そんな夜




初夏の季節、この爽やかな気候にそぐわない話題がこの場所で咲いていた。
呉の軍師の呂蒙と陸遜、そして凌統の三人。
その三人が広い庭のど真ん中で話しこんでいる。
この場所にあるのは丁度良い木陰を作ってくれている木ぐらいなもの。
ここからなら360度全てに視線がいくので人がいればすぐわかる。
もちろん、近くに人がいない事は確認済みだ。

「間者(スパイ) が入り込んでいる?」
呂蒙の問いに陸遜は軽く頷いて返した。
「えぇ、このところ山賊の類が暴れているのですが、毎回一人も捕らえる事が出来ていません」
「つまり、誰かが情報を流していて、軍の動きを把握している、と」
「はい、まだ山賊程度で収まっているから良いのですが、これが国同士での戦の時に流されると
なると忌々しき事態、一刻も早い対処をしないと」
「それで、何か策はあるのかい?」
はい、と力強く頷いた陸遜から今回の策を教えられる。
「なるほど、それで良いだろう」
「それではお二方、よろしくお願いします」
「はいよ」
それぞれ別方向へ散る三人を見送って、その場所へ忽然と現れた人物はふぅんとだけ頷いた。



夜も既に更けこんで城中の者達が寝静まった頃、凌統は回廊を足音を立てないようにゆっくりと歩いていた。
人の気配はまだ感じられない。
「軍師殿の策が旨くいってりゃ、そろそろ動くはずなんだけどな」
そう独り言を言った刹那、回廊の先に僅かに動く気配を察知する。
「やっとおでましか」
武器の具合を確認して、音だけは立てないように進む。
気配を追って進み、後ろ姿を確認できた。
長い髪に細い体。
「・・・女かよ」
チッと舌打ちをして、速度を上げる。
この先にあるのは武器庫、細工でもされようものならひとたまりもない。
だが相手は一人、しかも女なら応援を呼ばずとも捕らえられるだろう。
薄い衣を纏っていただけだし、武器も持っていなそうだ。
一呼吸ついて角を曲がった瞬間に飛び掛る。
腕を捕ろうしたが、振り向きざまに仕込み刀で応戦してきた。
が、凌統の姿を見た彼女の動きが鈍る。
その隙をついて両の手首を掴んで床に押さえ込む、彼女が何か言おうとしていたが聞いてる暇など無かった。
押し倒す形になって彼女の顔がようやく拝めたと思ったら、言葉が出ない。
その顔には見覚えがありすぎる。
この国には珍しい綺麗な翡翠色の瞳。
「もしかして・・・姫?」
「もしかしなくても、その姫よ」
「何でこんな所にいるんですか!?」
「その前にこの手外してよ、結構痛い」
言われるまでずっと握っていた事に気づかなかった。
しかも衣服がはだけて際どいところまでめくれ上がり、胸もギリギリで隠せている状態。
うっわー!と思いつつ視線が外せない。
「公績?」
「あ、すいません」
やっと開放された尚香は急いで衣服を戻す。
手首が赤くなっているのが自分のせいとはいえ痛々しい。
「あの、ほんとすいません」
「え?あぁこれ、良いわよ別に」
「良くないでしょーよ。痣になるかもしれないってのに」
「痣になってもすぐ治るわよ。それに、あの場合しょうがなかっただろうし」
「そうだった!なんでこんな時間に姫様がここにいるんですか!?」
痣も気になるがここに尚香がいる事も重要な事だと思い出す。
当の彼女はあっけらかんと答えた。
「だって、間者が入り込んでるって言ってたじゃない?だから私が捕らえようかと思って」
捕まえたら今度の戦に連れてってもらえそうじゃない?と嬉しそうに付け足した。
この姫は自分の立場とか絶対わかってない!とため息が漏れる。
気を抜いたら肩からがっくり落ちそうだ。
「・・・何で間者の事知ってるんですか?」
「あぁ、公績達が話してるのを聞いちゃったのよ」
「どこで?」
「木の上」
「・・・・・・・・」
今度こそがっくりと肩を落とす凌統の姿がそこにあった。


尚香は上目使いで凌統の顔を覗き込む。
視線が交わった瞬間、彼は嫌な予感がした。
「ねぇ公績〜」
「ほら来た!」
「何が来たのよ?」
「いや、姫がそんな声を出す時は何か裏がある時だから」
「むっ!何も裏なんて無いわよ。ただ間者を捕まえに行こうって言おうと思っただけ」
「・・・やっぱり」
あぁぁぁ、何でこんなに悪い予感てのは当たるもんなのか・・・もうこのまま部屋に帰りたい気分になる。
「ね、良いでしょ?」
「駄目です」
ねだる尚香にきっぱりと断る。
「何で?」
「何でって、わかるでしょう?姫様は」
「女だからとか言わないでよね!」
その「女」を利用して間者を捕らえようとしていたのは誰だっけ?
と頭の中で思うが口にはしなかった。
言ったら最後、倍返しで済まされるわけがない。
「とにかく、部屋まで送りますから」
部屋へ連れて行こうと促すが、尚香は歩こうとしなかった。
振り向いて伺うと、てっきり不機嫌だと思われた表情は怪しい笑みを浮かべている。
着けていた髢と刀を投げ捨て、再度怪しく笑う。
「私が今ここで叫び声をあげて泣きじゃくったら、あなたどうなるかしらね?」
「げっ!」
「試してみましょうか?」
「や、やめてくださいよマジで」
ここには彼女を想う人間が山ほどいるというのに、そんな事をされたら・・・絶対絶対殺される。
孫堅を始めとして、孫策も孫権も一家総出で来るだろうし、陸遜や呂蒙、
更に甘寧や周泰達まで一斉に駆けつけるはず。想像するだけで恐ろしかった。
これはもう、諦めるしかない。
「わかりましたよ。ただし一人で突っ走らないで下さいね」
「わかってるって!ちゃんと公績にくっついてるから」
ね!と差し出された手に、自分の手を重ねて優しく握った。
触れてる部分の温度が心地良い。
思わずこのまま時間よ止まれと願った。



孫呉の夜はまだ長い。