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岩手県立盛岡第一高等学校1960年卒在京同期会
在京白堊三五会・太田 忠之 君のご葬儀・ご報告 by 堀江醇
& 弔辞 by 吉田俊二


2009年8月16日





                            平成21年8月16日
      故太田忠之氏 の葬儀 メモ by 堀江醇


場所:セレモアつくば八王子大横町会館 八王子市大横町 14-22 電話 042-625-2111 (12時開式)      
喪主:太田 昌代 様(奥様)                                     
盛岡一高参列者:吉田 俊二 金丸 敬一 福田 浩尚 熊谷 繁 岩持 岑生 堀江 醇 (6名)          

葬儀は無宗教方式で行われた。                                   

@黙祷:弦楽四重奏 生演奏。                                    
A太田忠之氏経歴紹介 1942年(昭和17年)1月30日生れ。享年67歳。                   
 1960年(昭和35年)岩手県立盛岡一高卒業。                             
 1964年(昭和39年)東北大学理学部卒業。                              
 1966年(昭和41年)東北大学大学院理学研究科修士課程修了。                     
 1969年(昭和44年)東北大学大学院理学研究科博士課程修了。理学博士号取得。(原子核・素粒子論)    
 1969年(昭和44年)日本学術会議。成蹊大学助手。                          
 1975年(昭和50年) 宮城教育大学助教授。1988年(昭和63年) 宮城教育大学教授。            
 2006年(平成18年) 工学院大学付属中学・高等学校 校長。                      
B専門は「理論物理」「素粒子論」アインシュタインの重力場の計算式に貢献。多くの学会の活動。      
C別れの言葉                                           
 C-1 工学院大学理事長 大橋英雄。  太田先生は今年4月から第2期(3年)の仕事に就いていた。   
 C-2 友人 吉田俊二。 太田忠之さんとは中学・高校・大学を共に過ごした。下橋中学2年からのつき合い
   だった。いつもニコニコ沈着冷静。中学3年の時入院。ベッドの上で半年先に習う事を勉強していた。大
   学は体が弱いので机で頭で考える理論物理分野を選んだと聞いている。下橋中学卒業50周年を祝って岩
   手県の鶯宿温泉に同級生が集まった際顔面傷だらけで出て来た。聞けば八王子で歩道の端を踏み外してし
   まい転んだと言う事。                                    
    ベニスが好きで憧れ既に数回訪れていた。ドイツのノーベル文学賞作家のト-マス・マンの「ベニスに死
   す」と言う作品を地で行く事になってしまった。私 吉田も来年5月ベニスを訪問しあなたが歩いたような
   あなたが賞味したような雰囲気を体験したいと思っている。さらにあなたがお嬢さんと企画していたプラ
   ハにも足を伸ばしたい。                                   
 C-3 宮城教育大学千葉芳明教授。太田先生は昭和50年物理の助教授として着任。理論物理分野として大学
   として始めての人材だった。太田先生は教授会メンバーとして制度改革の仕事のトップに立ってご活躍い
    ただいた。私千葉は昭和52年に助手として以来30年にわたり先生の指導を受けた。お礼を申し上げる。
 C-4 工学院大学中学・高校校長代行 橋本勉。 将来構想 引っ越し後の夢。             
D献花 (ご遺族のお名前は音読みを漢字変換しているので正確ではない。)               
   (喪主 太田昌代)(丸山百合子)(太田美智子)(丸山正雄)(丸山博隆)(親族の皆様)(参列の皆様 500名以上?)
E弔電披露                                            
   (工学院大学理事長)(工学院大学学長)(宮城教育大学学長)(宮城教育大学教え子一同)(下橋中学3年7組
   同級生) 「永遠の級長,,」 同級生の弔電は吉田さんの弔辞と共に大変よいものでした。       
   (内館チエ)(菅原**)(野村総研社長)(外務大臣中曽根弘文) ほか多数。              
F 喪主 太田昌代様の挨拶                                    
   花の鉢 家族に優しい 真面目 仕事熱心。 仕事心残りでは。 皆様にお礼。          
G参列者もお棺内に花を手向けた。 霊柩車を送り出し散会。                     
H 帰途 八王子駅ビルに盛岡一高参列者一同が集まり太田さんのご冥福を祈りつつ会食。        

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太田忠之君の告別式に次のような『おくることば』でお別れをさせていただきました。 



『太田忠之君をおくることば』             

太田忠之君!! あなたはひょいと垣根を越えて向こう岸へ行ってしまいました。   

あまりにも早いこのときは、私たちにとって想像だにしなかったことでした。あなたとの出

会いは盛岡の下橋中学2年の14歳のとき、昭和30年―戦後わずかに10年後のことでし

た。実に温和なあなたは決していかなるときも怒らず、慌てず泰然自若としておりクラスの

誇りでした。それが実にやさしいこころで、いつもにこにこ笑って誰一人分け隔てすること

なく接していました。そういうあなたを、私たちは『太田っぺと』いって、とてもとても大

切に接しました。中学3年の夏でしたか、体調を崩し入院していたあなたはベッドの上で数

学の教科書を開いて私にこう尋ねました。『(a+b)の二乗は さていくつでしょう』  

あほな私は『そりゃー簡単だよ。aの二乗+bの二乗だよと』正直に得意げに答えました。

ノートの上に図式を書いて正解を丁寧に説明してくれたことを今このときのように思い出し

ます。それは半年先に授業で教えられるものでした。                

 はたまた、国語の漢字全校テストのとき、あなたの休養明けでしたが、山車のかな振りに

あなたは実に感性豊かな答えをしました。リヤカーと。山仕事で荷物を運ぶのに使う車なの

だと。私はその発想に感嘆して拍手を送ったものでした。その後、盛岡一高へ、東北大学へ

と進み(勿論私は大学へ遅れてやってきましたが、あなたはストレートで理学部へ行きまし

た)ある日、仙台東一番町のキリンビアホールで食事を共にしたとき、あなたはこう言いま

した。『私は体が弱いので実験なんぞの体力勝負は出来ないので、机上で考える分野に進む

よ』と。昭和44年に原子核物理学の素粒子論で博士号をとられました。でも、あなたは博

士号を取ったよなんて一言も言いませんでした。あなたは、そういう人でした。驕ることな

く、いつも謙虚で本当に素晴らしいあなたでした。                 

 2年前の秋、下の橋中学卒業50周年記念クラス会を盛岡郊外・鶯宿温泉で開いたとき、

あなたは顔面傷だらけで現れました。『それはどうしたの?』との参加者25人の一斉攻撃

に、あなたは実に丁寧に答えてくれました。『キャンパスを歩いていたとき、歩道を踏み外

して真正面から顔面衝突したのよ。手を突いて防ぐのが間に合わなかったのよ』その場でみ

んな一同大笑いの後、納得して、太田っぺ らしいとなり早期の快癒を激励しました。つい

でに、『体重が軽いから風で飛ばされるのだ。私の体重の10kg分を分けてあげるよ』と

言いましたら、『10kg全部は多いよ』と、こににこ笑ってましたね。       

 また時には、東京での学会に来たよと言って、予告も無く私の丸の内のオフィスをよく訪

ねてくれました。食事をしながら、海外旅行で行きたい街々を嬉々として話してくれたもの

でした。                                    

 あなたが水の都ヴェニスに憧れすでに数回訪れていたことを奥様からお聞きしました。北

方からの蛮族に追いやられて、干潟に数万本の堅い木の杭を打ち込み、その上に岩盤を敷き

詰めて基礎土台を作り、その上に石造りの都市を作り上げ1400年代に隆盛を極めた地中

海の海洋国家ヴェニスを思い、あなたは あのゴンドラで行き来する60もの島がある街に

憧憬と愛着を感じたのでしょう。                         

 サンマルコ広場に近いあの大運河に面した一等地の場所に立つ『サボイア・ホテル』前の

テラスで、大運河を往来する大きな船や波にたゆとう眼前のゴンドラを眺めながら美味しい

イタリアンのデイナーを取ったのがあなたの最後の晩餐であったことをおもうと、あなたは

素晴らしい『天命』を全うするところを選んだと思い、私はある種の羨望の念を感じるのを

禁じえません。                                 

 ドイツの文豪でノーベル賞作家・トーマスマンは『ヴェニスに死す』 (Der Tod in

Venedig)を著し、自らのヴェニスへの憧憬を主人公である芸術家をして表現しました。芸術

と実生活、芸術家と普通人との二元性を円熟した綿密な技法によって描き挙げたもので、そ

の主人公である芸術家が憧れたギリシャ美を象徴するような 端麗無比な少年の姿が、太田

君あなたにとってはサンマルコ寺院のあの純真無垢な天使像であったのではありませんか。

私の在学中、主任教授とドイツ文学演習の授業中に主人公の意向の解釈の違いでやりあった

ことがあるこの作品は、痛々しいそのときの結末を思い出させますが、あなたがヴェニスに

遊んだ純真なこころでその痛さを洗い流してくれそうです。             



 お約束します。来年の5月にはあなたの憧憬の街・ヴェニスを再度訪れ、『サボイアホテ

ル』の同じ部屋に投宿して、運河に面したテラスでイタリアンを食してあなたの旅心を共有

することを。昼間は2万歩以上もヴェニスの街中を歩き、しかも、三日三晩、ホテル前の運

河に面した青いテントのテラス・リストランテで、毎晩同じ椅子に座り、毎晩同じ時間に食

事をし、そして、あなたがその後、お嬢さんと合流し、歴史を堪能しようとしていたチェコ

のプラハを訪れあなたと共に旅することを。                    



 このようなことをお話しているまに、あなたがひょいと私たちの前に戻ってくる気がして

なりません。垣根の向こうにいてもあの温和で柔和な笑顔で楽しい旅をなさってください。

私もそう遠くない時にあなたの近くにひょいと垣根を越えていくでしょう。寂しいでしょう

が、ちょっとの間、待っていてください。そして、あの温和で柔和な笑顔で迎えてください

ね。                                      

太田君、安らかにお眠り下さい。                         

 さようなら。                                 

                                     吉田俊二



                         2009年8月16日     

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