岩手県立盛岡第一高等学校1960年卒在京同期会
在京白堊三五会『大樋焼・340年続く詩魂の世界』
by横澤利昌


Japan SPOTLIGHT 誌論文3編のうちの B の日本語訳



土が奏でる “用即美”                         
 今や地球のあらゆる人間の居住地域で、土を用いて造られ、創られたものが美意識と
しても芸術にも理解されているのが陶芸である。見るだけでなく、手で触り、使ってみ
て、その感触によって特別な感性を覚えるのである。「用即美」それが工芸の理念であ
る。昔も今もかわらず、すべて自然の素材である石か土で作られている。     
 日本のやきものは昔より中国をはじめ世界中から渡来したものが基礎になっている。
それに加えて世界に類を見ない茶道文化と調和し、茶陶なるものが出現し、きわめて特
色のある風雅な世界を醸し出している。民族や地域は伝統文化のルーツを陶芸に求めて
いたと思えるほどである。                          

大樋焼のルーツ、楽焼(らくやき)の発生                 
 楽焼は、一般的に手とへらだけで成形する「手捏ね」(てづくね)と呼ばれる方法で
成形した後、750〜1,100℃で焼成し、「楽茶碗」などと呼ばれる。茶人、千利休らの嗜
好を反映した、歪んで厚みのある形状が特徴である。茶碗や花入、水指、香炉など茶道
具として使用される。楽焼の茶碗を作る茶碗師の樂家は以後現在に至るまで450年受
け継がている。                              

茶陶、大樋長左衛門の陶芸                        
 千利休の3代目宗旦(そうたん)には、子供が4人いた。そのうちの3人がそれぞれ
初祖利休以来の道統を引き継いだ。具体的には次男、一翁宗守(いちおうそうしゅ)が
武者小路千家、3男、江岑宗左(こうしんそうさ)・表千家、4男の仙叟宗室(せんそ
うそうしつ・後の裏千家)である。その4男の仙叟が大樋村に楽焼に適した陶土を見出
し制作したことが大樋焼のはじまりである。                  
 1666年3月、金沢の地に茶道文化を育成するために、仙叟宗室は加賀藩主・5代
前田綱紀(つなのり)侯のもとに茶道茶具奉公として金沢に仕官された。     
 その時の仙叟は京都の楽家4代の門人であった土師(はじ)長左衛門を茶碗造り師と
して金沢に同道させ、茶道と楽焼の技法を伝えることになった。         
 大樋焼は初代から代々長左衛門を襲名して現在10代、その長男の年雄氏が次代を担
い活躍しており、世界各国を飛び回る忙しい合間を縫って、インタビューに成功した。

伝統と革新がうまく融合                         
 年雄氏は、過去の伝統・古典にその輝きを学び、現代の今をさらに再考し、認識する
ことによりこれからの人生を美的に創造したいものである。その意味においても大樋焼
という茶陶歴代が残した歴史を振り返り、その伝統を維持するためにも全く新しい創意
の視点に立っての作陶でなければならない、と言う。大樋長左衛門の特徴といえば飴釉
である。これは陶磁器にかける鉄分を含んだ薬であるが、大樋焼のものは、楽家の一入
(いちにゅう)という人物より授かったものとされている。しかし「黒飴釉鳥香炉」
Crow-shaped Incense Burner, Ohi Black glaze や「飴釉茶碗 銘“聖”」Tea Bowl
known as "HIJIRI" Ohi Amber Glaze
等に、楽家とは異なる豪快で力強く、造詣そのも
のも創意工夫に満ちている。                         
 9代目・長左衛門は伝統を守り続け、日本工芸会正会員として活動した。10代・長
左衛門は伝統と新しい創意の双方の視点で作陶し文化功労者、日本芸術院会員ともなっ
ている。10代目の長男・年雄氏は、新しい創意を試みた作品を出しているがそこには
 大樋焼の伝統がにじみでて、伝統と革新がうまく融合されていると評者に言われている。

金沢の地が次世代を育て繋ぐ                       
 伝統工芸は代々家が継承するものであるが年雄氏によると「金沢は地域が皆でやって
いる。陶芸、漆芸、金工などが密集している地域で皆が協力して総合力やネットワーク
で繋いでいる。それが地域のブランドを創っている。              
 金沢は茶道が盛んで、茶道に例えれば、亭主が主人公(誰かが主人公になる)ひとり
出過ぎても引っ込んでもだめ。それを大樋家では業統(ぎょうとう)と言っている」。
京都はどちらかというと伝統をそのまま維持するが、金沢の根は京都の文化に敬意をは
らいつつも、時代に合わせて金沢の風土にあった独自性をもって変化させている。 

最大の危機は明治維新                          
 江戸時代の最大の後ろ盾は大名であった。大樋焼は、大名の御用達であった。(献上
とは異なる)。ところが明治維新で大名がなくなり、顧客を失った。長い歴史のなかで
明治維新は最大の危機であった。その時に石川県出身の大徳寺住職で松雲老師が援助の
為に多くのものを注文してくれた。大きな時代の変化で前田家に代わるパトロンの旦那
衆や数寄者(すきしゃ・芸道に執心な人物)は、かなり後の明治30年頃に登場してくる。
そんな中で大樋家も7代で途絶え、その高弟が8代長左衛門を継いでいる。    
手作りには魂がはいる                          
 老舗は大量生産をしない。大量生産すれば手作りを忘れてしまい、魂が入らないから
である。ある程度の量産が許されるとするならば、描かれた絵をリトクラフで再生する
ようなことがある。しかしながら、機械でポスターをつくることは、量産のなかでも魂
が入っているかどうかの違いがある。手作りには魂がはいる。常に変化することは必要
だが、変えてはならないことに気づくことが最も大切である。          
 大樋焼の特徴は大樋の土を使用した楽茶碗に飴釉で仕上げた茶碗である。大樋の土
(主成分)を使用し、手捻りして削る、焼成は一気に温度を上げ窯から引き出し冷却す
る(写真)                                 

 持続する経営の要諦は@共通の理念(哲学) A長期の視点と己の器量を知る B伝
統と革新のバランスである。                         

大樋焼の窯元屋敷と美術館(写真)                    
 ― 文化の伝承と社会貢献                       
 金沢市の橋場に歴史の町、特有の風土を感じさせる大樋家本家・長左衛門窯元(写真)
がある。これは金沢市指定建造物であり、1993年、都市美文化賞を受賞している。ま
た、庭園には「折鶴の松」金沢指定樹木があり樹齢450年とも言われている。   
その裏手にある大樋美術館は初代長左衛門から現代まで、歴代の大樋焼と加賀・金沢の茶
道文化にふれる美術館である。 楽家から贈られた飴釉、仙叟好みの意匠、そして代々の
創意が加えられた歴代の作品を中心に大樋焼340余年の歳月と現在、そして新たなる伝
統を重ねる姿を三つの展示室に展開している。 また併設する大樋ギャラリーでは、十代
大樋長左衛門(文化功労者・日本芸術院会員)と次代を担う長男年雄氏(ロチェスター工
科大客員教授)の作品を展示・販売している。ここでも目を楽しませてくれるが、ギャラ
リー隣の床の間のある和室に通され、黒楽に抹茶の緑、森八(もりはち)(1625年創
業)の和菓子を戴いた。日本の伝統と美に浸ったひとときであった。