亡き妻との大切な日々を
                                                      鈴木 幸也
                                                      常陸太田市在住

 妻が亡くなって、はや半年が過ぎようとしている・・・。
長いような、短いような、地に足がつかない毎日を過ごしてきたように思う。
 今までは妻がいたからこそ安心して家を任すことができた。安心して仕事に専念できたし、自分の趣味や遊び
に興じることができたのだ。それが、今は仕事から帰ってくると、趣味どころか、炊事・洗濯等に追われ自分の
時間すら持てない毎日である。改めて妻のありがたさを痛感している。
 なぜ生きているうちに家事の手伝いや大変さをわかってあげることができなかったのか、なぜ洗濯物を一緒に
たたんであげたりすることができなかったのか・・・。
 せめて、家事の大変さをわかってあげることができたなら・・・と、今更ながら悔む。

 今振り返ってみると、あの苦しかった看病や介護の日々も妻との大切な一日一日・一時一時だったのだとしみ
じみ思う。
 もっともっと話をしていればよかった。あの貴重な日々を仕事の忙しさにかまけて過ごしてきたように思う。
看護に疲れたという理由だけで病気の妻にあたってしまったこともあった。
 「死」ということすら思わなかった。妻は治るものと思っていた。担当医に「悪性の脳腫瘍で現代の医療では
治療が困難です」「覚悟して下さい」と言われ続けても実感として受け取れなかった。

 忘れもしない・・・平成23年6月11日・・・
 妻は記憶が失われ、思考力もほとんどなかった。前日までは会話をし、それまで通っていた国立病院まで行っ
て診療を受け、左半身が不自由ながら二人で食事をし、帰りがてらデパートに寄り一緒に買い物をしたのに・・・
 次の日(11日)は全く別人のようになってしまった。やむを得ず近くの病院に入院させた。(何かあったと
き、私の勤務場所に近い方がよいと判断したためである)
 身の回りのことはきちんとしていた妻だったが、最後の病院では何もできなくなっていた。しかし、病院で出
された食事はきれいにたいらげた。
 私が病院に行き、食事をする妻のそばにいても、会話することもなくただもくもくと食事するだけであった。
その様子がかわいそうでならなかった。まるで痴呆のように、何も話すことなく一点を見つめて食べ物を口に運
び、きれいに食べた。
 その姿があわれであった・・・
 また、ある時は病室で私を待っているというより、まるで幼児のようなつぶらな瞳で私の来るのを見ては「今
日、何日・・・?今日、何日・・・?」と聞くばかりの妻・・・自分がこの世から離れる日がわかっているかの
ように日にちを聞くのであった。
 またあるときは、検査でベットを離れているときがあった。私がしばらく病室で待っていると、看護師や介護
士に抱えられた簡易ベットに乗せられて病室に入ってきた。そして、病室のベットに移されたとき、怖々した不
安そうな表情を浮かべて瞳を凝らす妻・・・
 どこに連れて行かれるのだろうかというような目で見たあの姿が脳裏に焼き付いて離れない。

 最後の病院に入院して2カ月、日に日に衰弱した妻は8月10日に他界した。
 亡くなる直前に「お父さんありがとう」「子どもを残して逝く私を許して」というように目から涙を二筋流し
た。全く意識もなく人口呼吸をしていた妻が突然涙を流した。いや、意識はなくとも心で語ったと思った。明ら
かに心が伝わってきた。
 そしてすぐそれから30分も経たずに息を引き取ったのだった。
 妻はわずか49歳で亡くなった。まだまだこれから人生は長いのに、その若さで私と子どもを置いて先立って
しまった。さぞや無念だったに違いない。
 しかし、寿命というものがあるのなら、妻はその寿命で亡くなったとしか思えなかった。彼女なりの寿命をま
っとうしたと思うしかなかった。

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