「千の風になって」

                                       平成19年5月     
                                   ひたち生と死を考える会会友:S.K

 私は今26歳の主婦です。1ヶ月前、赤ちゃんが産まれました。
この子には、この子が生まれる18日前に天使になったお兄ちゃんがいます。
そして私は今、「千の風になって」のステキな出会いに感謝しています。

 私の息子は、H19年3月26日に4年7ヶ月の短い一生を終えました。
 私達は、息子が いなくなった現実をなかなか受け入れる事が出来ず、心に大きな穴が開き、
時が止まったようで、悲しんでばかりでした。そんな私達に、母がこの歌に出会い、私達にも
聞かせてくれました。
 涙が止まりませんでした。
 風になり、光になり、雪になり、鳥になり、星になり、私達を見守ってくれているんだね。
自由になれたんだねと思えるようにしてもらいました。悲しくて、見られなかった空を見る事
も出来る様になりました。
 このエピソードを書こうと思ったのは、息子がこの世からいなくなって四十九日の時でした。
 テレビでこのCMを見て、この世にこの子がいたことを沢山の人に伝えたいと思いました。
息子の為にと思いました。それまでは喪失感でまったく気持ちの余裕がなく、辛い思いを抱え
たまま、あの子のいない世界をどう生きればよいのか、泣いてばかりでした。
 まもなく、次男が生まれました。あまりにもそっくりな兄弟で、生まれ変わってきたのかと
思うほどです。この子の存在には本当に助けられました。この子がいなかったら私はどうなっ
ていただろうと思います。 何とか、この子の為に頑張ろう、お兄ちゃんの思い出と一緒に育て
ていこうという気持ちになりました。そして、生まれた子の為にも書いています。
H14年8月24日 午前8時28分
  2426g  この世に産声を上げました。 少し小さめだが、良くおっぱいを飲み、元気が良いで
 す。と助産婦さんに言われました。
  抱いて歩くと見る人が皆かわいい赤ちゃんといってくれて、自慢の息子でした。 離乳食も
 もりもり食べ、早くから寝返りし、あやすとよく笑い、みんなに愛され、可愛がられて、す
 くすく育ちました。どの写真を見てもいつも、とびっきりの笑顔でポーズを取っています。
H16年3月  (2歳7ヶ月)
  息子に異変が起きました。目の動きが悪いと思ったので、初めは斜視ではないかと思い、
 眼科に連れて行きました。
28日 視力検査をし、その日はわからないまま、明日小児の先生が来るとの事で、予約をして
 帰りました。(初めての視力検査を上手に楽しそうにやっていた息子をすごく褒めたのを覚え
 ています。)
29日 息子に何もない事を願い、3人で大好きなディズニーランドに行きました。夕方、眼科
 へ、やはり斜視ではないか、しかし心配なので、こども病院を紹介されました。
30日 こども病院へ 眼科→精神科→脳外科とまわされ、CT検査の結果腫瘍の疑いと言われま
 した。 MRI検査が必要と言われ、次の日の予約を取りました。
31日 こども病院にてMRI検査 昨日同様、親から離れ、めそめそしながら看護婦さんに連れ
 られて、処置室へ入って いき、私達はドアの外で待ちます。息子の大きな泣き声が聞こえて
 いました、初めて の事で、心配でいても立ってもいられませんでした。 少しして、涙を流
 し、点滴をし、麻酔でふらふらになっている息子が出てきました。看護婦さんにMRIをする
 ので、寝かせるようにと言われました。少しだっこしてトントンしたら、いつもならすぐ寝
 てしまうのが、この日は全然寝ません。緊張や不安でうとうとしても頑張っていました。そ
 して、点滴から薬を増やされ、起きている事が出来なくなり、眠りにつきました。そのまま
 検査室へ連れて行かれました。 神社でお守りを貰い、母も来て、きっと大丈夫だよね。と祈
 りながら私達両親と息子を待ちました。 MRI検査はすぐ終わりましたが、沢山薬を使ったの
 で、まったく目覚めませんでした。寝ている息子のわきで私達は結果を待ちます。
  しばらくして、看護婦さんに結果が出たと言われ、脳外科の部屋へ、私達両親と私の母の3
 人で結果を聞きました。 MRI画像を見ながら先生が色々と説明をしました。 そして先生が
 一枚の紙に病名「脳幹部腫瘍」、 脳幹部→意識、口、目、呼吸、顔を動かす神経、運動、心
 臓、血圧、感覚神経の通り路。手術は出来ない、悪性度が高い、良性で約1年くらいと書き
 ました。 目を疑いました。全身の力が抜け、目の前が真っ暗になり、立つ事も出来ない程の
 ショックでした。涙が止まりませんでした。それからの先生の話は思い出せません。ただた
 だ1年、と言う事に泣いていました。 明日からでも放射線治療が良いとの事でした。しかし
 こども病院では今、放射線機械の入れ替えの為使えないので、大学病院を紹介されました。
 先生の説明が終わり、私達はこのショックのまま息子の前に行けないので、少し外へ行き、
 パパと母にきっと大丈夫だよ、息子の前では泣かないよ。と言われ、私もそう決めました。
 息子の寝ていた部屋に戻りました。いつもと変わらないかわいい寝顔でした。みんなでただ
 ただ見つめていました。息子はまだまだ起きそうもありませんでした。
  一緒に話を聞いていた看護婦さんに「お母さん大丈夫?」と言われ、私は無理に「はい。」
 と答えました。そして看護婦さんは「同じ思いのお母さん達が沢山集まる小児ガンの会とい
 うのもあるから、行ってみるといいですよ。」勧められました。きっとそれが優しさで言って
 くれたのは分かったのですが、小児ガンという言葉にまた衝撃を受けました。その日の息子
 は薬でふらふらでした。病院や検査ばかりで少し疲れもあり、ぐったりしていました。
4月1日 大学附属病院へMRIを持参し、先生の話を聞きました。 やはり、脳幹部の手術適
 出は難しいとの事、そこを取ってしまうと、植物状態になる、目は覚めないでしょう。 しか
 し放射線照射もリスクを考えるとまだしないほうが良い、放射線はなるべく2才ではなく、3
 才、後の方が良い、腫瘍の部分だけ照射するのは難しく、他の細胞まで死んでしまう。腫瘍
 が大きくなってからの方が効く。抗がん剤治療が良いでしょう。といわれました。そして、
 4月8日に再度受診し、5月6日にもう一度MRI検査をしましょう。 いずれにしても完治
 する望みがもてない状態です。と厳しい言葉。これが現実なのかと、なぜ息子が、落ち込み
 ました。
  でも今 こんなに元気。あんなに毎日遊びたがっている。みんなでどうにか治れと願って、
 楽しい事沢山させてあげよう。息子が死んじゃうわけない。と言い聞かせ、それからはみん
 なで必死に息子を思い続けました。息子が好きな人達と好きな所に沢山行きました。動物公
 園、マザー牧場、こどもの国・・・・・。
  毎日息子が寝てからはインターネットで病気の事を、色々調べました。何日も何日も、そ
 して、 色々な所の病院を回りました。
  そんな時テレビで、福島孝徳先生と言う「神の手」を持つと呼ばれる世界トップの脳外科
 医がいる事を知りました。一筋の光が見え、なんとかその先生に診てもらおうと、先生の本
 を読んだり、電話をしたり、何通も手紙、FAXも書き送りました。周りの方々や家族の協力
 もあり、福島先生の同僚の先生がいらっしゃる病院、東京女子医大、聖麗メモリアル病院、
 森山記念病院にも受診しました。皆さんMRIは福島先生に送っておきます、と言っていまし
 た。 そして息子の事は口を揃えて、厳しいと。放射線照射により、一時的な腫瘍の縮小は
 得られるが、治療効果は極めて不良で、1年生存率は50%程度、そして、副作用がかなりあ
 る。苦汁の選択である。
  このまま治療しなければ死の可能性大、 後、水頭症になる。 東京女子医大では、腫瘍の
 悪性、良性度が分かるPET検査をしましょう。と言われ、岐阜県まで行きました。やはり何
 度も点滴され、この検査を何も知らずに頑張っている息子が可愛そうでした。頑張っている
 姿を見てはいつも、どうか助けてあげたい、出来る事なら代わってあげたいと言う気持ちで
 いっぱいになります。
  結果は数日後東京女子医大で聞くことになりました。
  結果、今は悪性ではない事が分かりました。東京女子医大の先生の治療方針は非常に積極
 的で、まだ小さい息子には酷なものでした。 そして大学病院の先生にもPETの結果を見て
 もらいました。大学病院の先生の治療方針はまだ小さいので、今すぐどうこうせず、様子を
 見つつ、と いうものでした。私達両親は、話し合い、2ヶ月に1回受診し、半年に1回MRI
 と撮影という大学病院のやり方に決めました。
 
  そして、何事もなく、病気の事など忘れてしまいそうなくらい毎日楽しく、息子と過ごし
 ました。 サファリパーク、市原ぞうの国、ディズニーランドが大好きでした。何度も行きま
 した。2ヶ月に1度の受診でも、先生の部屋では寝たふりをし、仲良くにお話ししようとは
 しませんでしたが、先生は元気で驚いていました。
  あっと言う間に1年が過ぎ、3才になりました。この頃では、MRIの検査の時の点滴の注
 射も見ないように反対を向き、静かに涙を流し、我慢するようになっていました。検査では、
 やはり少しずつではあるが、腫瘍は大きくなっているとの事。確かに少し、歩きづらそうで、
 よく転ぶようにはなったり、上向きでは息が苦しく、眠れなくなっていました。先生は医者
 として、治療も考えてみるよう、私達に言いました。 私達両親は話し合い、今の息子の笑顔、
 元気を奪ってまで治療をさせるつもりはありません。と告げました。 治療をしても治る可能
 性はないのです。リスクのほうが高く、副作用で苦しめたくありません。自然な物で、無理
 なく試せる物は試して、自然治癒力にかけていました。
  私達みんなの思いが通じているかのように、本当に元気で4才になりました。そのころ、
 二人目が出来た事がわかりました。息子にその事を話すと、初めは不思議そうな感じでした
 が、そのうちお腹に「お兄ちゃんだよー。」や「早く出てきて遊ぼうねー」とか、弟だと分
 かった時は「おもちゃかしてあげるからねー」と話しかけたり、私と一緒に名前も考えてく
 れていました。


  幼馴染のお友達とプールにも通い始め、他のお友達と英語のレッスンをしたり、4月からは
 幼稚園か保育園にも普通に通えるなあと、私は楽しみにしていました。でも何度か、息子は
 本当に病気なのだろうか、本当にもうすぐいなくなってしまうのだろうか。と考えてしまう
 事がありました。医師に宣告された日から、いつかは来るかもしれないと心のどこかからは
 消えず、時々落ち込みました。その事はあまりにも想像を絶する悲しみで、耐える自信もな
 く、そんな事絶対に経験したくない。と考える事でさえ、逃げていたかもしれません。考え
 ることが恐怖そのものでした。
H19年3月1日 パパの誕生日(4歳6ヶ月)
  プールで元気に泳ぎ、先生に「本当によく話を聞いておりこう。潜るのも上手になりまし
 た。」 家ではパパの大きなチーズケーキを大喜びしながら、つまみ食いをする。
3月2日 午前中ママ産婦人科へ
  「一緒に行くー?」と聞いたら、「ババと探検ごっこをしながらお留守番。」と言われる。
 帰ってきて一緒にお昼寝。 夕方ばばと3人でお買い物。プレイランドの風船の中で元気いっ
 ぱい遊ぶ。そして夕食、大好きなコロッケ。大きいのを2つぺろりと食べ、チョコアイスも
 食べる。本当に息子は何でもよく食べる良い子でした。そしていつもと変わらず、「ママずっ
 と大好き」と言って一緒に寝る。
3日 夜中2時頃
  あまりにもゼイゼイして、苦しそうなので、何度も痰をペッとさせる。珍しく上手に出来
 る。2人ともほとんど眠れなかった。何だかおでこが熱いなと思い、4時頃熱を計る。38.0
 くらいあり、冷えピタをし、水分を飲ませ、何とか寝せてあげようとした。6時頃パパがポ
 カリを買いに行こうとする。いつもは朝は機嫌が悪く、パパとは話そうともしないのだが、
 この時は行かないでとばかりに、パパの足をがっちり両手で掴んでいた。やっと少し眠る。
9時
  「目を覚まして、辛そうだったら病院行くね」と私が言い、パパは仕事へ行く。そのすぐ
 後、息子は目を覚まし、ボーっとしているが、少し元気がでたのか、おもちゃをバックから
 全部出し、笑って、遊びだす。そして、ポカリを飲み、ヨーグルト、チーズケーキを食べる。
10時30分
  熱が高く、インフルエンザかもしれないと思い、病院へ連れて行く。
  いつも通っていた、漢方医の先生に「顔色が悪い、すぐに大学病院へ行きなさい」と言わ
 れ、連れて行く。
  大学病院で先生に診てもらった所、ゼイゼイがあまりにもひどく、酸素濃度 が少なく、心
 配なので入院しますか?と聞かれた。私はいつもの風邪と思っていたので、戸惑ったが、母
 に言われ入院する事にしました。血液検査や点滴をする為、なるべくならかわいそうなので、
 点滴もしたくないです。と私は言っていました。処置室へ入り、お母さんは出ていってくだ
 さい。と言われ、 しぶしぶ出て行きました。病室に案内され、息子が戻るのを母と待ちまし
 た。しばらくして、先生に肺炎です。もどしたので、着替えを下さい、と言われました。そ
 して、点滴を付け、ぐったりとした息子が入ってきました。昨日の夜はあまり眠れなかった
 ので、寝ているのだと思いました。1時間に1度看護婦さんが吸引をしに来ます。うつぶせの
 ままにして下さい。と毎回言いました。何をされても息子は寝ていました。パパが仕事を早
 退して来る。
  そして、19時頃回って来た看護婦さんが吸入を始めた途端、息子の体は震えだし、痙攣
 したのです。 先生達が沢山来て、点滴から痙攣止めの薬を注入しました。まだ治まりません。
 また薬を入れました。少し落ち着いたかと思ったら、また震えだしました。私は息子の体を
 必死に抑えました。また薬を入れられ、息子は深い眠りにつきました。 夜、脳のCT検査が
 ありました。脳腫瘍は変わっていないので、その為ではないと言われ、皆で少し安心しまし
 た。
  その日は私とパパで病院に泊まりました。心配なので、一人は起きているようにしました。
 夜中も何回も吸引がありました。
3月4日朝方、
  息子の手足が少し冷たいような気がして、看護婦さんに言いに行きましたが、そんなに心
 配しなくても大丈夫ですよ。と言われ安心して病室に戻りました。少しすると、酸素濃度を
 調べるのに付けていた機械がピー ピーと鳴り出しました。ナースコールで看護婦さんを呼び、
 吸引しました。再びピーピー鳴り出す。看護婦さんが何人か来る。そして先生を呼ぶ。「心臓
 止まってる」と先生が叫ぶ。 大勢先生方がきて、心臓マッサージ、人工呼吸と治療をする。
  私はあまりのショックで驚き唖然とした感じでただ涙を流していた。私もパパも昨日から
 毎回仰向けでは息が出来なくなる事を、言わなくては看護婦さんが知らない事や、朝、私が
 聞きに行った時、大丈夫だと言った事で、少し不安を抱いていた時にこうなったので、パパ
 が「心臓止まってるってなんだよ、大丈夫なのか。」と怒鳴った。
  その後は口から人工呼吸器を付け、鼻からも管が入り、両腕、太もも、足首から、何本も
 の点滴が付けられた。そして薬で眠らされていました。
  息子はまだ一日目覚めませんでした。血圧は安定してきていたが、体温40度もあり、体中
 冷やしていました。 夜、脳外科の先生も来て、両親、祖父、祖母と今後について話しがあっ
 た。
  息子の現在の状況は、もう薬もとっくに切れていて、いつ目覚めてもいいのですが・・・。
 今後の治療についての説明があった。 
  皆かなりのショックを受けた。 奇跡はある、皆で頑張ろうと団結した。 この日はジジと
 母が泊まった。
  私は臨月の為、簡易ベッドで泊まる事が出来ず、夜だけ家に帰った。でも、目覚めた時に
 は側に居てあげようと努力した。 それから熱も下がり、血圧も安定してきて、体のなかの臓
 器はよくなってきていますよと先生が言った。
3月13日(入院11日目)
  脳波の検査の後、脳波の反応がない、目の反応もなし、瞳孔が開いている。やはり根本は
 脳幹部 の腫瘍なのでかなり厳しい状態。後は、心臓の力がいつまで続くか何日か、何週間か、
 と言われた。
  息子の為に、苦しいような治療(薬)はやめたほうがよいとのことだった。もしもの時、
 医療方針として、心臓マッサージ、電気ショックをするかなど、話し合っておいて下さいと
 言われた。
  それを考えるのはつらい、そんなの決められない。皆で何度も何度も話し合い、無理な治
 療はしない事に決めた。

  点滴も少しずつ少なくなっていき、嬉しかった。あとは脳が動き出せばと願っていた。
  今までのように一緒に聞こうと、大好きなウルトラマンのCDをパパが買ってきた。それ
 をいつも一緒に聞き、好きなテレビの時間には前と変わらず、話しかけながら一緒に病室で
 見ていた。
  わかっていたかなぁ。皆、沢山息子触った。そして話しかけ、頑張っていた。私は毎日体
 拭き、 パパはベッドの上でシャンプーをした。その時の息子のほっぺはピンクになり、私達
 には少し笑っているように感じた。ジジは息子と毎週土日に行っていた自転車での探検の話
 をしたり、私の母は本を読んであげたり、かさかさになった手や足にクリームをぬったり、
 ババも一生懸命話かけ、息子の所に通った。
  神様  皆の願いをどうか、助けて下さい。
  それからは状態も変わらず、息子の寝ている病室に来て、一緒にいるのが普通になってい
 た。
  でもいつ目を覚ましても不安にならないよう、ジジが持ってきてくれた、大好きな探検ポ
 スターを天井に貼ったり、枕元にはお気に入りのおもちゃを置いたり、していた。
3月25日 (入院23日目)
  看護婦さんから血圧が少し低い、オシッコも昨日より少ない。と言われた。と朝方泊まっ
 ていたジジから連絡がある。すぐにどうこうではないが、血圧が60を下ると心配とのことで、
 早めに病院へ。この日パパと私と私の弟の3人で病院に泊まった。
3月26日
  夜中、何度も看護婦さんが来て、血圧を計る。上が40台、下は低く、計測困難でした。
  朝5時頃、酸素濃度も下がりだす。
 6時10分  血圧 上38 顔色が悪い、 私は息子の顔と手を撫でていた。
 6時50分  手が冷たい。  弟は皆に早く来るよう連絡していた。
 7時50分  皆が病室に着く。  血圧20くらいまで下がり、皆涙を流しながら、息子の
        名前を呼び続けた。
 7時55分  天国へ
  すべての管が外され、自由になった。 私はお腹が大きくなりだした頃から息子をあまり
 だっこしないようにしていた。赤ちゃんが産まれたら思いっきりだっこしてあげよう。
 と思っていた。 久しぶりに、この時だっこした。すごくご飯をもりもり食べていたので、重
 かったけど、入院中に少し痩せて軽くなっていた。でも、まだあたたかかった。お風呂に入
 れ、パジャマから洋服に着替えさせ、いつも私が使っている化粧品で、少しだけお化粧をし
 た。いつもと変わらない寝ている息子の顔だった。
  病室での息子は目を覚ます事がなかったけれど、毎日毎日息子の待つ病室に行く事は 苦で
 はありませんでした。治ると信じていたから。今日は目が覚めるのではないかと思い、息子
 がそばに居る事だけで安心出来ました。
  病院から家へ、息子の愛車でパパとママの間にだっこして、久しぶりに病院の外へ行きま
 した。ジジと大好きだったお散歩コースを皆で周り、最後のお散歩をしました。とても穏や
 かな顔をしていました。目が開かない、おしゃべりしないのが悔しくて仕方ありませんでし
 た。
 

  入院中、私は2つの夢を見ました。
3月23日に見た夢 
  陣痛が来て、息子も一緒に皆で産婦人科へ、大きなプールの中での出産 私が生まれ
 そうで苦しんでいる周りを、息子は「ママ頑張れー」と応援しながら得意にスイスイ泳ぐ。
 息子には大きな羽が生えていたように思った。
3月24日に見た夢
  主治医の先生と一緒に息子がお家に帰ってくる。
  先生「もうすぐ目が覚めますよ。」    私「あっまぶたが動いた!!」一生懸命名前
  を呼び、「よく頑張ったね。」と抱きしめる。 息子はまだ呼吸器を付けている為、深く
  うなずく。
  皆に話した。
  正夢になれと強く強く願いました。

  息子はいつもいつも笑っていました。そして私達に数え切れない幸せをくれました。
 本当に色々な事を教えて貰いました。もっともっと一緒に居たかった。息子の笑顔を
 見ていたかった。
 大きくなったらパン屋さんになりたいと言っていました。
 時がたっても、悲しみが癒える事はありません。
 息子は天国で大空で大好きな歌をうたっているのかなぁ。
 またいつか会いたいな。 

  二年前に病気を宣告され、それからは皆で息子の為に出来る事は精一杯してきました。
 そんな皆の思いに応えてくれているかのように、いつも元気で優しく、本当にかわいい笑
 顔でいてくれました。まだまだ色々な事をさせてあげたかったです。 一緒に過ごす時間も
 もっともっとほしかったです。
  でも、息子が安心して、天国へ旅立って行けるよう、パパとママで手紙を書きました。

    

 みんなに愛され みんなの宝物だった我が子へ
    今まで本当に本当にありがとう。
    いなくなった事、信じられないし、考えられないよ。
    生まれてきた時も天使のようで、あなたは また羽をはやし、天使になってしまったん
    だね。
    パパと、ママの所に生まれてきてくれた事、 何より嬉しかったよ。ありがとね。
         夜、ママの耳に「ママずーっと大好き」って言ってくれた事、
    何もかもあなたとの思い出忘れない。
    天国にいってもお友達 沢山つくるんだよ。
    またいつの日か会える事を楽しみにしているよ。
    ずっとずっと宝物だよ。
    いつもいつも一緒だよ。安心してね。
    本当に本当にありがとう
    ずっとずっーと大好き


 少しずつは落ち着いて来てはいますが、やはり息子がいなくなった事実は一生なくならない
し、これからも続きます。愛する人を亡くした悲しみは一生なくなる事はありません。
 急に涙が出る事、何もかもイヤになりそうな時、「千の風になって」を聞きます。初めは風な
んかいや、会いたいと思っていましたが、泣きながら何度も何度も聞きました。何度聞いても
心に染み渡ります。 また聴くたびに、風を感じては新たな気持ちになれます。
息子は不自由なく、大空を羽ばたいていると。思い切り泣いて、そして、乗り超えていきます。
本当に助けられました。辛く悲しいのは私だけではないのです。
息子はいつも一緒です。一緒に前を向いて歩いていかないとね^^
沢山の周りの人達の励ましに私は支えられ、息子も精一杯生きました。 本当にかけがえのない
4年7ヶ月でした。 皆の心の中で生き続けます。 本当に 本当にありがとう。 

 息子の四十九日に私達は皆で息子の事を思って、「千の風になって」を何度も聞きました。そ
して、思い出を話し、みんなで涙を流しました。でも、お墓の前では泣きません。
 
 息子は、次男をプレゼントしてくれました。次男にはお兄ちゃんのように、なんて決して誰
も言いません。この子はこの子なりに元気でいてくれさえすればいいのです。みんなそう思っ
ています。
 
 去年10月、ジジと息子でスイトピーの種を蒔きました。私と一緒に何度もお水もあげました。
この春にその花が咲きました。今年は全部が色の無い真っ白な花でした。ところが、次男が生
まれた途端に、みんなピンクの花に変わりました。不思議な事があるな、と皆で驚きましたが、
きっと、あの子が天使になってプレゼントしてくれたのだと思っています。
 兄弟2人とも私の宝物です。 そして、次男の子守唄は「千の風になって」なのです。
 今日も「千の風になって」を聞きながらすやすやと眠っています。

* 読んで頂き有難う御座いました。
 テレビドラマ「千の風になって」のエピソード募集用に何時間かで勢いで書きました。
 文章がうまくいかず、読みにくいと思います。
 すみません。ただただ皆様に息子がいた事を伝えたい一心です。         
   宜しくお願い致します。

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