在京白堊三五会 新聞コラム(玉懸洋子)


岩手県立盛岡第一高等学校1960年卒在京同期会
在京白堊三五会・随想(玉懸洋子)

河北新報(1996年11月5日(火)より8回火曜日に掲載)
 河北新報(仙台)に1996年11月5日〜12月24日まで8回にわたり玉懸(旧姓・千葉)洋子さんの『火曜随想』が
掲載されました。ご本人の希望もあって、そのうち3編のみ紹介します。第一回のみ新聞に掲載された体裁その
ままとし、他は本文のみ横書きで掲載します。ルビは特別な場合以外は省略しました。
 なお、近いうちにこの『火曜随想』も含め、これまでに発表したものを纏めて出版するということです。

                                   ―管理人―


第1回:『朗読の喜び』空空空
第2回:『川内散歩』空空空空
第3回:『二人の岩手人』空空
第4回:『真壁次郎先生』空空
第5回:『メヒコ移民の群像』
第6回:『女の手仕事』空空空
第7回:『ここが私の大学』
第8回:『退場のとき』空空空


第1回:『朗読の喜び』(1996年11月5日) 
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[随想by玉懸洋子]




第2回:『川内散歩』(1996年11月12日) 
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第3回:『二人の岩手人』(1996年11月19日) 
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 松本竣介の「郊外」(宮城県美術館)は画面いっぱい透き通った緑色である。その緑の中に
子供たちが遊んでいて、学校らしいしゃれた建物が光を浴びて明るく輝いている。見るたびに
懐かしい絵だ。

 私は初め、この画家が幼時から中学校(旧制)まで花巻と盛岡で育った人だとは知らなかっ
た。知らずに「白い建物」「ニコライ堂」などの都会の風景と色調に魅かれていた。後に、彼
が盛岡中学校の時重病で聴覚を失ったこと、三年修了で上京して絵を描き、「暗い戦争の時代
を人間的に生き続け」「東京の街の風景を故郷盛岡の山河のごとく美しく描いた画家」と評さ
れていることを知り、その作品と生き方に注意するようになった。

 「画家の像」は一九四一年、私の生まれた年の作でる。全体が薄茶色の画面右に画家が遠く
を見て立ち、左に怯えたような横顔をみせる女性と半分顔を隠した子供が座っている。背景に
はたくさんの建物と小さな何人かの人物。画家たちも国策のために筆を執らなければならなか
った時代、「芸術の普遍妥当性はヒューマニティーだ」と論じた彼の肉声が聞こえてくるよう
な画面である。翌四二年、都会の風景の中に一人立つ自画像「立てる像」(神奈川県立近代美
術館)を制作した。この二人の松本竣介が並び立つ展覧会が宮城県美術館であった時、私は二
枚のキャンバスの前からしばらく離れることができなかった。

 「竣介は岩手の人、枯り強かった」という。彼にとって故郷は単なる懐かしい思い出の地と
いう後ろ向きのものではない。若い日の感性を育てた故郷は、一九二○年から四〇年代の東京
という時間と空間に、しっかりと一人立って表現する人間の核となって内にある。

 松本竣介が生まれる六日前(一九一二年四月十三日)東京・小石川の地に窮死したのは石川
啄木である。啄木は多くの望郷の歌によって人々に親しまれているが、実は、「月々のくらし」
を営む「都市居住者」の視点に立って「時代閉塞の現状」を捉え、大逆事件にあたってジャー
ナリストとしてなし遂げた仕事が最重要のものだった、と私は思う。

 故郷を出てその時代を最も敏感に感受する大都会に身を置き、時代の表現者として短い生命
を燃やした詩人と画家。その生命の炎をリレーして、今日もだれかが「今」という時代を走っ
ているに違いない。一段と冷気の加わる今夜、私は故郷盛岡が恋しい。
                            (朗読「みやぴの会」主宰)




第4回:『真壁次郎先生』(1996年11月26日) 
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 故郷盛岡には、真壁次郎先生が今日も絵を描いておいでになる。

 桜が満開の五月初め、私は先生のお宅を訪ねた。四十年前と同じ家に先生はお住まいで、懐
かしい盛岡の言葉で迎えてくださった。「よく来たこと、洋子さん、さ、あがって」

 故郷びとに本姓や名で呼ばれると、もとの自分に戻ったような安らぎを覚えるが、先生に「洋
子さん」と呼ばれるうれしさは格別だ。私が盛岡に帰る家がないことをご存じの先生は「帰り
たいときはここにいらっしゃい」とおっしゃる。

 先生の部屋には御所湖の風景の大画面が立ててあって、その前で先生はぽつぽつとお話しに
なる。「水を描くのが難しいんですよ。基礎をやらなかった私はいつも一から勉強です」「私
の感じる自然、岩手の山や川、草や木は油ではなく水彩がぴったりなんです」「自然を通して
生命のエネルギーや美しさを感じる心はだれでももっています」

 その「感じる心」を引き出してくれるのが先生の絵だ。先生の絵を通して私たちは、岩手山
の千古不変を感じ、不変でありながら朝な夕な光陰移りゆく姿に心奪われ、盛岡の街並み、橋、
古い建物を自分の持ち物であるかのように愛してしまう。

 私は小学校五、六年の二年間、先生の熱心な教えをいただいた。謄写版刷りの文集作りの楽
しさは特に良く覚えている。私たちの文集「北風窓」には先生の描く生き生きとした小鳥や草
花のカットが色刷りで入るから、印刷ローラーを持つ私たちの手は真っ黒ばかりではなく真っ
赤だったり真っ青だったりした。学級会のプログラムを絵入りで黒板に描く先生の手を感嘆し
て眺めていたこともある。先生が本格的に水彩画家として出発されたのは退職後だが、それま
での何十年理科専門の教師として、自然を丸ごと、しかも愛情込めてこまやかに捉えることを
日常としてこられたに違いない。

 卒業アルバムを開くと二十代の先生を真ん中に十二歳の顔、顔、顔。私の仲良しのさっちゃ
ん、久子ちゃん、未来の陶芸家木村君(南部焼″を作陶)、「生涯学級泰員長」の藤川君
(現在盛岡市議会議長)、そして先生の絵を絵葉書にしてくれる印刷会社経営の名久井君。こ
の絵葉書シリーズのおかげで私たちは、先生の優しいまなざしを感じながら、友人と便りを交
わす喜びの時を持つ。

 盛岡市仁王小学校真壁学級六十二人の一人、と思う時、私はいつも心穏やかだ。
                             (朗続「みやぴの会」主宰)



第5回:『メヒコ移民の群像』(1996年12月3日) 
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第6回:『女の手仕事』(1996年12月10日) 
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第7回:『ここが私の大学』(1996年12月17日) 
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第8回:『退場のとき』(1996年12月24日)
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                                      〔完〕 Top