在京白堊三五会 片腎となって60年(村野井徹夫)


岩手県立盛岡第一高等学校1960年卒在京同期会
在京白堊三五会・『片腎となって六十年』 by村野井徹夫

片腎会同窓会誌「かたじん」(第3号)に掲載

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 今年も4月22日が過ぎ、6月10日が過ぎました。この二つの日付は私にとって忘れられ
ない日です。もう一つの日付を加えるとしたら4月12日ということになります。これらは今
からちょうど60年前の1954年(昭和29年)の日付です。私が中学校の二年に進級した
はずの頃、岩手医大付属病院に入院し、右腎摘出手術を受け、退院した一連の日付をいまだに
記憶しています。                                 ..

 発病は、入院の一ヵ月ほど前のその年の卒業生の予餞会の日のこと、排尿の後に一滴の血が
出たことで判りました。顕微鏡的な血尿そのものは長いこと続いていたのかもしれませんが、
 トイレに行くたびに垂れる血の一滴は尿道の奥に焼け火箸を当てられたかと思うほどの痛みで、
忘れられないできごとでした。誰にも言えず、排尿を我慢して顔をゆがめているのを母に咎め
られ、岩手医大の皮膚泌尿器科に連れて行かれました。診断は腎臓結核で医師から「手術して
切除! 一年間休学するんだね」と言われました。手術の怖さよりも“休学”という言葉に家
に帰ってから大泣きしました。何しろ13歳の子供だったわけですから。診断した医師とは違
いますが、ここには父の従弟が勤めていて主治医となりました。そのため、約一ヵ月は入院せ
ずに検査の日取りを連絡して頂いて通うことができました。              ..

 何の検査だったのか、前の晩に茶碗一杯ほどの黒い粉(多分、黒鉛の粉)を飲むことになり
ました。少しずつオブラートに包んで水と一緒に飲めばいいということでした。始めのうちは
スイスイ飲んでいたものの、だんだん水を見るのもいやになり一時間以上も悪戦苦闘の末、飲
み終わりました。入院してから隣りのベッドにはいった大人の人は、その黒い粉に水を注いで
かき混ぜて一気に飲み干して「ウーン、まずい!」。病室は四階の五号室。病院には四号室は
ありませんので「本当はシカイのシゴウシツか」と言ったら叱られました。       ..

 ストレプトマイシンの注射とパスの服薬をいつ始めたか覚えていませんし、“焼け火箸”の
痛さがいつ収まったのかも覚えていません。ただ、入院する前の一ヵ月の間、祖母(母方)が
どこからか聞いてきたある煎じ薬を飲まされました。この煎じ薬、あとから聞かされましたが
牛のペニスを刻んで煎じたものです。母が恐る恐る屠殺場に出かけて貰って来たそうです。貰
ったというのは記憶違いで、買ったのかもしれません。いずれにしても、息子を思う一心の親
心に感謝です。                                  ..
 ストレプトマイシンの注射は聴覚神経を痛める副作用で耳が聞こえなくなることを心配しま
した。いわゆる“ストマイつんぼ”です。キーンという耳鳴りはその後何年もの間続いたよう
に思います。当時、ストレプトマイシンは20本しか保険がきかなかったということですが、
母が何とか工面して40本使いました。保険がきくといっても5割負担、相当な負担だった筈
です。一本を二回に分けての注射で週に二回病院に通いました。臀部への筋肉注射、最後の頃
は注射針が曲がるほど臀部が硬くなりました。                    ..
 パスはものすごく苦くて飲みにくい薬だったため、その後どんな薬でも舌に触らず一気に飲
む術を会得しました。                               ..
 今ならば、教師を派遣してもらうとか院内教室に通うとかして一年遅れるというようなこと
はないのかもしれませんが、中学での一年遅れはその後の人生に大きな影響を与えたと思いま
す。                                       ..
 あれからちょうど六十年! 高血圧の薬は四十年以上飲んでおり、尿蛋白は必ず陽性、腎の
う胞もあるものの週に二回のテニスに興じ、小学校の下校パトロールも続けていますので比較
的健康に過ごしてきたと思います。そして、いつもの言い方をすれば、『腎臓は一つでも最低
60年は生きられる』ことを実証したと思っています。                ..

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