陰事の如く<前半>





「左翼部隊が開戦致しました」
「わかったわ、報告ありがとう」
右翼に展開する孫尚香軍は自分達の任務を遂行する為、この報告を待っていた。
「みんな、行くわよ!」
尚香の掛け声に護衛兵を含めた少数の兵が腕を高々と上げる。
馬を進めていると後ろから護衛兵の声が掛かった。
「姫様、少し早いのでは?」
「あ、あぁ、みんな徒歩だものね。ごめんね、少し力んじゃってるみたい」
「大丈夫ですよ、姫様の力を信じているからこそ周瑜様も任務を与えて下さったのですから」
「そうね、信じてくれてるのよね」
敵将の方へ行けないのは残念ではあったけど、人質救出という役割を与えてくれた事に感謝している。
この役割をしっかり果たそうと胸に決意した。
確実な足取りで目的地に向かっている最中、前方から砂埃と共に多くの村民らしき人々が
此方に向かって駆けて来る。
「これは一体?」
「とりあえず話を聞いてみましょう」
我先にと向かって来る人々の中から、適当に選んで話を聞いた。
賊の連合軍にほぼ全員に近い村人が捕まり、今日まで閉じ込められていたのは事実だが、
何があったかわからないが逃げ出す事に成功するものが急に増え、それに習って
みな逃げ出したのだという。
「なら、全員逃げ出せたのかしら?」
「それは、わかりません」
力なく項垂れる人に礼を言って、この先にある呉の本陣へ向かう様に教えた。
しばらくの間は村には帰れないだろう。
まして現状がどうなのかわからない。
話を聞くだけではまだ何がどうなっているのかわからない為、やはり行くべきだろうと
思案していると、一人の男が駆け寄ってきた。
「姫様、賊はまだ二人ほど残っていました」
「まだいるのね、それで村人はこれで全員?」
「それが、まだ数人捕まっていて・・・もしや殺されているかも」
「何ですって!?すぐに案内しなさい」
「はい!」
「姫様、お待ちください!!」
「あなた達は民の安全の確保を!それが終わってから来て頂戴」
言うが早いか、尚香の姿はあっという間に消えて行ってしまった。
「どうしますか?」
護衛兵隊長に部下が恐る恐る尋ねた。
「仕方が無い、一番近くにいる将軍に連絡をし、我々は村民の保護を優先とする!」
「はっ!」
走り去った部下を見送って、尚香が消えた方向へ目線を向ける。
「・・・姫様、何か嫌な予感がするのです」
呟いた声は砂埃に絡められる様に消えていった。




自信はあった、けれど驕っていたつもりは無いのに・・・どうして?
今のこの状況は何だというの?
「あーあ、簡単に騙されてくれちゃって」
「・・・っ」
「お、もう声も出せねぇか」
キッと睨み上げるだけで、声も出ない。
「さっきの矢には痺れ薬が塗ってあったからな」
痺れ薬?迂闊だった。
この男に案内された場所で待っていたのは、四方から飛んで来た弓矢。
緩やかな早だったから避けられると思ったが、一、二本の矢が横腹を掠ってしまった。
「安心しろよ、痺れはじき取れるさ・・・まぁその前にこれを飲んでもらうがな」
眼前で揺れる瓶から聞こえる液体の音。
急に怖くなる、何を飲ませようというのか?
「そう怖い顔すんなよ、お姫様」
「・・・っく」
顎を持ち上げられ、唇に冷たい瓶が当てられる。
振り払おうと手を上げたつもりが動かない。
口の中に広がる嫌な甘味に眉を寄せた。
喉を通る冷たい感覚に吐き気を催すが、戻って来ない。
「お頭はな、あんたを所望なんだと」
どういう事?言葉には出せないが、視線で訴えた。
目の前の卑賤の男はニヤついて答える。
「元々あんたを手に入れる為の戦だ。で、抱き飽きたらそれこそ人質として使えるだろう?」
「っ!?」
「それか、あんたを飼い慣らして呉を乗っ取るって案もあるぐらいだぜ」
誰が飼い慣らされるもんですか!と睨み上げるが、臆する様子は見られない。
「あんたが飲んだ液体の正体知りたいか?」
「・・・」
「媚薬だよ媚薬、裏医者のとっておきのな」
「!」
卑しく笑い声を上げる男から視線を逸らす。
どうすれば良い?どうすれば、良いの?
「さて、痺れが取れない内にさっさと戻るか」
尚香の身体を担ぎ上げ様とした刹那、平手が入る。
張った彼女本人も驚いていたが、身体が動いた事に安堵した。
「チッ、もう動けるのかよ!」
「動けるのなら、こっちの・・・!?」
立ち上がれたと思ったのに、再び地に膝を落とす。
身体が熱い、ガクガクと震えが起きる。
「何、これ?」
「・・・もう効き始めたか」
こうなる予定はもっと後の筈だったんだがと愚痴を零しながら尚香に近づく。
しかし足元に刺さった弓が、男の動きを止めた。
「誰だ!?」
「おーおー在り来たりな科白だな」
上半身に龍の刺青、足を進める度に響くは鈴の音。
「き、貴様は!」
「興覇?」
何とか上げた視線の先に見えたのはやはり甘寧の姿。
「くそっ!まだ仲間はいるんだ」
おい!と号令をかけるが返事は無い。
「仲間ってのはそこに転がる奴らの事かい?」
茂みから堂々と出て来たのは凌統一人だった。
地に転がる賊徒達は既に絶命している。
勇将二人に前後を阻まれ、男は成す術も無くあっさりと縄についた。
「姫、大丈夫ですか?」
うずくまる尚香に触れようとした刹那、その手を払われる。
「触らないで!」
「姫?」
怯える様な動きを見せた尚香に、甘寧の眉が動く。
「おい、まさかだろ?」
「どういう事だ?」
チッと舌打ちをして、先程の男の胸倉を掴む。
「てめぇ、姫さんに何しやがった?」
「くっく、見りゃわかるだろ?よく効く媚薬を飲ませてやったのよ」
「解毒剤は!?中和剤ぐらいあんだろ?」
「ねぇよそんなもん、最初から狂わせるのが目的なんだからな」
それにあったとしても、もう手遅れだぜと嘲笑う男の首に深く一刀入れて地に落とす。
「くっそ、おい凌統!姫さん連れてあそこの小屋に行ってろ!」
「なっ、お前はどうすんだよ!?」
「取り合えず姫さんの護衛の連中ん所行って来る」
馬の背にさっと跨ると呆然とする凌統を置いて行ってしまった。
甘寧の背中が見えなくなってしまってから、尚香の方を再度向く。
指示された小屋まで遠くは無いが、彼女はそこまで歩けないだろう。
触るなと言われていたが腹を括って思い切って抱き上げた。
「っあ!」
「少し我慢して下さい」
「・・・っん」
艶っぽい声に焦りを感じながら、足早に小屋へと向かう。
「公績、近くに・・・川か井戸はない?」
「井戸だったら小屋の前にありますけど」
「そこで降ろして」
その言葉を最後に彼女は目を瞑る。
上気した頬と、薄く開いた唇から漏れる呼吸音は酷く色っぽかった。
ただその眉根が寄せられているので、苦痛を感じている事は容易にわかる。
ちらりと一瞥した後は、足を早めた。
頭の中は混乱している、小屋まで行ってどうすれば良いのか?
自分が何を出来るのか?
考えれば考える程に混乱は増していく。
とにかく、とにかく今は彼女の願いどおり井戸の前へ急ぐ。
僅かな距離がいやに遠く感じた。
井戸のすぐ前で彼女を降ろし、井戸の水を桶に汲む。
桶を尚香に渡すと、何を思ったか彼女は一気に頭から被る。
「姫!?」
「駄目、もう一回・・・公績、水を頂戴」
「風邪をひきます!」
「だって、だって熱いの!気が狂いそう!!」
自分の腕を爪を立てて抱き寄せる。
深く食い込む指先を彼が慌てて剥がす。
しかしその行為が、更に尚香の身体を疼かせてしまう。
悲鳴にも似た高い声を上げてうずくまる。
「・・・こんなの、こんなの私じゃない!!」
頭を抱え涙を零す彼女を反射的に抱きしめていた。
「くっそ!どうすれば・・・」
「ごめん、ごめんね公績・・・あなたまで苦しめてる」
「姫のせいじゃ!」
あぁ、そんな悲しい顔をしないで。
苦しい笑顔が痛々しい。
「もう、良いから・・・私から離れて」
胸に押し当てられた手が、熱い。
「・・・姫」

あなたを傷つけても、救う道を選んでも良いですか?