遺すものは何か |
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日立モラロジー事務所 加藤忠男 | |||
「俺の分まで子どもたちのために力を尽くせ」―彼が私に遺した最初の言葉。
「俺の分まで、子どもたちのために仕事をしてくれ。」彼は、教員になって神奈川に発つ私を喜んでくれた。言葉に出して言われたわけではない。彼の眼がそう語っていた。 彼は職場でも才能をいかんなく発揮し、趣味の絵画、料理も玄人はだしであった。新しく創設された課の初代課長として困難な仕事をこなしていた。茨城に戻った私は、県内初めての総合学習「電車に乗ろう」という30年前としては画期的な学習を実践した。日立市・神峰公園への小旅行を計画した2年生のグループのために、彼は全面的な協力をしてくれた。子どもに恵まれなかった分、私の二人の息子を含め、彼は子どもの思いを大切にした。しかし、病魔が彼を蝕んでいき、彼の絶品の鯖鮨も届かなくなった。 「俺の弔辞は加藤が述べよ」−彼が残した最期の言葉。 亡くなった知らせを受け駆けつけた私に、彼の奥さんが彼の言葉を伝えてくれた。彼は病気への対応を自ら決断し、潔く戦った。火葬の場で、通夜の席で、彼との思い出が巡り続けた。あらゆる場面で、彼への感謝の念しか出てこなかった。40歳を過ぎ、単身で上越の大学院に学ぶ私を訪ねてくれたのも彼。オートバイで関越トンネルを抜け、埃に黒くなった顔で、私を励ましに来た。高校時代、好きな女子高生に私の思いを伝えてくれたのも彼。妻と結婚する前に、三人で飲んでくれたのも彼。その都度、彼は私に多くのことを学ばせてくれた。仕事への取り組み方、人への接し方、優しさとは、強さとは・・・。それは私だけでなく、彼の近くにいた多くの人間が学んだことであった。 告別式、私は彼に感謝を述べるとともに、彼を奪った病気に対し恨みをつらね、せめて今日が雨になり、少しでも彼が彼岸に行くことが長引くように祈った。今思えば、彼の喜ばない「未練」であったことが分かる。
彼が他界して以来、私は考え続けた。「多くを遺していった彼のように、私は何が遺せるだろうか」「何を残せばよいのだろうか」と。私の仕事は遺るのだろうか、俳句や・短歌はどうだろう。親として、子どもに対する思いはどうだろう。どのような形で残せばいいのだろう。そんな折、絵本『わすれられないおくりもの』(スーザン・バーレイ・作・絵 小川仁英・訳 評論社)に出会った。 みんなだれにも、なにかしら、アナグマの思い出がありました。アナグマは、ひとりひとりに、別れたあとでも、たからものとなるような、ちえやくふうを残してくれたのです。みんなはそれで、たがいに助けあうこともできました。 さいごの雪がきえたころ、アナグマが残してくれたもののゆたかさで、みんなの悲しみも、きえていきました。アナグマの話が出るたびに、だれかがいつも、楽しい思い出を、話すことができるように、なったのです。 私は「アナグマ」に、「彼」になりたいと思っていた。「たからものとなるような、ちえやくふうを」遺したいと考えていたのだ。しかし、やっと最近になり(この原稿を書き始めて)気が付いた。 彼もアナグマも、遺そうとして遺したのではない。 確かに彼は、私にとって「宝物」となる豊かな知恵や工夫を遺してくれた。しかし、それは彼が遺そうとして遺したものではない。彼の「生」の結果として、私の中に、雪が積もるように自然に遺ったものなのだ。彼はその時その時を懸命に生きたのだ。ただ懸命に生きただけでなく、自我を離れ「誰かのために」を中心に据えて生きたに違いない。自分が死んだ後に奥さんが困らないようにと、墓の手配までして。 私は「遺す」ことを目的として考えた。決定的な違いである。モラロジーの格言61「無我の心はじめてよく良果を生ず」は何回も読んでいたはずである。しかし、何にも分かっていなかった。自己に執着した心を持っているから、「物事を正しく見、正しく考え、正しく行動すること」が出来ないのだ。自己への執着なのだ。弔辞で「彼に行くな」と呼び掛けたのも、彼の気持を忖度せず、自分の思いだけを優先させた「執着」だったのだ。遺そうするのではなく、生き方が結果として遺るのだ。彼の「無我の心」が私に「良果」となって遺っているように。
市立図書館の階段の踊り場に、彼の描いた絵が今でも掛けられている。時折行って彼に語りかける。次に行ったとき彼に聞いてみよう。「遺そうとして遺すんじゃないんだね。自己に執着してはいけないんだね」。きっと彼は笑いながら答えるだろう。「しょうがない奴だ。今頃わかったのか」と。
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