台湾を旅して
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  平成24年9月に尖閣諸島の問題が起きた。その一ヶ月後に中国桂林に行き、その時のことを“中国桂林を旅して(私の偏見)”と題して雑記帳に載せた。物見遊山で行ったのだが、中国事情の不自然さが気になって、書き留めて「雑記帳」に掲載した。

 実は、その半年前(平成24年3月)に、台湾をぐるっと回るツアーに行って来たのです。この時は、本当に物見遊山で、あゝ楽しかったで済んだ旅行でした。しかし、後で行った中国との差が余りに大きいので、これは記録に残さねばならないと思ったのです。2年近く前のことですが、思い出して纏めてみました。
 何が違うか…ですって、それは「親日反中」です。端的な例は、東日本大震災の復興の為に200億円もの義援金(世界一の金額)を出してくれたことで分かります。中国は、マナーの悪さが日本人と段違いである事などで中国人を嫌う人が多いのです。政治的にも当然違いますが・・・。

 ついでに申し上げますが、実は、台湾は私の生誕地です。それに仕事で台湾に何度も行きました。(延日数約500日)  そんな台湾を懐かしく思いつつ、家内と一般のツアー客になっての旅でした。
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(写真をクリックすると大きくして見ることが出来ます。)
 
  平成24年3月17日
 茨城空港11:00発ー台北13:50着。茨城空港発着なのでとても便利になった。朝8時に家を出たら集合時間の9時には余裕で間にあった。空港の駐車場は無料だし、手続きも混み合ってないので国内旅行の感覚だ。
 会社時代に台湾との縁が有ったとは言え、最後に行ったのは今から20年前だからふたむかし前のこと、何から何まで変わっているだろうなと想像をめぐらしていると、いつの間にか台北の桃園空港に着いた。桃園は私の生誕地、昭和40年頃、一度訪ねて行ったら、父を知っている人がいて、ここがあんたの生まれた所だよと、学校の寄宿舎に案内してくれたことを思い出した。(台湾新竹州桃園郡)懐かしい。
 今日の旅程は台北駅から列車で花蓮まで
行くので台北駅(写真)を経由した。45年前、初めて台湾に来た時 高尾までの移動が列車だったので台北駅を利用した。その時は一人旅で本当に心細い思いをした。その後はすべて飛行機だったので今回が2度目の台北駅利用となった。どこかに昔の面影がないかとキョロキョロ探したが流石に何も無かった。列車で2時間程で花蓮駅に着いた。花蓮では、広東料理を食べながら台湾原住民の踊りを見て過ごした(写真)。
 
  平成24年3月18日
 二日目は、花蓮から台湾の東海岸を南下して高尾へ回るコース。花蓮には太魯閤(タロコ)という断崖絶壁がある。以前から一度行って見たいと思っていた所だった。浸食でできた大理石の奇岩怪石がいっぱいで燕子口の断崖(写真)は圧巻だった。その後、東海岸沿いに南下、台東の三仙台の海岸(写真)などを眺めながら、バスの旅を楽しんだが、印象的だったのはバスガイドの李さんである。勿論、台湾の方ですが、日本にも研修で来たことがある50代(だと思う)の女性。長旅のバスの中で退屈しない様にと、色々、台湾の話をしてくれた。景色より、李さんの話の方が興味深かった。先ずはこうであった。
 「台湾は日本の統治のことを悪く思っていない。」「日本と戦争したわけでない。日清戦争の後、中国から割譲されたんだ。」と。また、「日本人は台湾で学校を造ってくれた。発電所を造ってくれた、国の土台を造ってくれた事を感謝している。」と。
 私の何回かの台湾出張時には、この様な話を聞いたことが無かった。明らかに、台湾は変わっていた。私がいた頃は、蒋介石から蒋経国の時代で、台湾の人は、中国から来た蒋介石などの外省人に植民地的に扱われており、全てにおいて内省人(台湾人)は差別を受けていた。私の行った国営の製鉄所でもトップは外省人、下働きは内省人と決まっており、内省人達は常に陰で不満をぶちまけていた事を思い出した。李さんは「蒋介石は逃げて来たのに、国民を苦しめ、虐げ、人を殺し、物を壊した。」と話してくれた。勿論、当時はこんな発言をしようものなら捕まったに違いないが、その後の台湾は、李登輝から陳水扁が出て民主化され、自由な国に変わって来ているのだ。
 この旅行で、こんな嬉しい話を聞くことが出来るなんて、全く予期していなかった。本当に嬉しかった。
 その現れが、東日本大震災の時に200億円もの義援金だと思う。台湾の地震の時に日本から貰った善意のお返しだと言っているが、それより何倍ものお返しだ。日本との友情の繋がりの大きさに驚かされた。台湾謝々。
 夕方、高雄に着いた。最後に来た時から20年も経っているから、随分変わっているだろうなと思っていたが中心街の大きなホテル(以前泊まっていた華園大飯店)や屋台の夜店(写真)は変わっていなかった。
  
 
  平成24年3月19日  
 高雄のホテルは華王大飯店、高尾市内を流れる愛河(写真)のほとり、昔泊まった華園大飯店から1km位離れた所。
この辺りの旧市内は昔の面影を十分残しており懐かしさが込み上げて来た。時間がなくて自由行動はとれなかったけれど。翌朝早く起きて愛河の周りを散歩した。夜はごった返している繁華街も早朝は人もおらず、静かに20〜40年前を偲ぶには最高のひと時だった。
 この後、午前は高雄市内の壽山公園と澄清湖を巡った。仕事で来ていた時何度も行った覚えはあるが、家内と一緒に観光で見る景色は格別違って見えた。当時は、この近くにある高尾澄清湖ゴルフクラブへよく通った記憶がある。

 壽山公園の中で、リュウガン(龍眼)の木があるのをガイドさんに教えて貰った。リュウガンは私が台湾で記憶の残っている果物の二つのうちの一つである(もう一つはバナナ)。当時の寄宿舎の庭にあった様で、木に登ってか取ってもらって食べた記憶がある。台湾に来た時は必ずこれを買って食べた。ライチに似た独特な味でとっても好きだ。今回もガイドさんに個人的に頼んで買って貰った程である。 

高尾市内の観光を午前中で終え、新幹線で台北へ戻った。          リュウガンの実  リュウガンの木

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  故宮博物館
 故宮博物院には、中国の歴代皇帝が収集した美術品など70万点がある。
 清朝が滅亡して「天」から正統を継承した中華民国が「民族の遺産の継承は国権の継承を意味する。」との大義名分でこれを守ったとされているが、早い話が蒋介石が台湾に逃げた時に持ち出したものだ。持ち出したのは総べてでは無いので現在は北京と台北の2ヶ所に故宮博物院がある。「唐三彩騎馬俑」(高さ38cm)や「翠玉白菜」(長さ18.7cm)(写真)が有名である。これを見るのに博物館内は四六時中見物客で満杯、特に、中国人旅行客が多く、整然とした行列が出来ないマナーの悪さを露呈しながら。まるで盗まれた自国のものを調べに来たという態度の様に思えたのは歪曲しすぎか。
 
  丸山大飯店
 この日のホテルは豪華に圓山大飯店を選んだ。以前は、とても手の届くようなホテルでなかったと記憶しているが、一度は自分をVIP待遇にしても良いかなとグレードアップを決めた。流石に豪華で、夕方から翌朝まで貴賓客になった気分だった。(写真左はホテルから見る夜景)
 
  平成24年3月20日
 旅行の最後は、中正記念堂だった。故蒋介石を偲ぶために建てられた白い大理石の純中国式巨大建築。建物内に蒋介石の坐像が置かれていた。中華民国の初代総統として君臨した人物である。
 私が台湾の唐榮鐵鋼(後の中国鉄鋼工處)に行った時は蒋経国時代だったが、蒋介石の影響は強く引き継がれており、日本人には、良いようで悪いようで良く分からない状況だった。ただ、私が仕事で関わった中堅どころの人たちは皆、本省人(台湾人)が常に虐げられていると悪く言う人が多かった。
 蒋介石に対する評価は分かれる。強力な指導力で中国と対峙したとして賞される反面、二二八事件における台湾人を虐殺したとか、上記ガイドさんの言う「国民を苦しめ、人を殺し、物を壊した。」との思いは強く残っていて、記念堂を良く言わない人が多いそうである。
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 この後、台北12:20発-茨城空港16:20着で予定通り無事帰着しました。
 李登輝の親日観
 最後にどうしても付け加えたいのは李登輝元総統のこと。彼は、親日で、民主化を大きく進めた人。台湾の多くの人が親日的になったのは李登輝の影響が大きかった。
 その李登輝が、総統を退いて十数年後の2013年2月、台湾桃園の国立大学で、「新時代の台湾 ー私の脱古改新」と題する講演をした時、学生の質問に次のように答えたとインターネットで見ました。
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 ●「(良い関係を維持したいなら)台湾はオレの物だ、あれはオレの物だと言った話はしないことだ。
   台湾は中国の一部と言わないことだ。」

 ●「中国は改革が必要だ。一番大切なのは民主主義の根を植えること。」
 ●「あなたに教えてあげます。尖閣諸島は日本の領土。」
 ●「尖閣諸島が中国領とか台湾領と言うなら、証拠を持って来い。」
 ●「清朝が台湾を日本へ割譲する際、尖閣諸島は台湾に属していなかった。」
 ●「中国人の思想は証拠がない場合が多い。もし日本領ではなく、台湾、中国の物と言うなら、
   その証拠を出してみなさい。歴史の真実を知って下さい。」
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 ちなみに、質問した学生は中国からの交換留学生だったとのこと。
 日本人の中にこれだけのことを言える人がいますかね。

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 おわりに:2年前の台湾旅行のことを今になって何故書いたかと思われますが、いろいろインターネットを見ている内に、李登輝元総統の話が目に止まったからでした。お読み頂き有難うございました。