思い出の父の勤めた小学校           H21.11.22 
 私が小学3年生の頃(不確かですが)、父が赴任していた今の“湯涌小学校”へ訪ねて行ったことを、朧気に覚えている。茨城の地に来てから50年以上、小学3年生の時からだと60年以上になるのに何で今頃と思われるかもしれない。が、それは今年11月に中学校のクラス会の案内があって、開催場所が湯涌温泉と書かれていたからだった。

記憶の中の父と“湯涌”
 私の家族は昭和21年、終戦の翌年、台湾から引揚げて来た。父は教員で台湾の学校へ赴任していたのだが、復員して実家のある金沢に戻った時にあてがわれた勤務地が湯涌小学校だったのである。当時はまだ金沢市ではなく石川郡湯涌谷村という僻地だった。

 今回、当時 家があった本多町(金沢の旧市街地)から湯涌(現在は金沢市湯涌町)まで、地図ナビで調べてみたら13.2kmとなっており、車で20分程で行けてしまうところでした。しかし当時は、金沢からの交通の便は一日一本位のバスだけだったらしく通える所ではなかった。父は日曜日に出かけて週日滞在し土曜日に帰って来るという生活だったが、それも冬になると雪でバスは動かず、徒歩で出かけて数週間帰らず、たまに帰るときはスキーで滑って戻る(雪が深くて歩けないので)という僻地だった。その頃は雪が多かったのですね、今のような地球温暖化ではなかったでしょうから。
 そんなことを考えると、当時の父の苦労はどんなだったろうと思わずにはいられないが、しかし、それは父だけに限らず、世の中の人すべてがそんな状況だったのだから、当たり前のことだったのかも知れない。

 そんな湯涌小学校へ、小学3年生の私が、一人でバスに乗って訪ねていったのである。夏休みの時だったと思う。バスに乗ることさえおぼつかない3年坊一人、良く行ったものだと思うが、1時間程のバスの時間の長かったことや、バス停に迎えに来てくれた父の笑顔に安堵したことが今も思い出される。閑散とした学校、周りを山に囲まれた小さな運動場、運動場の向こうは雑木林、何にも無い学校だった。その日は父が宿直だったのか、夜の巡視に私をつれて、真っ暗な廊下を懐中電灯を点けて全教室を見てまわった時の怖かったことを覚えている。
 良かったこともあった。それは、湯涌というところは、昔からの温泉場で数軒の温泉宿があり、父はその温泉宿の離れに下宿していたようで、宿の方達に歓迎されて、その宿の中を我が物顔で跳ね回ったような記憶がある。その宿は、今回クラス会が行われた所ではないが「あたらしや」といって今も健在である。
         湯涌は金沢市街地の東南、昔の家(本多町)から湯涌までは13.2Kmの地にある
湯涌小学校を尋ねる
 さて、クラス会は午後5時前に着けば十分なので、その前に湯涌小学校を訪ねてみることにした。
 湯涌までの道は広くて良い道でナビ通り20数分で着くことが出来た。湯涌小学校も難なく分かった。午後3時をまわっていたので、一人の子どもが立ち去った以外は人影のない学校を、失礼して見せてもらいました。鉄筋コンクリート造りの大きな学校で、芝浦中学校と併設になっていた。平成4年に建て替えられたとのことである。 昔の記憶がどこかに残っていないかと学校の周りを歩いてみたが、どこにもその気配すらなかった。校舎の裏側へ回ってみたら、誰もいないと思っていたのに先生2人と6・7人の中学生がいた。私は、事情を述べて、何か記憶に残るものが無いか訪ねて来たことを話すと、「昔のことなら教頭先生が知っているかもしれない」と校舎に入って直ぐ教頭先生を呼んで来てくれた。恐縮したが、教頭先生は丁寧に学校の中から外まで案内してくださり、建て替え前の校門の門柱や、寄宿舎があった敷地を教えて下さった。しかし、いくら教頭先生でも、60年も前のことを知る由も無く、私は、唐突に来て無茶な質問をした無礼をお詫びした。
 元の校舎裏へ戻るとまだ先生や生徒達がいて、私にホカホカの焼き芋を渡してくれた。何で?という感じでぽかんとしていたら、「今、焼き芋しとったがや」と。「この芋わぁ、生徒らがつくったんや、あした全校生で焼き芋会をするさかいに、準備しながら焼いとったがや」と。懐かしい金沢訛りで、まるで旧知の友達の様に話しかけてくれたのだった。嬉しかった。見知らぬ人に親切にしてくれるなんて・・・。やっぱり故郷は善いですね。
 別に、記憶に繋がる発見はなかったが、何となく土地の雰囲気は掴めたし、先生や生徒達との出会いがあって、心に残る訪問になった。
湯涌小学校(芝浦中学校と併設) 校舎裏で先生と生徒達がいた
建て替え前の門柱 以前、寄宿舎があった所

湯涌のことを思い起こして
 さて、さて、私はこの湯涌と言う「子供の時に訪ねた町」・「鄙びた温泉の町」にずっと前から愛着を感じていた。卒業して金沢を離れてからも一度だけだが訪ねたこともある。その湯涌が今、栄えているのか過疎に向かっているのか分からない。学校を見る限りでは鉄筋コンクリート造りの立派さから随分と良くなっているように感じた。しかし、来る前に立ち寄った内灘の兄の所で「白雲楼はもう無い」と聞いたのだ。湯涌の象徴であり羨望の的だったあの白雲楼が無くなったのは何故だろうと、クラス会の後、旅から帰ってもまだ気になってしょうがないので、インターネットで色々調べてたのです。
 湯涌温泉は、その昔、平安時代に「農夫が羽を休める白サギを見て温泉を発見」。江戸時代には加賀藩前田家御用達でもあった歴史ある温泉だ。しかし、いわゆる観光温泉のような遊興や歓楽施設のない清楚なところで、今も「金沢の奥座敷」と言われている通り、品格がある。 この温泉の中心には前記の白雲楼という超豪華ホテルがあった。昭和7年創業、東欧・西欧様式に日本伝統式を織り交ぜて造られた桁外れの豪華さで、庶民には縁のない雲の上の存在だった。父が湯涌に赴任していた時にも当然あったので、その外観だけは眺めていた。戦後の一時期、GHQ(連合軍総司令部)のリゾートホテルとして接収され、マッカーサー元帥をはじめとする多くの米軍将兵が利用し、接収解除後も昭和天皇をはじめ、皇族方にお泊り戴く端正な美しさを誇っていた。館内には豪壮華麗な桃山文化の粋を取り入れた三百畳の大広間を始め、宮本三郎画伯の「日本の四季」が描かれた洋食堂や客室端々に至るまで日本的な良さが満ち溢れ、一大美術館の雰囲気をも漂わせていたらしい。
 その白雲楼が、昭和の終りと共に衰退、平成10年に廃業となった。観光地でもない、ただ気品だけの殿様的存在では今の世の中に受け入れられなかったのである。湯涌の象徴、金沢いや、北陸のシンボル白雲楼が消えたのだった。
東洋一と称された 当時の白雲楼
 地元行政は湯涌温泉に活気を与えようと「江戸村」を造ったり観光誘致に躍起になったが、やはり思うようには行かずこれも程無く閉鎖になった。残っているのは、冬の風物詩・「氷室」ぐらいだろうか。冬に「氷室仕込み」と言って、地下蔵に雪を詰め夏まで貯蔵して、藩政期には徳川将軍に献上したとされる伝統行事で、最近は、観光客に詰めてもらって、夏には雪を沖縄へ空輸してプレゼントするなどと工夫を凝らして続けているが、温暖化現象で、雪が少なく他所から運んでくるという苦しい状況になっているようだ。結局、知る人ぞ知る鄙びた温泉地となって、9軒の旅館が静かに営業を続けているというのが実態の様である。

もう一度 湯涌小学校のこと
 父の勤めた記憶の学校、小学3年坊主が感じた学校とは隔世の今の学校。あの田舎町に、周りの景色とは不相応な鉄筋コンクリートの校舎が建っている。数百人規模の学校に見えたが、実際には、小学校が49人、中学校が29人とのこと。それも、小学3・4年と5・6年は合併クラスになっている。やはり予感した通り、人数的には“閉校間際の学校”になっていたのである。(校下の現在の人口1,114人、世帯数463戸、20歳未満13%、60歳以上38%。 比較的多かった昭和50年には1,669人、369戸だったと記録されていた。)
 金沢の奥座敷の“湯涌”が、昭和初期の“僻地”から中後期にかけての“繁栄”も、平成に入って停滞、“過疎化”の気配である。正に湯涌の町は、白雲楼と命運を共にしている様であった。それにしても、金沢の中心から車で僅か20数分で行ける、言ってみれば郊外ベットタウンになっても良い距離なのに何故このような現象が出ているのか、疑問は残る。

 とは言え、このような地方の現象はどこにでもある問題である。今、私が住んでいる町も、一頃の繁栄は影を潜め、仕事が減って来ている。仕事が無いから人は仕事を求めて大都会へと出て行くしかない。その結果、労働人口が減って地方の税収が減り、地方の財政が逼迫して先が暗くなる。学童は減る一途を辿る。

 こんな湯涌の町、これで終わってはまるっきり寂しい話であるが、そこはさすが観光と産業の都市・金沢市である。湯涌小学校には、小規模特認校制度を採用して活性化に力を入れている。小規模特認校とは「豊かな自然環境や小、中併設校で、少人数である利点を生かして特色ある教育を行い、市内の他の通学区域からも転入学することが出来る学校」です。都会の喧騒や多人数教室では得られない家庭的な心の通った教育が出来る羨ましい学校を目指しているようです。
 だからかどうか、他所者の私を親切に応対してくださった教頭先生、焼き芋会の準備をしていた生徒達が皆、明るく伸び伸びしていたことが思い出された。


 湯涌は、また、行きたい所だし、住み良い町・教育の町そして心と身体の湯治場であって欲しい。
                                                 完