***高木技術研究所***

「ひこばえ」より抜粋
「母の遺作文」(一戸美代子著)
「平成元年十一月三十日の手紙より」


 徳島県民文芸作品募集に応募したところ、小説が佳作入選したとの知らせが、 町役場から届いた。その日は、1週間前、大阪の次女.宗正富士子五十一歳をガンで亡くしたばかりで、 毎日身代われるものなら代わってやりたいと思い、泣いて暮らしていたところへ、 嬉しい知らせが舞い込んできたので、神様になった娘が守ってくれたのではないかと思った、と書いてあった。十一月二十六日の農業祭に表彰式があってから、元気に暮らしていたが、平成三年四月一日、七十七歳で心臓病で急死した。 その年の町広報に、家伝小説は掲載されたが、母の目には届かなかった。

 家伝…残しておきたい我が家の過去……高木フサ子

  私は昭和四年、柏木家から十七歳で高木家に嫁入りしてきました。現在、平成元年八月で七十六歳になりました。 高木家は、昭和三年に火災にあって大変苦しい生活でした。度々の火災のため過去帳もなく、お寺も焼けたらしく先祖のことがわかりません。 義父から昔話を聞いたり、長女が高野山へ行って先祖の戒名などを調べてくれたり、 生名の森の分家の協力もあって、だいぶん解ってまいりました。元祖.長左右衛門は、元禄二年に死亡している。一代目の長左右衛門は何処から来たか分かりません。鉱山師で来てこの地に住みついたという。二代目は、小一左右衛門です。3代目は、伊勢右衛門です。ある日、よそから帰る山の坂道で、娘さんに出会い、カラスが交尾するところを見て、「あれを見たら大変良いことがあるという事だから、あなた私の嫁に来てはくれませんか」
と頼みますと、娘さんは「はい」といって約束して、夫婦になったという。伊勢右衛門は、殿川地に蜂須賀様の御用林があって、その木を切り出し、三十人の人達と共に、イカダを組んで川を流して一年近くかかって送り届けたという。送り届けるまで家に帰れなかったということです。
 お金ができると人に妬まれ、家を焼かれて明くる年新しい家を建てたが又焼かれた。三年目に、三度目に焼かれた時には、外から釘付けにされて閉じ込められ、戸を破って出てきたそうです。祖母が、「孫は」というと「奥に寝かしてある」と言う。危なくてもう家に入れないというのを押し切って「死ぬのなら孫と一緒だ」といって、飛び込んで行って援けだしたとたん、家が崩れ落ち、やっとの思いで助かったそうです。 その時の孫の三左右衛門は三歳だったという。その時、伊勢右衛門は留守だったので知らせに行くと、玄関のある家の図面を作って「こうした家を建てよ」といったので、留守の間に家を建てた。伊勢右衛門が帰った時には、新しい家が建っていたという。その後、伊勢右衛門は福原村で初めて倉を建てたという。旭の大内時太郎さんが7歳の時、「キジヤのお大師さんに行けば、高木の倉が見えるから見せてやる」といって、連れて来てくれたそうです。この伊勢右衛門は、百三歳まで長生きしたようです。四代目は弁三です。この人は「苗字帯刀」が許されました。長男に嫁を貰うと、次男を連れて勝浦町久国の森という所に分家をした。田畑を五町歩持っていったという。五代目.三左右衛門は、板野郡松茂村の旧家、今の三木与吉郎さんの家の仲人を頼まれ、町へ七日間お稽古に行ったそうです。 六代目.弁八郎は子供がなくて、野尻の上野さんから七歳になる延太郎を養子に貰ったが、妹が一人生まれた。娘は傍示の田村さんへ嫁にいったが、娘も田村家で子供に恵まれなかったようです。七代目.延太郎は、家を継いで家の東地の方に大きな畠を開いた。8代目.房太郎は、藤川横石家から来た人で養子です。剣の達人で教えていたようです。この人は、勝浦郡で唯一人紙奉行をしていたという。那賀郡へ行っては紙を仕入れて、郡内の店々へおいていき、お金を貰ってはお殿様に送り、自分の稼ぎ分を貰ってくるという仕事だったようです。 ある時、娘を連れて京都見物に行って、娘を籠に乗せて自分は歩いていた。すると、急に、駕篭かきが娘を積んだまま走り出した。追っていくとある宿に着いた。三十人の人に取り囲まれたが度胸に恐れを出したのか、宿の主人が出てきて謝り、子分たちに、「阿波者には手をかけるなといっておいてのに」と激しくしかったという。 さすがの房太郎も、三十人に囲まれると少しは心配だったことでしょう。またあるとき、房太郎は夜の二時頃、横瀬町へ油を買いに出掛けようとしたところ、向こうの山で犬の鳴き声がするので、「あれは」と聞くと、「あれは山犬だよ」と言って、さっさと平気で出て行ったという。 ……以下省略……

TOP PAGEへリンク