
(筑波海軍航空隊記念館・満蒙開拓義勇軍資料館を見学して) |
平成30年11月29日 |
. 筑波海軍航空隊記念館
今年11月、OBの研修会で、筑波海軍航空隊記念館を見学する機会を得た。筑波海軍・・・と言うから つくば市だと思っていたが、何んと笠間市にあった。全国的にみても規模の大きい戦争遺構だというのに、近くに住んでいながら知らなかったとは不勉強でした。しかも、百田尚樹の映画「永遠のゼロ」の撮影ロケ地だったと言うことも・・・。
筑波海軍航空隊は1934(昭和9)年、戦闘機などの操縦訓練を行う海軍の練習航空隊として開隊されたのだが、戦況が悪くなった昭和19年から20年には「特攻」の訓練所になったとのことでした。生きて帰ることのない「神風特別攻撃隊=カミカゼ」に84名の若者が志願し、60名が亡くなったと記録されている。 司令部庁舎、地下戦闘指揮所や号令台などが当時のままの姿で残っており、また、館内にはゼロ戦の残骸が痛々しい形で展示されていた。両親に宛てた手紙(遺書)もあった。「・・・今や一切の邪念なく七生報国の赤心をもって・・・」と書かれていた。
特攻で帰らぬ人となった一人に、名古屋軍(現中日ドラゴンズの前身)の投手・石丸進一という人が居たと記録されている。昭和18年に20勝し東西対抗にも選ばれた大選手が、昭和19年春の学徒出陣によって筑波海軍航空隊に召集され、特攻隊として20年5月11日ゼロ戦に搭乗、沖縄方面の米国機動機部隊に向かって出撃し帰らぬ人となったとのことです(24歳)。
 |
 |
 |
旧司令部庁舎 |
旧司令部庁舎 |
司令室で説明を聞く |
 |
 |
 |
ゼロ戦の残骸 |
両親宛の手紙 |
両親宛の手紙 |
 |
 |
|
号令台 |
遠景 |
|
|
満蒙開拓義勇軍資料館
筑波海軍航空隊記念館から30分位い離れた水戸市内原町に、内原郷土史 満蒙開拓青少年義勇軍資料館がある。満蒙開拓団と言えば信濃の開拓団の話を思い出すが、義勇軍訓練所があったとは知らなかった。
満州の未墾の沃野で農業耕作が可能かどうかを探る為に試験移民として、14歳〜18歳の青少年が、ここ内原の訓練所で基礎訓練したのち渡満されていたとのことである。昭和13年から20年までの間で内原訓練所から8万6千人もの訓練生が渡満したそうである。しかも、戦争が拡大するにつれ、徴兵される年齢も下がり、訓練生たちも17歳、18歳になると徴兵(現地召集)され、多くの犠牲者が出たり、戦後シベリア抑留されるなど過酷な状況下におかれ、郷里に帰れなかった人が訓練生だけで2万4千人いたと言われている。
義勇軍の設立から満州での生活まで、また、町に残る義勇軍の遺産など、実物資料とグラフィックで紹介されていた。更に、義勇軍の往時の訓練拠点であった日輪舎の復元建屋を見学した。約60畳の床面積で、60名が寝泊まりしたとのことでした。
 |
 |
 |
復元した日輪舎 |
日輪舎内 |
展示資料 |
 |
 |
|
展示資料 |
展示資料 |
|
|
「戦争」のことや「平和の尊さ」を考える研修会でした。「語り継ぎ残したいもの」の 一つですね。. |