在京白堊三五会 外国見聞録(村野井徹夫)


岩手県立盛岡第一高等学校1960年卒在京同期会
在京白堊三五会・『我が国際会議録』
by 村野井徹夫


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『はじめに』

 海外へ出かけるといえば、旅行代理店が組む“ツァー”を思い浮かべるところだが、私は
この種の外国旅行をしたことはなく、留学したこともない。私の海外体験といえば、大学に
勤めていたときのわずか3回の国際会議(1992年〜1994年)で論文を発表したこと
だけである。私は、そのわずか3回の外国滞在について“見聞録”を書こうとした。勿論、
 私の体験は、諸兄姉のような「海外で新しい事業を立ち上げた」とか「販路を海外に広めた」
というような景気のいい話は何もない。ただ、その3回の外国での体験とともに国際会議の
様子などにも触れようとすると、国際会議で発表することとなった経緯(いきさつ)や、渡
航する前にも国内で開催された国際会議でも2回発表したことにも触れることになり、話が
 散漫になりそうである。そこで、ツーリストとしての体験は別に切り離して書くことにした。

 私が助手として大学に勤めたのは1967年4月のことなのだが、初任給がいくらなのか
も研究費がどれだけのものなのかも全く知らずに赴任した。ましてや出張すれば職位によっ
て支払われる旅費の額が違うということも知らなかった。初めての給料日が過ぎてからだっ
たのか一ヵ月分の俸給よりも多い赴任旅費(札幌から日立へ)を受領した時は、何か得した
気分になったものだ。だが、喜びはそこまで。助手の年間の出張旅費は7千円、東京日帰り
2回がやっとの額だったと思う。研究費となると、当時は学科全体の年間予算が400万円
といった額である。これが教官(12人)・技官(4人)・学生(40人×4)の教育・研
究経費の総額なのであった。ということは、助手が自由に使える予算など無いに等しく、一
々研究室の教授にお伺いをたてなければならなかった。               
 初任給がいくらなのかは覚えてないが、下宿のおばさんに「いくら払えば良いですか?」
と訊いたら、「1万2千円でどう? 弁当いるんでしょう!」と言われたのを覚えている。
2年前にも入っていた下宿だが、そのときは弁当つくってもらって8千円。2年前に比べれ
ば5割の値上げということになるのだが、札幌にいたときの3畳間の部屋代よりも低額で、
6畳間に住んで3食保証されたのは有難かった。そういう物価の時代に勤め始めたことにな
る。                                      

 研究に従事していれば、いくつかの学会に属し研究会にも参加して発表する機会をもつこ
とになる。そのような時に研究旅費を使うのだが、年間の限度額があるために研究を活発に
行なうほどに発表の機会が増え、旅費の不足分はポケットマネーを出すことになる。その場
合は、公務出張とはならず研修扱いである。経済的裏づけのない“出張命令”は出せないの
だそうだ。                                   
 大学の研究費は、文部省から教官定員や学生定員に応じて配分される校費と研究者個人が
申請して認可されれば配分される科学研究費補助金(科研費)、それと企業や他の研究機関
からの委任経理金というのが三本柱であった。しかしながら、赴任したての頃は科研費や委
任経理金などを申請する知恵どころか、そういうものがあることさえ知らなかった。科研費
は、今でこそ外国出張にも使えるようになっているけれど、私が第一線で研究していた頃は
“旅費”の項目は、国内出張に限られていた。従って、大学の教官が海外体験をするとした
ら国費留学を目指すか私費で“研修”に出かけるか、二つに一つ。他には、どこかの財団に
海外渡航費援助を申請するという方法くらいしかなかった。国費留学も順番待ちで、毎年の
申請を一度怠るとまた最後に回されるという状況であった。私は、まずは研究実績をあげな
ければともがいていたので、いざ申請しようとした時には時期を逸していた。     

 研究費獲得については、大学の規模・学部など研究環境によっていろいろであるけれど、
わが身を振り返ってみれば反省の材料ばかりであり、今回のテーマからかけ離れた内容とな
ってしまうので、書くとしても別の機会に譲ることにしたい。            
 一つ言えることは、私にとって国際会議で論文を発表するには、旅費の工面をどうするか
が大問題であった。本来、大学の研究者は外国で発表しなくても、それ相応の学識があれば
良いわけだが、大学院設置のための教員資格審査をパスするためには、理工系の大学院なら
ば国際的にも通用する高度な研究をアピールするためにも、国際会議での発表が奨励される
ようになってきたというわけである。                       



『国内での国際会議における発表』

 私の研究分野は、半導体材料・デバイスというような半導体についての応用研究である。
企業での研究ならば特許などの関係で口頭発表であっても、発表することが一つの実績とし
て認められるのかもしれないが、大学の研究者は査読論文が掲載されて初めて研究業績とし
て認められる。一編の論文が掲載されるまでには、学会での口頭発表を積み重ねることが多
いのだが、口頭発表自体は査読を受けるわけでもないので重要視されない。ただし、特許の
点で考えれば、たとえ口頭発表であろうが公知の事実となってしまう。        
 一方、国際会議の場合、私の関係する分野では、アブストラクトを提出して発表を申し込
んでも必ずしも採択されるとは限らない上に、採択されたときは会議の2−3ヵ月前までに
論文原稿の提出を求められた。提出された原稿は査読が行われ、レフェリーのコメントと一
緒に著者のもとに返されて、必要な修正をした原稿をもって会議に臨むことになる。最終的
には国際会議の会期中にプロシーディングに掲載するかどうかまで決めることが多かった。
そのプロシーディングも国際的に通用するジャーナルと提携しており、論文の信頼性はその
ジャーナルの論文としての査読を受けることにより、ジャーナルの信頼性によって担保され
ていた。                                    

 私の海外体験は、わずか3回の国際会議で論文を発表したことだけであると最初に書いた
のだが、国際会議での発表そのものは、初渡航前年の1991年に国内で開催された二つの
 国際会議で経験した。国際会議に参加する費用は、国内でも国外でも交通費とは別に参加費・
宿泊費などに5−8万円かかってしまう。その他に、国外ならば万が一の時のために海外旅
 行傷害保険をかけるのだが、それも馬鹿にならない。その当時の私の研究費は70万円ほど、
旅費は3万円位だったと思うのだが、消耗品を購入するだけで研究費のほとんどを使い切る
ような状況では、とても国際会議の参加費や旅費を支出することはできず、以前ならば、国
内で開催される国際会議であってもそれに参加して発表することなど考えもしなかった。そ
れが、私は1987年に始まった科研費<重点領域>のプロジェクト研究の一つに研究代表
者として加わることができた。このプロジェクト自体は6年間続けられるものであったが、
成果は一年ごとに査定され、翌年も参加できるかどうかは必ずしも保証するものではない、
というものであった。幸い、私は6年連続して参加することができて、総額で1060万円
の科研費を受領した。それは、上司の顔色などを伺うことなく自由に使える研究費である。
この科研費を受領することにより研究成果が上がってきていたので、外国出張には使えない
ならば、まずは国内で開催される二つの国際会議で発表することを企てた。      

 私が初めて国際会議で発表したのは、1991年7月に名古屋で開催された“第7回気相
成長とエピタキシーに関する国際会議”(ICVGE−7)においてである。次いで9月に
 は玉野市(岡山)で開催された“第5回U−Y族化合物に関する国際会議”(U−Y−91)
で発表した。どちらも2−3年おきにアメリカ・ヨーロッパ・日本のどこかで開催される国
際会議で、この年はたまたま日本での開催が重なった。ICVGE−7での発表は、オーラ
ルセッションとポスターセッションのどちらかを参加申し込み時点で選ぶものであった。私
は、じっくり討論できるポスタープレゼンテーションを選択した―これは表向きの話であっ
て、内実は初めての国際会議での発表のため、オーラルセッションでは立ち往生することを
懸念したのだ。U−Y−91の方は、プログラム委員会がオーラルかポスターかを決定し、
私の発表はポスターセッションに指定された。                   

 この二つの国際会議の発表件数は、ICVGE−7が約250件、U−Y−91の方は約
380件で、会期は名古屋は三日間、玉野では五日間であった。私は、どちらもポスターで
の発表だったので、発表用の英文原稿を用意しなかった。結果的に、名古屋では私の発表を
聴きにきた“お客さん”は日本人ばかりで、会期中一言も英語を話さなかった―質問もしな
かったということでもあるわけだが。玉野では、ポスターの場合でもセッション会場に行く
前に全員2分間のオーラルプレゼンテーションがあったし、何人か外国人も来てくれた。
 ICVGE−7の私の発表は、最終日だった。初日は、全体会議(開会式と2件の基調講
演)の後、4会場に分かれての発表、夜は2会場でパネル討論が10時近くまで続いた。

 U−Y−91は、瀬戸大橋の本州側の袂にある瀬戸内国際海洋ホテルを会場に行われた。
宿泊も原則としてそのホテルである。五日間の会期中、初日の夜は玉野市主催のパーティが
あり、4日目の夕方には岡山理科大がスポンサーとなって高松−宇野の間の船上ディナーパ
ーティが催されるなど、豪華なものであった。                   
 この国際会議のプログラム委員の半数ほどは、私が参加している科研費のプロジェクトの
主要メンバーが入っているので、私にとってはメインの発表の場であった。論文の査読結果
は会議の2週間前に受け取った。今回は一発でパスとはいかず、条件付合格で、不備な点を
いろいろ指摘された。思い当たることばかりである。不備な点を修正した原稿をもって会議
開始前日の参加登録の際に再提出した。再提出した原稿は、事務局から査読者に渡され、論
文の著者(私)は、採否の結果について事務局からの呼び出しを待つことになった。すぐに
は結果が出るとは思わなかったけれど、私の名が掲示板に出たのは最終日だったかも知れな
い。結果は「指摘については revise されたと一応認める。英文表現はかなり問題なので、
Native Speaker's checkを必要」というレフェリーの署名入りの文書と真っ赤に直された原
稿を渡されて、「掲載決定ですが、(タイプライターで)打ち直して(会期中に)提出して
ください」というものだった。レフェリーの署名入りの文書は事務局のミス。まだカーボン
紙の時代だったので起きたミスかもしれない。著者に返される査読文書は、本来は署名の部
分がないのだが、2時間かけて打ち直した原稿と一緒にコピーして、そっと返しておいた。
私の論文のレフェリーはよく知っている人だった。                 
 論文の英文原稿は、いつもは添削してもらってから投稿するのだが、いつも添削をお願い
 しているさんに連絡がとれなくて、そのまま提出したのだったかもしれない。この論文は、
オランダで発行されている Journal of Crystal Growth というこの分野で名の通った雑
誌に掲載されるのだが、シャセイさんという年配の女性編集者が来ており、彼女が咥えタバ
コで添削をしてくれたらしい。添削に時間がかかって呼び出しが遅くなったというわけであ
 る。彼女は、この国際会議の論文の原稿を全部バッグに入れてオランダに持ち帰った。途中、
バッグを紛失しては大事(おおごと)なので、機内持ち込みということだった。    

 四日目に催された船上ディナーパーティは、本州・四国間が橋で結ばれたために廃止され
たJRの宇高連絡船の船を使っての企画である。国際会議会場のホテルから貸し切りバスで
瀬戸大橋を渡って高松に行き、乗船して宇野に戻るまでの2時間のクルーズである。乗船す
る前にバスは瀬戸大橋記念公園に立ち寄り記念館を見学した。吊橋の主塔間は1100m、
100m以上ある主塔の天辺の間の距離は足元よりも何センチだったか長いのだと岡山理科
大の先生が言っていた―地球が丸いから。                     
 この記念公園を散策しているときに、科研費仲間の他大学の先生と話をした。「岡山理科
大がこの船上ディナーパーティに何百万円も拠出するということは、学生の授業料とかをピ
ンはねしてるということなのでしょうね。」「そうなりますね。」・・・と。同じ疑問を当
の岡山理科大の先生にぶつけてみたら、「それはそうです。日本中・世界中の大学の先生や
 企業の研究者に大学の名をPRして受験者が増えたら安いもんだ、と理事長にかけあった。」
と明かされた。                                 
 船上ディナーパーティは飲み放題・喰い放題。ひとしきり飲んで喰って、船のデッキなど
あちこちでグラス片手に談論風発、楽しんだ。論文でしか名前を知らない世界の研究者とも
話すことができた。                               


Bhargava夫妻(米国)&N教授(神戸大)     NTTグループ        


                                書き始め:2009/07/15頃
                                続  く