おかげで今がある
(自衛隊霞ヶ浦駐屯地・予科練平和記念館を見学して)
平成26年1月3日   
.
  昨年11月、OBの研修会で、期せずして自衛隊の駐屯地と予科練の記念館を見学する機会を得た。
たまたま、戦後の平和な時代に生を得て、たまたま、大きな災害に直撃されず、どちらかというと、
のうのうと生きて来たと言っても過言でない。
 ところが今、世界中で内戦や暴動・テロが起こり、日本でも、尖閣諸島や防空識別圏などの問題、
北朝鮮の核兵器、韓国の歴史認識などで緊張が高まっている。更に、自然災害については、震災ばかり
でなく、過去に経験したことがない台風・高潮・土石流・竜巻などの恐怖が地球規模的に起きている。
その上、原発事故の様な科学技術の裏側の、考えの及びにくい所で危険が起きている。
 こうした「有時」に、どう備えてきたかと問われれば、「漫然としか考えていなかった」と思う。
そんな中にあって自衛隊の存在は、今思えば、自然災害という「有時」に、大いに貢献したと言える。
昔、自衛隊不要論があった。安保反対、再軍備反対などの運動で、日本には軍備は要らないと。
 しかしもし、自衛隊の存在がなかったら、「有事」に誰が何をしてくれただろうか。
自然災害等で、自衛隊の対応があったればこそ出来たことが、少なくない。
 そんな自衛隊の霞ヶ浦駐屯地を見学した。

 予科練記念館は、忘れかけていた戦争の悲惨さと、人の心を変える教育煽動の恐ろしさ痛感した。
特攻隊出撃の短い映画や本物の遺書を見て、「この様な先達の犠牲の上に今の我々がある」ことを
改めて認識し、ただただ、戦没者のご冥福を祈るしかない思いで、合掌した。
.
自衛隊霞ヶ浦駐屯地
 昔は大日本帝国海軍航空隊(霞ヶ浦海軍航空隊)の拠点であり、霞ヶ浦海軍飛行場、海軍飛行予科練習生(予科練)があった。 また、第1海軍航空廠では、「桜花」など海軍戦闘機の開発が行われていた所であったとのこと。
 現在は、@陸上自衛隊の後方支援/関東補給処 及び A支援隊並びにヘリコプターのパイロットや整備員を養成する航空学校霞ヶ浦校、B首都圏の防空を任務とする高射隊とCそれらを支援する諸部隊からなっているとのこと。
 私たちは、駐屯地広報センターで、実際にイラクの戦時下へ派遣された体験を持つ60代(現在は現役引退)の方に案内されて、実際の任務についての話を聞いた。
 想えば、余り緊張の無い頃の自衛隊は、する事が無くて税金泥棒ぐらいにしか思っていなかったこともあったが、この案内者は、イラク戦闘下での平和活動の困難さや危険に遭遇した生の話をしてくれて、私の先入観をすっかり打ち消してくれた。日本国内や海外での災害被災地の緊急出動の任務に就いても説明があり、無くてはならない存在であることを初めての様に認識した。

 見学したところは、@自衛隊が所有する航空機(殆どがヘリコプター)の整備工場、A需品、火器、弾薬などの自動倉庫のある関東補給処、B地対空誘導弾の発射台の場所(空き地)、C隊員の食堂(昼食とも)であり、移動の途中には、ヘリコプターの操縦訓練らしい様子も見ることができた。
整備工場 整備工場 広報センター

.
予科練平和記念館と雄翔館 
 阿見町の霞ヶ浦湖畔に予科練平和記念館と雄翔館がある。戦前、戦中全国19ヶ所にあった予科練教育の中心的存在。 平和記念館は平成22年に開館、昭和5年に開始された14才〜17才の少年を全国から選抜して教育した「海軍飛行予科練習生」の歴史・資料などが展示されていた。展示の最後は、特攻隊出撃の実録映画も短いながら有り、若い命を犠牲にする映像に目頭を熱くさせられた。

 続く雄翔館には、予科練出身の若きパイロットたちが残した遺品や遺書が保存展示されていた。これら当時の記録の数々は、戦争の悲劇を後世に語り継ぐ貴重なものばかりだった。特に、涙を誘ったのは、実筆でノートに書かれた文章そのものが置いてあった一枚の遺書でした。女々しいところの全く無い清々とした文章の行間に、溢れんばかりの生への思慕が募っている様で、何とも身につまされました。一読ください。

予科練平和記念館 雄翔館 昭和35年の駐屯地
遺書
   終わりに: 今、百田尚樹の“永遠のゼロ(0)”を読んでいます。(文庫売上400万部だとか)
         二度と戦争を繰り返さないために、過去を知り、未来を見つめる本ですね。
.
.