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28th, 2000.
村野井徹夫
茨城大学工学部メディア通信工学科・教授
316-8511
FAX:(0294)38-7148(学科事務室)
e-mail: muranoi@mx.ibaraki.ac.jp
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1987年度〜1992年度:文部省科学研究費補助金
『重点領域研究・機能性材料』公募研究:総額1060万円
1994年度:電気通信普及財団
『海外渡航旅費援助』43万円
1995年度:村田学術振興財団
『セレン化亜鉛青色発光ダイオード及び青色レーザーダイオードに関する研究』100万円
1998年度:日本電気潟fバイス評価技術研究所
『VLSIのESD障害対策技術に関する研究』50万円
1999年度:日本電気潟fバイス評価技術研究所
『VLSIのESD障害対策技術に関する研究』50万円
1947.4:
1953.4:
1957.4:岩手県立盛岡第一高等学校入学
1961.4:茨城大学工学部電気工学科入学
1965.3: 〃 卒業
1965.4:北海道大学大学院工学研究科修士課程(電子工学専攻)入学
1967.3: 〃 修了
1967.4:茨城大学工学部電子工学科:助 手
1982.9: 〃 :講 師
1990.10:茨城大学工学部電気電子工学科:講 師(学科改組)
1994.1: 〃 :助教授
茨城大学理工学研究科博士前期課程(電気電子工学専攻)担当
1996.4:茨城大学工学部メディア通信工学科:教 授
茨城大学大学院理工学研究科博士後期課程(環境機能科学専攻)担当
2000.4:茨城大学大学院理工学研究科博士前期課程(メディア通信工学専攻:新設)担当
1967.3.25 工学修士
『シリコンMOSダイオードの雑音とその原因に関する研究』
1993.9.30 博士(工学)(北海道大学)
『セレン化亜鉛の気相成長によるpn接合と青色発光ダイオードに関する研究』
1940.7:大阪府北河内郡門真町に生れる(父は転勤族)
1944.8.1:父の応召により両親の郷里、
途中、富士山に夕日が落ちるのを見た。盛岡まで乗り換えた記憶は無い。満員列車で母が
水筒に水を汲みに行くのが不安であった。盛岡駅から家まで兄とトランクと一緒に人力車に乗せられた。
1944.9.29:祖父死亡、一緒に暮したのは2ヶ月足らずながらブリキを切り半田鏝を七輪で暖め、呼子を
作ってくれた記憶がある。父が軍装したまま亡くなった祖父の髭を剃っていた。
1944.12?:父、南方へ出征。出征当夜、家族は駅に見送りに行ったが小生は寝ぼけて連れて行ってもらえず
後で地団太を踏んで泣いた。
1945.3?:盛岡駅前空襲。空襲警報が鳴る度に押入れに入ったり、防空壕に避難したり野宿を経験。
1945.8:終戦の詔勅をラジオで聴いた。「日本負けたんだって」と言った母の言葉を記憶している。
1947.?:父の戦死公報入信(1945/6/15:フィリピンにて戦死)
戦後の新学制の第1期生で平仮名で習うも、櫻城小学校は全国でも有名な日の丸校長で
2月11日も、4月29日も11月3日も登校して祝った。貞明皇后が亡くなった時も
校庭で宮城遥拝をさせられた。だから、日の丸に違和感無く育ったものの、今の世に
強制的に歌わされるのは反対。歌わない自由がある方が良い。
1953.3:櫻城小学校卒業時は1クラスジャスト70名、6クラス。学級崩壊なんかなかった。途中転校して行った
クラスメートとも付き合いがある。
1954.4:腎臓結核により右腎摘出(生死の境をさ迷うも本人自覚無し)
ストレプトマイシン(40本)投与、聾者になることを心配。
パス服薬、この薬が呑めればどんなにまずい薬でも呑めるようになる。
人間、腎臓1個でも少なくとも46年間は普通の生活が出来ることを実証(2000.3現在)。
今なら在宅で教師訪問などがあるが、1年間の休学は悔しかった。
1956頃:中学のNHK合唱コンクールはいつも下橋中学に負けて代表になったことは無い。
男声ダブルカルテットは楽しかった。
高校では化学部。草から紙をつくった。2年のとき文化部の委員長選挙で他の人が推薦されたのを
黙って受け入れれば良いのに高井を推薦したら、推薦し返されて選ばれてしまった。
1960. :60年安保は受験勉強してた。
1961.4:大学選び 電気系、U期校、北日本、表日本で絞ったら茨城大が残った。
1967.4:就職 兄とは3歳違いながら、社会に出るのは7年遅かったのでかなり年齢が離れている感じ。
1974頃:硬式テニスを始める。県大会(壮年の部)日立地区予選で2回戦勝利がやっと。
今なら「老壮の部」に出場しなければならないが、サタデープレーヤーになって久しく大会出場を果たしていない。