−"ありがとう"が聞きたくて-
黒沢明実
「人の身体は食物が作る、そして心は、言葉でつくられる」・・・・・・と、いつか文字を目に
した事がありました。本当に「その通り」と今、人生の後半を迎え思っています。
母への遠距離介護は、姉と協力し、介護サービスも利用して、どうにか在宅で乗り切る
ことが出来ました。それは、二つの家族の支えがあって成り立つことを実感するものでし
た。一人暮らしをしていた母。支えの必要を感じたその日から、看送るまでの五年の間、
一日も母を一人にすることなく、精一杯介護出来たことは、姉と共に悔いのないむしろ誇
りにさえ思っています。母の一生は決して幸せばかりではなかったと思うけれど、それを
嘆くこともなく、口数の少ない人で晩年は、身近な人達の支えをたくさん受けて、穏やか
な日々を過ごすことが出来ました。子育てや、仕事のやりくりをしながらの介護でしたが、
その間 母は"ありがとう"の言葉を口にすることは、殆どありませんでした。食事の時、
着替えの時、人浴、そして排泄。晩年は、嚥下困難もあり、食べものが詰まり、チアノー
ゼを起こして、後から抱きかかえ、必死で吐かせたこともありました。やがて介護する側
も、疲れが出て来て、優しく出来ない時もありました。"ありがとう"の一言が、どんな
に疲れた体を癒やし、それが聞けた時は、心はほどけて、溶けていくものです。何故言え
ないの? 口ベタでは済まないことなのでは?・・・真剣にそう思ったものでした。私が同じ立
場になった時には、たくさんの「ありがとう」を言おう・・・。今、そう心に決めています。
病院にいても、「家に帰りたい」とは、決して言うまい。介護の経験のある人は皆そう思
います。「子供達には、迷惑をかけられない」と。
母の亡き後、書棚を整理していて見つけた「花のダイアリー」。そこにはなんと"あり
がとう"が、あちこちに…!「美味しい食物をありがとう」「連れて行ってくれてありが
とう」「見舞に来てくれてありがとう」と、それぞれの名前入りで書かれてありました。
「口では言えなかったのね、お母さん!分かりましたよ今。でもね、その時言葉にしないと、
伝わらない事もあるのだから・・・・・・。」大切に手入れをしていた草花は、今たくさんの花を
咲かせています。介護をさせてくれてありがとう。色々と教えてくれてありがとう。
"老いのリハーサルが出来ました。"
母の手に草の香ほのと春浅し
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