***高木技術研究所***

友人よりの手紙(石川廣志氏より)

 石川廣志氏は昭和34年に小生が日立製作所に入社したときの寮の同部屋先輩である。 最近、兎平寮103号室会を行ったときに、姉が一戸家に嫁している話をし、 彼女の「ひこばえ」の寄稿集を手渡したところ、次のような手紙がきたので紹介する。 南部藩に近い秋田県出身である氏に軽い気持で、姉の寄稿集を紹介したのであるが、 このような興味ある手紙を戴くとは思いもよらなかったのである。

以下は、石川廣志氏からの手紙です。

 新座市在住の実姉の一戸美代子さんの「ひこばえ」掲載の投稿集を、大変興味深く読ませていただきました。  お姉さんは、昭和5年生まれとのこと。父を6歳の時(昭和17年)亡くし、 父代わりの兄が昭和5年生まれであることも 不思議な縁を感じます。 また、小生は、次男故、自分の墓地を新たに設ける必要があり、数年前に、隣の新座市に設けました。 これも、何かの縁を感じます。  さらに、興味深いのは、御主人の一戸家についてです。 現岩手県の南部藩の南部家は、八幡太郎義家の新羅三郎義光の流れで、義光の長男が常陸の国の佐竹氏の祖であり、 次男が甲斐の国の武田氏の祖であります。この武田氏の流れが、南部氏の始まりです(南部氏の謂れとなる名前は、 現在も山梨県の富士川流域に、南部町として残っています)。 因みに次男の武田氏も甲斐の国に移る前は、常陸の国におりまして、旧勝田市の日立工機のある地域が武田の 地名として残っていることから、あるいはこれが武田氏を名乗る元ではないかとも云われております。   実は、我が石川家も南部家の流れのようで、「故南條範夫(作家で大学教授)の説によると、現在の青森県と 秋田県の一部は南部家の所領であって、「三日月が丸くなるまで」と云われるくらい、所領が大きかったようです」 石川氏を名乗り、津軽地方の探題的な役目をしていたようです。  当時,秋田には、奥州の大豪族の阿倍貞任の流れである安東愛秀(後に秋田を名乗る)が独立しており、青森には、 藤原秀衛と陸中の豪族久慈氏の流れを汲む大浦為信(後に津軽氏を名乗る)がいましたが、 これはあくまでも南部氏の支配下での位置でした。  ところが、大浦為信が南部家に反旗を翻し、南部氏の出先機関である、我が祖の石川城を急襲、 陥落させ名実ともに津軽地方の支配者となったようです。  その時、石川城から逃れた我が祖で、青森(津軽)から隣領の秋田(当時は南部領の鹿角地区) の山間に隠れ住んだのが始まりだったようです。  明治の中頃までは、部落30数軒全員が石川姓で、庄屋名主を務めていたようです(亡母からの又聞きですが)。 従って、我が家が、現大舘市の名刹「玉林寺」の檀家総代になっていることからも納得されます。  
…途中略…
 脈絡のない話になりましたが、歳とともに、茨城県、秋田県に関わる佐竹氏、 そして我が先祖に関わる南部氏に関心が高まり、興味のあるところを抜き書きしました。  
…以降省略…

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