた。            
 バス乗り場を教えてくれたようなのだが、結局は地下鉄を乗り換えてチケットを買いに行
った。夜8時からの演奏会だったと思う。一旦ロングウッドインに戻って出直した。ボスト
ンポップスの演奏は、1階のフロアシートは食事をしながら聴くところだということだ。そ
ういうのは私の趣味ではないので、私は2階のテラス席をとった。1階のフロアが全く見え
ない席だったので、下で食事しているというようなことは分からなかった。      
 シンフォニーホールへ着いたとき、地下鉄の最寄の駅へは今来た道を逆にたどって、と頭
に入れた。だが、演奏が終わって外に出たのは別の出口だったらしい。日本でも映画館や演
奏会は、入り口は一つだが終わったときは客が一斉に出るために出口はいくつもできる、ア
レと同じである。ボストンでも横の方に出てしまったらしく、暗いほうへ暗いほうへと歩い
てしまった。“しまった!”と思って後戻りしたが地下鉄の入り口は分からなくなった。そ
こにタクシーが来たのでつかまえた。今度は、ボストンポップスのCDを買うのに現金を使
ってしまったので、5ドルほどしか持っていない。20ドルのトラベラーズチェックを出す
ことになるのかと思ったところ、意外に近いところだったらしく、5ドルで間に合った。

 シカゴ交響楽団の建物はシカゴ美術館の建物の斜向かいにある。そこで、美術館と行った
り来たりのハシゴであった。確か、金曜日のアフターヌーンコンサートであったと思う。シ
カゴ市民ならば格安のチケットが手に入るらしかった。エトランジェは47ドルだったと思
う。                                      

 シカゴ美術館やコンサートホールは空港から電車で行くのだが、街中では高架になってい
て長方形のループを描いた路線になっていた。長方形の一辺は、東西・南北に沿っており、
町並みと並行であった。高架の駅のホームは木製で隙間から下が見えて、ちょっと怖い。私
がこの高架のホームにいたのは、ちょうど秋分の日の夕暮れ時で、正確に東西南北に向いた
摩天楼の谷間に夕日が沈むのを見て感傷に浸っていた。               


『ブージヴァルのダンス』(ルノワール)  『天心園』〔岡倉覚三(天心)を記念して造られた日本庭園〕


ボストンポップス・演奏前のひととき



『おわりに』

 私には、ちょうど2000年頃にも海外へ出かけるチャンスがあった。それは、私が勤め
ていた大学と韓国の忠北(チュンボク)大学が国際交流協定を結んでいて、教員と大学院学
生を毎年ひとり1週間ほど相互に派遣することになっていた。その年は、教員については私
の学科から出すことになっていた。この学科は新しい学科で、先任の私が希望すれば派遣は
確実であったし、私もそのつもりでパスポートを更新したりしていた。だが、その年は私は
工学部の入学試験の責任者をしていて、それも派遣の時期が12月ということと、帰ってく
れば逆に相手先から派遣される教員・学生の受け入れをしなければならないことになってい
た。入試については大学入試センター試験を控えて身動きできない状態であった。そのよう
なことで、韓国行きは断念した。                         
 私のパスポートの有効期限は2010年8月23日までである。このパスポートは更新し
て後、一度も使うことなく過ぎてきた。私は、来年1月に実施される厚生労働省主催の戦没
者慰霊巡拝事業(フィリピン)に応募していて、“合格通知”を待っているところである。
父が1945年6月にフィリピンで戦死して64年経った。身体の自由が利く間に是非慰霊
の旅に行きたいものだと考えている。“合格”すれば、このパスポートに記録を残すことに
なる。“不合格”ならば、来年も応募するためにパスポートを更新する必要があるのだが、
そのときは5年にするか10年にするか迷うところである。             

                                書き始め:2009/07/15頃
                                完  了:2009/11/12